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言葉をなぜ まなぶのか?

Nakay702の回答

  • Nakay702
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回答No.28

「お礼」への書き込みをありがとうございました。 > 同じひとつの言語の中だけで意志疎通をおこなっていては 《自己を知り得ないか?》 ⇒はい、確かに「同じ一つの言語の中だけで意志疎通をおこなっていて」も、自己を知り得ます。ただ、「他の同類との比較から把握できる自己」、すなわち、「自己の特徴・特殊性・平均値との関係…」などは分からない、という意味です。 例えで恐縮ですが、父は家と駅を結ぶ道を1つ(A)知っています。兄は、3つ、例えば歩き(A)・自転車(B)・車(C)での最短路)知っています。両者とも「知っている」ことは共通ですが、父は、家と駅の間のどこどこに何々があるなどは詳しいでしょうが、両者を結ぶ通路の比較や選択はできませんね。逆に兄は、両者を結ぶ通路の比較や選択はできますが、(A)路については父より詳しくないでしょう。言語の場合も、これとまったく同じではありませんが、ある種の類比関係を読み取ることができると思います。 別言すれば、「同じ一つの言語の中だけでの自己認識」は、文献学(philology)的な知識であり、「他言語との比較における自己認識」は、言語学(linguistics)的な知識である、と言えるかも知れません。大学の学科や科目名を命名・呼称する際、前者の研究を重んじる場合は「国文学科・国語学」とし、後者の研究を重んじる場合は「日本文学科・日本語学」とするようです。 > ☆ 認識・見識・世界観などを涵養することにつながるものと信じます。 > ★ そうなんですが・つまり そのことにマチガイないと考えたあとでなのですが それでも《世界観》のように全体観としてのものの見方については 言わば言葉を超えて 何がしかのヒラメキのおとづれ〔を受け留め受け容れたこと〕によって それをかたちづくる。といった見解もあり得るように思うのです。 > その意味は したがって――母語については大いにまなびますが――外国語は知らなくても そのような《もののあはれを知る》といった世界認識は得ることが出来るかも知れない。 ⇒そうですね。「何がしかのヒラメキ」や「世界認識は得ることが出来るかも知れない」ことはおっしゃるとおりだと思います。ただ、その場合言えることは、「少なくとも1つ以上の言語的下敷き」があってのことでしょう。この点について私は、外国語の知識を絶対的な前提条件だと主張する考えはありません。「言語的束縛がある」とだけ申しあげておきます。時に我々は、「言語とは無関係に概念が心に浮かぶ」ように感じることがありますが、基底に言語の働きがあることを忘れているんですね。空気の存在を忘れるように、言語の存在と働きを忘れた結果の錯覚でしょう。言語を所有しなければ、それによって構成される概念を抱きようがないはずです。 > ☆ 言語はすべからく、有限個の材料を使いながら、無限の表現を可能とします。つまり、閉じた体系でありながら、無限へつながる開いた機能を有するということで、そのあたりの仕組みを学習する過程で我々は無意識裡に頭脳を鍛えていることになります。 > ★ と言っておられる論点は どうか? > わたしなどは 少し違った角度から こう考えたりします。すなわち 書きことばの効用があるのではないか? > すなわち 文字の効用ですね。 ⇒おっしゃるとおりだと思います。けだし、「文字も言語のうち」ですから。違うことは、音声が「第一の記号」であるのに対し、文字はその音声の記号化ですから、「第二の記号」もしくは「記号の記号」ということになる、ということだけではないでしょうか。 > 最後の段落でも 言語の持つ大きな役割と言語による人間の拘束というあり方とを ひっくるめて捉え 論じておられるようですが これは なおわたしにはピンと来ていません。役割りの重大さには納得し支持しますが。 ⇒当然ながら、我々は言語を使って考えます。ということは、逆から言うと、「言語を使ってしか考えられない」ということのようで、ある意味「言語がなければ考えられない」ということでもあります。「我々はみな自分の用いる言語によってがんじがらめに拘束されている」とサピア・ウォーフが言ったとき、これを「仮説」(hypothesis)としたのは、実験などで検証してみることができないからでした。しかし、これが「理論」とも言えるほどに確からしいことが、いろいろな形で明らかになっています。 例えば、これはフランスであったことです。ある人が交通事故で言語中枢(大脳の左額第三回転部)を破損しました。リハビリの手始めとして、「色の識別」をやりました。床にばらまいた赤青黄の色紙を、それぞれ同じ色の赤青黄の箱に分けて入れるように指示しました。結果はめちゃくちゃでした。「すわ、色覚異状」と考えて、あらゆる検査をしましたが、何ら色覚異常はありませんでした。何が問題か。やはり「言葉を失ったため」、という結論になりました。例えば、赤を識別するとき我々は、「血の色、太陽の色、ある種の花の色…に共通な要素」というような意味づけの記憶に基づいて行う。カシオペア座はWの形をしている、北斗七星は柄杓の形をしている、などの意味づけがあるからこそ、それぞれ識別できるわけで、それがなければ無数の星のうちの幾つかとしか認識できません。(なお、幸いなことに、言語中枢を失っても、周辺の脳にその機能を移転することができるそうで、上例の場合も長年のリハビリの結果、ほぼ日常生活には支障ないほどまでに回復したと聞いています。) そんなわけで私は、再度確認させていただきます。「人間にとって、一般に言語(外国語と限りません)は大きな役割を持つ」、「人間は、特に知的営為において(普段自分の使っている)言語によって強く拘束されている」。その意味で、我々にとって言語の学習は、極めて意義の深いことである。 以上、再伸まで。

