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競争社会

弱肉強食の競争社会を、釈迦やイエスは肯定するのでしょうか?

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noname#7082
noname#7082
回答No.14

(#11)【…。ただ、今強く疑問に思っていることは、競争社会の根底にある競争意識というものが強いことは、悟りを開く上で果たしてプラスになるのだろうかということです。】 #.11 です(参考になれば良いのですが…) 質問者様の【回答に…礼】欄に記されている、疑問?“悟りを開いた人”のことで、再度 私見を述べさせて下さいね。 『仏陀&イエスが生きていた当時は“録音機器は無かった”』 仏教教典=仏陀が入滅なさった 約500年後に“根本分裂”したと云われている。 http://www5.ocn.ne.jp/~kaba/thaibuddhism.html キリスト聖書=西暦325年に開かれた、ニケーア会議で、悟っていない人達が“編纂した”と云われている。 http://www2.wbs.ne.jp/~spirit/shohousen.htm *** *** *** …で、もし?質問者様の 思想に さしつかえなければ下記URLを参考にされて、競争意識&本当の幸福の“疑問解消”になさっては いかがでしょう。 現時点での わたしの知っている“現代の悟りを開いた人情報”です、この方々以外にも存在なさっていると思いますが、(独断による)悟りを開いた確実性の高い情報と確信しております(録音テープなども在ります)。    *******   ******* 霊鷲(太母さん) http://www.platon.co.jp/~tamo/home.shtml OSHO (1931-1990/1,19) http://www.osho.com/index.cfm?Language=Japanese ジッドゥ・クリシュナムルティ (1895-1986) http://www.at-m.or.jp/~khoshino/j.k.htm ラマナ・マハリシ (1879~1950) http://homepage.mac.com/iihatobu/spiritual/ramana/self.html G・I・グルジェフ (1866?or1877?-1949) http://www.geocities.co.jp/Technopolis/7378/    *******   ******* {悟りに関して、開いた方に聴くか?、わたしも含めて 悟っていない人間に聞くか?…ですよね。 ナマステ}

TEDSW
質問者

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回答有難うございました。 >悟りに関して、開いた方に聴くか?、わたしも含めて 悟っていない人間に聞くか?…ですよね。 そうですね。釈迦やイエスの考えを広めてきた人のほとんどは釈迦やイエスの境地には達していないと思いますので、そういった人達が伝えてきたものの多くは本来の教えとは乖離しているように思えます。 そういった意味では、釈迦やイエスの境地に達していると思われる人の考えを知れるメディアを利用することは、非常に有益なことだと思います。 参考URLのクリシュナムルティのところですが。 >「個々の人間にこそ希望がある。社会にも、諸々のシステムにも、組織された宗教にも >希望はない。希望は、諸君の中に、そして私のなかにあるのだ」 >腐敗した社会への順応も宗教生活への逃避も否定する彼は、日常生活における「ある >がままの自分」に無選択に気づくときだけ<真の実在>へのドアが不意に開くと言う。 >たえず何かになろうとする心理的習性は、根深い条件づけの結果であり、それがいかに >破壊的かに気づくことは容易でない。しかしこの心理的メカニズムをとめないかぎり、わ >れわれは永久に本然の生を生きることはできない。いま生きるかわりに、いつか生きる >ため社会や自分自身が立てた目標に向かってたえずせわしなく、不毛な努力を繰り返し >続けていくだけである。 社会に順応することも競争意識を持つこともなく、あるがままの自分を受け入れることが、真の実在へ近づく道であると言われているように感じ取れました。 クリシュナムルティが悟りを開いている確たる証拠はないでしょうが、私には彼が競争社会を肯定しているようには思えませんでした。

その他の回答 (13)

