九度山への秀頼からの依頼は何故幸村に届いたのか?

このQ&Aのポイント
  • 九度山で浅野家の監視下にある真田幸村に、関ヶ原で負けた大阪の秀頼から勧誘の書状が届きます。普通なら状況下で直接書状を届けるのは無理ですが、なぜ無事に届いたのでしょうか?
  • 浅野家は幸村に同情し、監視を緩めていたため、秀頼からの書状が届くことができました。通常なら浅野家が検閲をして直接届けることになるでしょう。
  • 幸村が九度山で浅野家の監視下にある中、秀頼からの勧誘の書状が無事に届いた理由について疑問があります。浅野家が幸村に同情し、特別に監視を緩めていたためではないでしょうか。
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九度山への秀頼からの依頼は…

関ヶ原で負けて紀州・九度山に蟄居となった真田幸村の下へ、1614年風雲急を告げる大阪の秀頼から幸村勧誘の書状が届きます。 しかし 幸村はこのとき九度山で浅野家の監視下にありました。 書物などによると浅野家は幸村に同情し特別に監視を緩くしていたそうです。 ここで疑問なのですが 秀頼からの書状は何故幸村に届いたのでしょうか? 普通ならこういう状況下では幸村に直接書状を届けるのは無理と思います なので事前に浅野家が検閲をしているでしょう 内容は秀頼からの勧誘の書状です 手紙を見た時点で浅野は家康に通報するはずですが そういう事は無かった様です 何故 秀頼からの書状が無事に幸村に届いたのか? と言うことです

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回答No.3

徳川幕府が、豊臣大坂城に距離的にも近い、豊臣恩顧の紀州・浅野氏を監視し、その浅野氏が浅野領・九度山村の流刑人・真田氏を監視する役目を負う、この図式ですね。となると、浅野氏も、いい加減なことはやっておれません。何しろ、豊臣恩顧の大大名を、事あれば取り潰そうと、幕府は虎視眈々と狙っていたわけですから、割りとしっかりした監視体制を取っていたと思われます。 ただ、真田小屋や九度山村周囲に、365日、四六時中、多数の兵を貼り付けることなど、人員的にも経済的にも困難で、たぶん、街道筋、峠道などの要所要所に、番小屋を作って監視していたのでしょう。 しかしこの場合でも、通行困難な難路や裏街道、獣道、道なき道はあって、大坂から九度山村に、1人や2人の小人数なら、潜入できないわけではありません。 また、頭髪の中や、着物の表地と裏地の間などに書状を隠した上で、(武士の身なりではなく)、百姓、行商人、高野山の僧侶の恰好で、監視線を通り抜ける、これなどもできないことはないでしょう。しかも、特命を帯びた、そうした百姓、行商人、高野山の僧侶の恰好の者たちが、豊臣に心を寄せる、実際の百姓、行商人、高野山の僧侶だったなら、仮に取り調べを受ける羽目になっても、身元を明して信用させ、言い逃れることも可能です。 上は想像ではありますが、豊臣の使者が、真田小屋に手紙を届け、口上を述べたりするために、九度山村に入ることは、けっして不可能ではなかった、ということです。 なお、真田幸村(信繁)の、大坂の陣以前の知名度ですが、左衛門佐(さえもんのすけ)の官職名で、少なくとも幕府には、それなりに知られていました。 徳川に2度も苦汁を飲ませた真田親子、家康・秀忠自らの裁断で、関ヶ原で改易・高野山に流した真田親子、これを家康・秀忠が知らないなどということは考えられません。父親の昌幸の九度山村での死没についても、浅野氏の知らせで、少なくとも幕閣・重臣たちは当然把握していたでしょう。 大坂冬の陣に際し、乱世を生き抜いてきた戦国武士たちが続々と大坂に入りますが、家康の重臣・黒衣の宰相・金地院崇伝は、真田幸村(信繁)を、ことさらピックアップし、幸村の大坂入城を、家康の重臣・本多正純に、書状で知らせています。つまり、幸村の実力は未知数ながら、その存在と名前は、幕府も家康も把握しており、その動向を注視していたわけです。 冬の陣では、徳川の先手を真田丸で翻弄し、多大な犠牲を出させて家康を「激怒」させ、夏の陣では、2度も本陣を切り崩し、(今度は激怒ではなく)「恐怖」の淵に家康を追い詰めることで、真田幸村の未知数だった実力のほども、家康の把握するところとなったわけです。

azuki-7
質問者

お礼

ありがとうございました!

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  • 1paku
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回答No.2

真田の大阪入城の第一報を聞いた家康が「親父(昌幸)か、せがれ(幸村)か」と叫んで、幸村という説明に安堵したという話もありますから、死んだのが偽装だった可能性も含めて、大阪の陣までの期間、家康がもっとも警戒していたのは、昌幸のほうでしょう。  幸村が裏方も含め大阪側の全軍を指揮していれば、結果は別だったでしょうが、実際は真田丸での遊撃隊程度のことしか出来てません。  軍師としての素質は充分でも、若くて実績のない幸村に大役を任せるほどの技量が大阪側の主要メンバーたちにないところまで、家康は読みきってたでしょう。

azuki-7
質問者

お礼

確かに家康は昌幸に3度負けてますからね もし大阪に入ったのが昌幸だったら肝を冷やしたでしょうね

  • 1paku
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回答No.1

書状があったとしても、 秀頼直筆ではなく、側近が乱発したうちの一つでしょう。 徳川側、領土を餌に大阪側が大々的に勧誘した情報はほぼ確実に把握していました。 武将たちの忠誠心を測るチャンスですから、ある程度黙認してたでしょう。 九度山蟄居の時期、真田家の家来たちは、真田紐の行商であっちこっち行ってましたから、その時に情報収集と、もしかすると、その手の書状を預かるチャンスがあったかもしれません。 当時、父親の方は武将として評価されていましたが、幸村は無名に近い存在でしたから、幸村宛に書状というのは、かなり眉唾です。

azuki-7
質問者

お礼

なるほど 確かに側近の乱発と言うことは考えられますね それがたまたま届いたという事ですね しかし真田幸村は別格なのです 家康が最重要警戒としていた人物で 「幸村だけは絶対に討ち取ってでも大阪に入城させるな」と家臣に命じています 当時既に 父昌幸は居ません 幸村はひとかどの武将だったはずです

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