bragelonne
質問者

お礼

 つづきましてのご回答をありがとうございます。  そうですね。乗りかかった船ですので 《母語ひとつによる思想の充実》派に立つことにしますが:  その場合には    文献学ひとつで研究・思索をおこなうにとどまる。   比較対照をとおしての言語学には届かない。   国語学と日本語学との違いである。  ということのようですが そうですね 父と兄との世界認識の違いというタトエで考えてみます:   父はひとつの道のりしか知らないとき それでも   道はずっと続いていますから   知っている道のほかにも 道はいくつかあるのだ   とは知っています。当然です。    母語のほかに 外国には 違った言葉が話されている   とは知っています。  とすれば そのようにブラックボックスとなっているということは 承知しているわけです。それを知る可能性は 潜在的に じつは開かれています。  このような言わば《心の明け――つまり 閉じていないということ――》が じつは とうといものであると考えられませんか?  ★ 「他の同類との比較から把握できる自己」、すなわち、「自己の特徴・特殊性・平均値との関係…」などは分からない  ☆ というところのブラックボックスは 父にとって わくわくする未知の要素ではあっても 自己閉鎖的になるものではない。(なる場合もあるけれど それは 決まっていない)。  ぎゃくに 外国語をふたつ・みっつ知ったという場合 それによってブラックボックスが確かに開いた。けれども そうして未知でなくなり さらにはわくわくすることがなくなったとすれば むしろそのことが こわい。かも知れない。知ったかぶりになる可能性が出て来るから。  おそらく 知らないより知ったほうがよいと考えますが 知った場合のほうがつねに有益で有利な立ち場にあるとは 必ずしも限らない。とまでは 留保条件をつけたほうが よいのでは? という物言いだったでしょうか。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  この点について私は、外国語の知識を絶対的な前提条件だと主張する考えはありません。「言語的束縛がある」とだけ申しあげておきます。  時に我々は、「言語とは無関係に概念が心に浮かぶ」ように感じることがありますが、基底に言語の働きがあることを忘れているんですね。空気の存在を忘れるように、言語の存在と働きを忘れた結果の錯覚でしょう。言語を所有しなければ、それによって構成される概念を抱きようがないはずです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《言語的束縛》について少し分かったように思います。  たとえば あたらしい造語の場合を考えてみます。  それまでの思考の枠組みからはみ出したイメージを得て これを概念化し言葉としても表わす。  このとき それまでの概念≒ことばとは違った何かあたらしいものが 言い表わされることになりますが それでも そのために用いられるのは いままでにあった言葉である。概念のズラシなどが ともなわれている。  たとえば アマアガリと言えば それはまだ市民権を得ていませんが およそあたらしい概念として分かるはずです。市民から公民への出世のことです。もっぱらの公民たるアマテラスに成ることです。末は博士か大臣かといったようなことです。  さらには アマアガリ・シンドロームと言っても だいたい分かるのではないでしょうか。  これは スサノヲ市民が生活日常で使っている・あやまちうるスサノヲ人間語の世界から あやまち得ないアマテラス普遍語の世界へと転出し変身することを言っています。  普遍語とは 科学語でありそれに裏打ちされた倫理規範の言語です。(アマテラス科学語およびアマテラス人格語です)。が もし仮りにこの普遍規範語のみを駆使するようなお役人ことばの一色になるとしたら それは やばい。片寄った言葉しかしゃべることが出来なくなる。よって 症候群である。  要するに アマテラス公民は 自分たちのあやまちを認めようとはしませんね。それを指して シンドロームと言います。一般に市民もが そういう傾向を帯びるなら 症候群だと言えると考えます。  《あやまちうるスサノヲ人間語 と 普遍性をもとめるアマテラス科学語との人間人格的で構造的な配置》が のぞまれます。  といった事例を出しましたが これは 確かに従来までに使われていた言葉をあらたな概念として用いた。に過ぎない。その限りで ひとは言語に拘束されている。ですね?  ただ。ただです。ただ このようなあたらしい知見〔だと思うのですが〕は ひとつの言語たる母語の中でだけでも 得ることは出来る。かも知れません。  ――といったことを 問題提起しましょうか。  次のご議論にも なお疑問を呈しましょうか。  ★ ・・・リハビリの手始めとして、「色の識別」をやりました。床にばらまいた赤青黄の色紙を、それぞれ同じ色の赤青黄の箱に分けて入れるように指示しました。結果はめちゃくちゃでした。  ☆ この事例にかんする限りでの質問ですが:   この事故による脳の障害者は   赤青黄という色のそれぞれの名(ことば)を知らなかった   だけであって    色紙の赤と青と黄とはそれぞれ区別したのでしょうか?  という問い返しです。もし区別は出来たのであれば ただその色の名(ことば)を知らないようになっただけではないか? です。  言いかえると そこでは ふたつの領域があって それらの分類があいまいになってはいないか?  すなわち 知覚としての――知覚としてだけの――色の識別なる領域と そしてそれらの色を言葉で区別しつつ悟性や理性やで識別する領域とのふたつです。    言語中枢を失った場合 感覚による識別はしているのかどうか。そして ただし 言葉による区別はすでに出来なくなったことは 事実としてある。  まだ分かりませんが   ★ 「我々はみな自分の用いる言語によってがんじがらめに拘束されている」とサピア・ウォーフ・・・〔が言った〕・・・「仮説」  ☆ は 知性の領域の問題であって 五感についての領域には およんでいない。ように思うのですが どうなのでしょう?  もののあはれを知るのは 理性もかかわっているかと思いますが 身と心との全体としての自然本性にもとづくのであろうと考えられます。そしてどちらかと言うと 身のほう・つまり感性のほうに〔も〕 重点が置かれてもよい。こう考えています。

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