回答No.13

よく実情を観察すれば、競争社会は確かに弱肉強食で、それは紛れもなく無慈悲な世界です。 しかしもし、アダムとエバのお話の様に人間が元より罪を持つ堕落した存在だとするなら、競争社会から発生する様々な悪要因は結局のところうまくバランスが取れているのではないでしょうか? この世界に輪廻転生を繰り返し、前世で殺した者は現世で殺され、前世で蹴落とした者は現世で蹴落とされるという具合に。 つまり人知を超えた大局的な時間の輪の中で、パレスチナ問題の様な憎しみの連鎖反応が起こっているものと推測します。 イエスが右の頬を打たれたら左をさし出せと言ったのは、愛のある方向に行くつもりなら、やられてもやり返すな、元々持っていた罪が1ポイント減ったのだ、やり返せば+-0で無意味だが、もう一発打たれれば2ポイントゲットだぜ♪という事で、人類の罪の清算に必要不可欠な簡単な数学です。逆の立場で加害者側からみれば、2発打てば2ポイント分は愛から遠ざかる。いつかはその分の加害ポイントを清算しなければならないのに、無知ゆえに人は加害を繰り返す。それに見かねた神は、一番ベストだと思われる時代にキリストを派遣し、当時の人々に解り易い形で真理を教えたという事なのだろうと思っています。かなり独断ですが。 結局のところ自然界と同じで、この悪循環さえもうまくバランスがとれていて、だから否定はしないだろうと思いますが、悪い方向に流されている者に対しては もっと賢くなれよ!という事は思うはずです。 一言でいえば、この時代の競争社会も、愚か者のお勉強期間だと思っているのではないでしょうか。

TEDSW
質問者

お礼

回答有難うございました。 >無知ゆえに人は加害を繰り返す。 >それに見かねた神は、一番ベストだと思われる時代にキリストを派遣し、 >悪い方向に流されている者に対しては >もっと賢くなれよ!という事は思うはずです。 >一言でいえば、この時代の競争社会も、愚か者のお勉強期間だと思って >いるのではないでしょうか。 そうかも知れませんね。ただ、ちょっと疑問に感じたことがあります。意識を持った全知全能の神が存在するとお考えのように受け取れたのですが、もしそういうことであるなら、神の全知全能の力を持ってして、愚かな人間を神と同等の存在にしてしまえば、「悪い方向」とか「もっと賢く!」などと神が由々しく思うこともなくなり、全てが丸くおさまるのになぜそれをしないのかな、と不思議に思いました。

  • raimu0331
  • ベストアンサー率13% (17/125)
回答No.12

競争社会の定義が少しずれているように感じます。 競争社会って「自分のスキルを磨くこと」 ではないですか? 人の足をひっぱって、蹴落としてなんてしてる人は 競争社会の住人じゃないし、上位入賞はありえません。 グローバルな舞台に立っている人、例えばサッカーの中田や野球の松井などが「自分のスキルを磨くこと」 以外の人を蹴落とすような事をしていたと思えません。そんな自分の目の前の人にしか通用しない事を して経って世界には出られません。 ライバルは自分自身です。と言う言葉は本当だと思います。 なので、「自分のスキルを磨きその結果として なんらかの格差が生れる事、生れる社会」は 肯定されると思います。

TEDSW
質問者

お礼

回答有難うございました。 >なので、「自分のスキルを磨きその結果として >なんらかの格差が生れる事、生れる社会」は >肯定されると思います。 そうかも知れないですね。ただ、格差を手に入れたいがためにスキルを磨くということがあった場合、その意識構造は、釈迦やイエスが説く真の意味での幸福につながりやすいものであるのかどうかについては、疑問が残ります。

noname#7082
noname#7082
回答No.11

【弱肉強食の競争社会を、釈迦やイエスは肯定するのでしょうか?】 独断で失礼します。 (もし 生きていたら)釈迦やイエスは 競争社会を どぅ判断したか? 釈迦(仏陀)の生きていた 約2千500年前の社会が 弱肉強食の競争社会だったか? どぅか?…? 歴史の専門家ではないので 解りませんが、もし 当時が 競争社会ならば、釈迦(仏陀)は 肯定したでしょうか…? 当時の社会と 今の社会が違うとしても、釈迦(仏陀)は、王家の息子だったので 今で言う“トップの後継ぎだった”。 (競争とは 無縁の世界で育ったにせよ)現在の“競争社会”の “ランナー” が求めている “モノ” は 殆ど手に入れることが 出来た。と思います。 しかし、仏陀は その“地位”を 捨て、真理を求めて “探求の道”に入ったのですよね…。 わたしは さとりが どのようなものか知りませんが、仏陀の教え『タタータ・如』から判断すれば、どんな社会であろうと 肯定も否定もしない。と思います。 キリストが生きていたら…。 『わたしに ついてきなさい…』でしょうか? *** *** *** 宗教について、わたしの師から聴いた話しです、『仏教に 神は(いら)ない。キリスト教には 神がある。』 ので、回答者が、キリスト教の方ならば、神について 云々なさいます。 仏教徒の方なら 神について 云々できない。 (良い・悪い、と言ってるのではなくて、仏教とキリスト教との違いの参考になれば…と感じましたので。)

