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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:九度山への秀頼からの依頼は…)

九度山への秀頼からの依頼は何故幸村に届いたのか?

1pakuの回答

  • 1paku
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回答No.1

書状があったとしても、 秀頼直筆ではなく、側近が乱発したうちの一つでしょう。 徳川側、領土を餌に大阪側が大々的に勧誘した情報はほぼ確実に把握していました。 武将たちの忠誠心を測るチャンスですから、ある程度黙認してたでしょう。 九度山蟄居の時期、真田家の家来たちは、真田紐の行商であっちこっち行ってましたから、その時に情報収集と、もしかすると、その手の書状を預かるチャンスがあったかもしれません。 当時、父親の方は武将として評価されていましたが、幸村は無名に近い存在でしたから、幸村宛に書状というのは、かなり眉唾です。

azuki-7
質問者

お礼

なるほど 確かに側近の乱発と言うことは考えられますね それがたまたま届いたという事ですね しかし真田幸村は別格なのです 家康が最重要警戒としていた人物で 「幸村だけは絶対に討ち取ってでも大阪に入城させるな」と家臣に命じています 当時既に 父昌幸は居ません 幸村はひとかどの武将だったはずです

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