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河村瑞賢について

歴史の参考書によく「河村瑞賢は西廻り海運・東廻り海運を整備した」と書いてありますが、具体的にどのようなことをしたのでしょうか?よく分からないので教えていただきたいです。

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noname#224207
noname#224207
回答No.1

簡単に言いますと、海流の向きと風向きを調査して、集大成して、東北地方から江戸へ向かう航路を決めた、というかこのような航路をたどれば、安全に目的地である江戸へたどり着けるということを人々に知らせた、ということになります。 現在から見ればなんでもないことのように見えますが、当時としては非常に役に立った仕事でした。 東北地方から江戸へ米を運ぶのには、陸送よりも船の方が一度に大量の米を運べます。 東北のどこかの港から出た船は南下する必要があります。 太平洋側の場合、千葉県の銚子の犬吠埼の付近で南から来る黒潮と北からくる親潮がぶつかています。 特に黒潮はここから東へ向かって流れています。 この黒潮の流れに乗ってしまうと、太平洋へ流しだされてしまいます。 東へ向かう黒潮を横切って、黒潮の流れの内側(陸側)を帆走するのには北東からの風を受ければ簡単に南下を続けることができます。 房総半島の先端まで来たところで、江戸湾(東京湾)へ入るにはUターンに近い形で船の向きを変える必要があります。 日本の帆船(帆掛け船)の帆は、カリブの海賊船や現代のヨットのように、横風を上手く利用できるようなデザインにはなっていませんでした。 この為に、下手にUターンすると、ひっくり返るか、後ろへ押し戻されてしまいます。 河村瑞賢は、風向きを詳細に調べて、房総半島の先端を通り越して伊豆半島の先端まで北東の風に乗って一気に南下して伊豆半島の先端の港に一旦停泊して、風向きが南西からの風に変わるのを待って、その風に乗って一気に江戸へ向かへば良いと考えて人々に教えました。 これが東回り航路です。 日本海側の航路でも同じように、風向きや潮流を調べて、日本海を下関まで南下して、瀬戸内海に入り、鳴門海峡を抜けて紀伊半島を回って一気に伊豆半島の先端を目指す方法を人々に教えました。 これが西回り航路です。 いずれの航路も部分的には、その土地その土地の漁師や船頭は知っていました。 これを全国的な規模で集大成したのが河村瑞賢でした。 日本の沿岸というのは世界的にも潮流が複雑な海域として知られています。 又季節によって風向きが頻繁に変わります。 現在でもヨットマンにとっては難しい海域として知られています。 和船は、一枚の大きな帆に後方からの風を受けて進みます。 洋式帆船は、膨らんだ帆が飛行機の羽のような原理で前へ進む力を生み出して進みます。 このために、直列にマストを並べて立てても風を無駄にせずに前へ進むことができます。 港湾の整備が不十分だったために江戸湾のような遠浅な港の河口を若干遡る必要があました。 和船はその際に邪魔になる梶を取り外せるような構造にしてありました。 このために、船の真後ろから波を受けると簡単に浸水してしまいました。 又、甲板を密封構造にしていなかった為に、雨天で波の荒いときは航海ができませんでした。 たらいを雨の日に外へだしたのと同じことになってしまいます。 このような、構造の船でも安全に航海できる航路と運航方法を見つけ出した人、とも言えます。

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