TEDSW
質問者

お礼

回答有難うございました。 >どんな社会であろうと 肯定も否定もしない。と思います。 そうかも知れないですね。ただ、今強く疑問に思っていることは、競争社会の根底にある競争意識というものが強いことは、悟りを開く上で果たしてプラスになるのだろうかということです。 >仏教徒の方なら 神について 云々できない。 そうですね、仏教では神云々について語ることはないですね。ただ、悟りを開いた人のことを便宜上神と呼ぶことに関しては、個人的には抵抗感がないです。

  • rankle
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回答No.10

 釈迦(ゴータマ・シッダルタ)の悟りに関する有力な伝承には四諦の知が含まれています。簡単に言ってしまえば「この世のあらゆる苦しみから解脱する」ということです。  このことに関して考えれば、「強者から与えられる苦しみからの解脱」というのが、この四諦の意味するところですから、弱肉強食の競争社会というもの自体は特に否定的にとらえてはいないでしょう。そもそも、そういった世界からの解脱こそが釈迦の悟りの答えとなっているわけですから、むしろ、釈迦の悟りは弱肉強食の世界なしには生まれぬものと考えてよいでしょう。  一方、キリストの根本思想は「愛」であり、聖書に「あなたの敵を愛せ」と記されているぐらいですから、弱肉強食の競争社会というのは否定的にとらえているでしょう。    

TEDSW
質問者

お礼

回答有難うございました。 >「強者から与えられる苦しみからの解脱」というのが、この四諦の意味するところですから、 「強者から与えられる」の意味がいまひとつわかりませんでした。 釈迦が悟りを開いた環境での「強者」は、具体的にどういったことを指すのでしょうか。 >聖書に「あなたの敵を愛せ」と記されているぐらいですから、弱肉強食の競争社会というのは否定的にとらえているでしょう。 そうですね、「敵を愛せ」という表現からは、そのような推測の方がしっくりきますね。

  • mmky
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回答No.9

参考程度の追伸まで 自動車王のヘンリーフォードは母親が何キロも先のグロサリー(雑貨店)に買い物にいくのを見て母親の負担を減らすために当時非常に高価だった自動車を普通の人が購入できるようにするために安価になる製造方法を考えたのです。三洋が初めて世に出した洗濯機も同じ考えが根底にありましたね。科学技術というのは人々に余暇という幸福を与えるのですね。 余暇が与えられるがゆえに一般の人々が出家もしないで心の幸福を追求できるのではないですかね。 釈尊は明確に「苦楽の中道」を説いてます。 「悟り=心の幸福」は苦の生活(肉体をいじめたりすること。厳しい生活。)の中にも楽な生活(王子で何の苦労も無いような生活。)の中にも無い。ごく普通の生活の中に求めるものがあるということですね。 現在の生活環境を良くすることに汲々としても心の幸福は得られないことは間違いありません。しかし、生活環境が良くなりに余暇ができることは、学ぶ時間、考える時間が増えることで心の幸福の追求がし易くなることは確かです。つまり、手段と目的を取り違えるとおかしくなりますね。科学技術は手段でしかないのですが目的と勘違いしていることは確かですね。 それから釈尊は、「上求菩提、下化衆生」とも説いていますね。 個人は仏の悟りを追及すると同時に多くの人々にその気づきを伝えていきなさいということですね。 この二つのベクトルがありますね。自らが幸福になると同時に多くの人々を幸福にしていきなさいということですね。多くの人々を幸福にするという意味において競争社会も肯定されているのですね。そこで発生する悩みや焦燥を和らげるためにイエスの愛や仏の慈悲が与えられているのですね。

TEDSW
質問者

お礼

回答有難うございました。 >科学技術というのは人々に余暇という幸福を与えるのですね。 そういった側面があるかも知れないですね。ただ以前テレビで原始的な生活をしている人達のことを見ましたが、大人でも昼寝をしてたり、遊びに興じていたり、それなりに余暇もあるような一面も感じられました。 >「悟り=心の幸福」は苦の生活(肉体をいじめたりすること。厳しい生活。)の中にも楽な生活(王子で何の苦労も無いような生活。)の中にも無い。ごく普通の生活の中に求めるものがあるということですね。 そういった解釈もできると思います。が、その場合、ごく普通の生活というのは原始的な生活(当人が満足している)も含まれるのかなと、疑問に感じました。 心の幸福はその気になりさえすえばどんな環境であっても、それを追求することは可能であるという解釈も成り立つような気がしたものですから。 >多くの人々を幸福にするという意味において競争社会も肯定されているのですね。 そういう捉え方は頷ける部分が多いです。が、競争社会は善意だけで成り立つ場合は稀であり、大抵は負の側面を合わせ持つと思います。過度な競争意識がもたらす悲劇の一つに戦争があります。また、競争社会では往々にして、己を他者と比較して体裁を保つことに神経をすり減らし、様々な軋轢を生じさせたりもします。 そういった負の側面を全て見据えた上で聖人はそれを肯定なさるのだろうか、戦争も必要悪と見なされるのだろうか、と疑問が生じました。 もちろん愛や慈悲を説かれているわけですから、戦争を全肯定などするはずはないでしょう。しかし、競争意識というものを肯定されるとしたなら、その競争意識の負の最たるものである戦争の存在を完全否定することは難しいように感じているのですが。

noname#15238
noname#15238
回答No.8

釈迦やイエスには会った事も無いので知りませんが。 雨模様の一日、他のお店も閉まっているので、雨宿りです。 弱肉強食・競争社会が人間の普遍的な状況かどうかは判りませんが、現在は事実ですね。 これは、家族とか狭い地域社会では、あまり意識されませんね。つまり、無関係な人間同士の社会が弱肉強食・競争社会を肯定しているわけです。 狭い地域社会で、この事が少ない理由は、よく会う仲間同士なら次の機会に負けるのは自分かもしれない、といった損得勘定に理由があるのかもしれません。アダムスミスの道徳哲学で言う、最善ではないが、次善であると言った所でしょうか。カントの道徳哲学では、義務と尊敬に基づいているようで(自信なし)上記の理由に道徳性は否定されますね。 私見ですが「梵我一如」の言葉は、真実に近いのではと「想像」しています。つまり無関係の人間がいるのだろうかと? 弱者や敗者のルサンチマンは、何時か何処かで、解き放たなければなりません。 幸い雨も小降りになりました、それでは失礼します。

TEDSW
質問者

お礼

回答有難うございました。 >これは、家族とか狭い地域社会では、あまり意識されませんね。つま >り、無関係な人間同士の社会が弱肉強食・競争社会を肯定しているわけです。 確かに弱肉強食に関しては、家族や狭い地域社会では当てはまりにくいことかも知れません。 でも、例えば競争意識のようなものは、家族や友達に対しても持つことはあると思います。勉強やスポーツで負けたくないといったように。 そういった競争意識というものも、競争社会を構築する一つのファクターになっているような気もします。 >私見ですが「梵我一如」の言葉は、真実に近いのではと「想像」しています。 梵我一如が真実でかつそれを実感することができたなら、競争意識を持つ対象がなくなるような気がします。

  • sowow
  • ベストアンサー率20% (18/90)
回答No.7

弱肉強食というのはピンとこないので、適者生存と言い換えてもいいでしょうか? 進化論的世界観が、もし正しいならば、生命は強い弱いではなく(もちろん強い弱いという要素も含むけど)適応できたかどうかで決まります。 「競争社会」ですが、否定したでしょう。ふたりとも。 こういうはなしに進化論をもちだすのは不躾ですが、釈迦やイエスが肯定しようがしまいが否定しようがしまいが、その「思想」も社会に適応できなかったとき、またはもっとイイ「思想」が出てきたときは消えてしまう。 これも世界が、適者生存の「競争社会」ゆえです。 これは「どーにもこーにもならないこと」でしょう。残念ながら。 まさにお釈迦様の手のひらの上です。(いや、釈迦の手にも負えてないんですが・・・) 近い未来、人類の愛と知恵で、ある程度はなんとかなると思いますが。 また、なんとかしたいものです。 でもまー、人類の愛と知恵で、酷くなってるとこもあるよーな気もしますが・・・。 まだ希望はありますよね。 このように、人間はやたら精神的な生きものですから、人によっては、どんなに質素な生活でも幸せに生き、死んでいくことも可能でしょう。 ただ、人に押し付けないで欲しいですね。無駄な争いが起きるだけだから。 あと自爆テロもやめて。

TEDSW
質問者

お礼

回答有難うございました。 >その「思想」も社会に適応できなかったとき、またはもっとイイ「思想」が出てきたときは消えてしまう。 そういった側面があるかも知れません。が、一方で、釈迦やイエスが説いていることは不変の真理という考え方もあります。 >人によっては、どんなに質素な生活でも幸せに生き、死んでいくことも可能でしょう。 みんながその意識を持てれば、今この瞬間にでもみんなが幸せになれそうですね。まあ現実はそんな意識を持てない人が多いから、不幸せと感じる人が山ほどいるわけですが。 ただ、これから科学がどれだけ進歩したとしても、不幸せを感じる人の割合はさほど変わらないような気もします。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.6

皆さんの適切な回答がありますので参考程度の追伸まで 「原始的な生活でも、それに満足して、楽しみさえ見出し、住みやすいと思って日々生きていくようなこは、神様は>肯定なさらないということでしょうか。そんな疑問が生じました。」 当然肯定しています。それぞれの文明、環境においの個人の幸福の追求は自己責任のもとで肯定されてます。だから世界中にいろいろな人種と生活環境があるのです。アマゾンの奥地でわれわれから見ると原始の生活をしている方々だって個人や集団の幸福を追求しているのです。日本という高度な科学文明の下に生まれた私たちも同じはずです。心の幸福の追求が生活環境に左右されるならばそれはまだまだ未熟であるからと仏神は評価するでしょう。学校も幼稚園から大学までいろいろな場が用意されているでしょう。それと同じです。日本に生まれたということならばこの日本で幸福を追求すればよいのです。いろいろな人生の試練を乗り越えて生ききりなさい。何かをつかみなさいといっているように思います。そこには自己責任の原則があります。経験の場ということでこの世には一切の無駄は無いのです。心を鍛える経験の場といえます。たとえ落ちこぼれようと、仏神は私たちを限りない慈愛の目で見守っていますから。

TEDSW
質問者

お礼

回答有難うございました。 >心の幸福の追求が生活環境に左右されるならばそれはまだまだ未熟であるからと仏神は評価するでしょう。 ということは、生活環境を整えることは、幸福を追求することの絶対条件にはならないということのようですね。 生活環境がより便利になればなるほど、それに比例して幸福が増大する、ということではなさそうですね。 心の幸福の追求は生活環境に左右されないとするなら、より良い生活環境を手に入れたいがために一生懸命勉強したり一生懸命働くというのは、何か大きな勘違いをしているのかも知れない、と思えてきました。

回答No.5

>原始的な生活でも、それに満足して、楽しみさえ見出し、 >住みやすいと思って日々生きていくようなことは、神様は >肯定なさらないということでしょうか。そんな疑問が生じ >ました。 もし、神様を信じていらっしゃるのなら、 祈って聞いてみられては如何でしょうか? 私なんかに聞くよりも・・・ 人間は、心と体との2重構造になっています。 ですから、心の満足と体の満足の両方が満たされて 初めて幸福を得られるように成っています。 しかし、神様は愛の主体ですので、外的な環境を すばらしくして欲しくて、何も 人間を創造したのではありませんよ。 地上生活の目的は愛の完成です。 心が主体で体は対象なのです。 外的な環境が「全て」ではないのです。 だからと言って、外的な環境を自分から敢えて、 みすぼらしくして生活しなさい! なんていうことは、神様は願われないでしょう? もし、あなたが、今住んでいらっしゃる建物よりも もっと原始的な住居に住まないと、愛を完成 させることが出来ないと思うのなら、 どうぞ、そうして下さい・・・ 人間は神様の愛する対象であり、子女なのです。 子供なのです。 それがわかれば、自ずと分かることはあると思われます。 現代の科学技術が発展してきたのは、 誰のおかげなのでしょうか?? 人間のおかげだとすれば、その人間を創造した 神様は、最高の科学者だとも言えますよね。 それを否定しますか? あなた様は・・・・? どのような外的な環境に、あなたが満足するかどうかは、 あなた次第です。あなたの自由なのです。 科学技術が発達してくることで、自然災害等から 身を守り、「全人類」が幸せな家庭を築き上げて行く ことを神様は決して否定しません・・・ 分かりますか? 人間に神様は、「本心」というものをお与えに なられました。 ですから、あなたの「本心」に尋ねてみてください。 自ずと分かる答えが沢山あると思うんですが。 それでは、この辺で失礼します。

TEDSW
質問者

お礼

回答有難うございました。 >私なんかに聞くよりも・・・ 不特定多数の方に対して疑問を提示したつもりですが。 >だからと言って、外的な環境を自分から敢えて、 >みすぼらしくして生活しなさい! >なんていうことは、神様は願われないでしょう? そんなことを言うとは思いません。みすぼらしく生活してもそれに満足している人達に対して、「そういう生活に甘んじてるようではダメだ」と神が思われるのかどうかということが私の疑問点ですが。 >、「全人類」が幸せな家庭を築き上げて行く >ことを神様は決して否定しません・・・ ということは、原始的なみすぼらしい生活でも幸せを感じている家庭に関しては、神様はその生活を肯定しそうな感じがしますが。 >ですから、あなたの「本心」に尋ねてみてください。 >自ずと分かる答えが沢山あると思うんですが。 もちろん、自問自答は常に行っています。が、例えば神の解釈一つとってみても様々なものがあるわけで、貴方がおっしゃるものとは違った説もあります。 ですので、私は、容易く結論を出すことは避けたいと思っています。神様のお考えを容易く理解できるほど自分は大層な人間だと思っていませんし。 神様のお考えになるようなことに関しては、生涯をかけて考察していきたいと思っています。それゆえに、いろいろな人の考えを参考にしたいと思い、疑問を提示しているのです。

回答No.4

お礼の中のご質問に対しての補足説明です。 >原始的な生活であっても、それに十分満足して、喜びさえ >見出せるような生き方が、「足ることを知る」を実践した >生き方ということでしょうか。 弱肉強食という言葉をあなたがどういう意味で 解釈するかに因ると思います。 私は、勝手に、弱肉強食とは、 「自己中心的な欲望に基く競争社会」 と定義しました。 なぜなら、「競争」にも、実は、善なる競争と 悪なる競争があるからなのです。 社長の座は、一つです。そこを多くの人が 狙おうとすれば、自ずと「競争」になります。 しかし、問題は、なぜ、社長の座を願うのか?? なのです。その動機が問題なのです。 自分の為に社長になって、悪いことをして、 会社に多大な迷惑を掛ける人もいるのです。 三菱・・・とかいうどこかの自動車会社のようにね。 問題は、「善悪の問題」に帰結するのです。 神様は、人間に生めよ、増えよ、地の全ての生き物を 治めよ。と言われました。 つまり、人間が、神様から与えられた万物(資源等)を 利用して、最高の科学技術を屈指して、 最高度に住みやすい社会環境を実現して、地上天国を 完成させなさい・・・と言われたのです。 これを「三大祝福」と言います。神様の至上命令です。 人間は、この三大祝福を成就することで、幸福に なれるはずでしたが、過分な自己中心的な欲望により 堕落して、偽りの世界を作り出してしまいましたので、 この世は、「地上地獄」「苦界」と呼ばれるように なってしまいました。 要するに、善なる欲望は、いくらあっても良いのです。 世の中を科学でもって、より良くしよう・・・ という欲望は、善なる欲望なので、いくらあっても 良いのです。罪になりません。なぜなら、 神様がそれを願っておられるからです。 私が申しました「足ること知る」というのは、 そういう意味を含んでいるのです。 私が申しますところの、 「足ることを知らない欲望」とは、 「全体目的と個体目的の調和を乱す、自己中心的な 自己の位置を離れる”過分な欲望”」の ことを言ったのです。 社長の座に位置していても、自己中心的な欲望をもって 社長の座にいるのなら、その社長は、すでに、 社長とは名ばかりで、実は、心は自己の位置(社長) を離れているのです。わかりますか? 「弱肉強食」の社会が、良いか悪いかを イエス様やお釈迦様に問われる前に、あなた様自身が、 「弱肉強食」という言葉をどう定義したいのか? それがはっきりしないと、 イエス様もお釈迦様も困っちゃいますよ・・・(笑) イエス様もお釈迦様も、人間の悪なる欲望の部分 罪なる部分に対して、命を掛けて闘い勝利されようと なされた方達なのですから・・・ ではでは。

TEDSW
質問者

お礼

回答有難うございました。 >つまり、人間が、神様から与えられた万物(資源等)を >利用して、最高の科学技術を屈指して、 >最高度に住みやすい社会環境を実現して、地上天国を >完成させなさい・・・と言われたのです。 原始的な生活でも、それに満足して、楽しみさえ見出し、住みやすいと思って日々生きていくようなことは、神様は肯定なさらないということでしょうか。そんな疑問が生じました。 弱肉強食どうこうとは切り離したところで、そういう疑問が生じました。 あくまでも個人的な見解ですが、地上天国というものは、物質的なものによって達成されるのではなく、精神的なものなので、瑣末な原始的な生活の中でも、最高の境地に達することは可能のような気がしていますが。

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