• ベストアンサー

大坂の陣 幸村が率いた兵が強かった理由は?

真田幸村が音に聞こえた名将であったのは言うまでもありません しかし大坂の陣にはせ参じた時、幸村は蟄居先の九度山から脱出して駆けつけたわけで 手勢は供回りの数十人だけでした 大坂城で秀頼から軍勢を借り受けて戦ったわけですが 大坂の兵はいわば寄せ集めの雑兵、訓練もロクに受けていない兵なわけです しかも真田古来の家臣軍勢ではなく 秀頼から「君たちは真田君の下に入って命令に従う様に」的な軍勢だと思うのです(つまり完全に幸村の命令に従わない奴も居ただろうと思います) 幸村も真田丸に篭って戦っているし 配下の雑兵に十分な訓練を施せたとは思えません なのに夏の陣では一糸乱れず、伊達の三段構えを突き崩し家康の本陣まで突入しています。 寄せ集めの真田勢があれだけ強かった理由は何でしょうか? 単に幸村の采配の凄さだけでは無いと思うのですが

  • 歴史
  • 回答数12
  • ありがとう数25

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • titelist1
  • ベストアンサー率25% (712/2750)
回答No.9

幸村の采配は父と共に戦った真田城で実績済みです。その後の彼の隠遁生活の日記から推測すると世に名を残す死に場所を探してしたのです。大阪勢の幸村の配下は赤甲冑で目立つことで、敵から逃げることができないようにしていました。真田勢は死を覚悟して戦ったので強かったのです。

azuki-7
質問者

お礼

あれがとうございます

その他の回答 (11)

  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10494/33001)
回答No.12

後の島原の乱のときもそうでしたが、こんときも豊臣方には職にあぶれた浪人が多く参加していました。彼らは戦さの経験は豊富でしたから、「こういうときにどう振る舞えばいいのか」はよくわかっていたでしょう。また、徳川方からすればもう戦役そのものがこっちの勝ちであることは確定でしたから、「こんなところで死んだら命の無駄だ」と「自分の命最優先」になったのはしょうがないと思います。要するに相手が強かったら「あれはヤバい」とこっちの損害覚悟で力攻めもしなかっただろうし、攻め込まれたら退却しがちだったと思います。 私個人は、脚色されてる部分が多いとはいえよく頑張ったと思いますよ。 『毛利勝永の知名度は悲しいほどに低く、辛うじて玄人気取りの戦国オタクが「俺こんな隠れた名将知ってるんだぜ凄いだろ」という自己満足の為にその名を挙げるくらいである』 ~アンサイクロペディアより~

azuki-7
質問者

お礼

ありがとうございました

  • ngwave
  • ベストアンサー率27% (23/84)
回答No.11

>寄せ集めの真田勢があれだけ強かった理由は何でしょうか? >単に幸村の采配の凄さだけでは無いと思うのですが もう一つ、残念な話を。 真田勢は、一番大事な決戦の時に道に迷って遅刻をして、それが、大坂の早期壊滅の大きな原因になっている。 真田勢と毛利勝永が間に合わず、又兵衛が討死。 真田信繁は、「おれのせいや。もう豊臣終わった。おれも討死する」とやけになって毛利勝永になだめられている。 最後の決戦では、毛利がフライングしてしまい。作戦がグダグダに。 真田信繁は、これで完全に死に場所を決めた。 でも、快進撃をしたのは毛利勝永。 徳川主力を正面で受け止め、名だたる武将を討ち取っている。 一番押していた毛利勝永をマークして、手薄になったところを、自棄になっていた真田勢が死ぬ気で突っ込んで混乱させた。 チャンスを作ったのは毛利勝永。 真田勢は、ヤケクソで突っ込んだだけなので、たいした武将を討ち取った訳でもなく、早々と壊滅。 最後まで粘り強く頑張った毛利勝永も、誰もいなくなったので、仕方なく退却した。 難しい退却戦も見事にこなして大坂城に戻っている。 ミスも多かったけど、総合的に大坂方で一番頑張ったのは毛利勝永。 具体的な戦果もあげているし、最後まで部隊の体を保てたのも毛利勝永。 一人になっても、部隊を大坂まで帰して、最後の処理もしている。 真田勢は、敵の本隊を脅かしただけ。 蹴散らしたとか、蹂躙したとか、勢いだけで、夏の陣では具体的な戦果は無いに等しい。 部隊には間諜が多く潜んでいて、作戦も敵に漏れ漏れだった。

azuki-7
質問者

お礼

ありがとうございました

  • ngwave
  • ベストアンサー率27% (23/84)
回答No.10

>幸村の名前の由来を知らないのですか? どの由来を信じてるのか分かりませんが、諸説ありますね。 幸村の幸は、真田家の党首が受け継いでいる幸 幸隆→昌幸→信幸 そう、党首のお兄ちゃんが使ってるので、次男に幸の字は特に必要ない。 他の弟たちも幸の字は貰ってない。 (後に徳川についた信幸は、昌幸と決別して幸を之に変えている。) 村の方は母系の名から来てるとも、刀から来ているとも言われるが、幸の時点で怪しいので、講談レベルの域を出ない。 昔は、娯楽が少なかったので、実在の人物をモデルに話に尾鰭を付けて、あることない事を広めた。 これが辻講釈や講談。 真田幸村とは、真田信繁をモデルに講談によって作られた超人。 猿飛佐助や霧隠才蔵など10人の忍者と共に戦う真田十勇士が有名。 大坂夏の陣は、もう豊臣家の元に天下は無いと、みんなで確認する集団リンチであり、もはや戦ではない。 どの大名も味方していない。テロ鎮圧といったレベル。 家康も甲冑すら付けず、レジャー(鷹狩)の服装で参加。 テキトーにやってたら、一部若干ヒヤッとする場面あり。 若干ヒヤッとした場面を作ったのが信繁。 その程度。 >寄せ集めの真田勢があれだけ強かった理由は何でしょうか? >単に幸村の采配の凄さだけでは無いと思うのですが あれだけ強かったという程も強い戦いをしていない。 数万人規模の軍勢がいたのに4月の末に始まって5月の上旬には壊滅させられている。 その間10日ほど。 烏合の衆で多勢に無勢とはいえ、アッサリ過ぎる。

azuki-7
質問者

お礼

ん? 幸が真田家の党首が受け継いでる文字ってのは違います 昌幸は幸隆の三男で 長兄は信綱 次兄は昌輝と言います 2人の兄が長篠合戦で戦死したため昌幸が家督を継いだのです 最初から跡取りだったわけではありません 幸隆の父は海野棟綱で幸の字は付きませんし

  • mm058114
  • ベストアンサー率30% (102/337)
回答No.8

幸村の戦略眼による、大阪城の弱点を充分補強したこと。 幸村側の地の利というか、防御出城の優秀さ。 前田利常、井伊直孝、松平忠直の軍勢を徴発して、引き込んだ事。 雑兵も手柄をたてれば、多くの恩賞がもらえるという、功名心ではないですか?! 特に、戦闘は余程のアホでなければ、幸村じゃなくてもよかったのでは?!

azuki-7
質問者

お礼

ありがとうございますした

  • lv48
  • ベストアンサー率28% (153/535)
回答No.7

士気の差 やる気の差です。 徳川方は勝って当たり前、褒美の期待も薄く、士気が低いです。 豊臣方は一発逆転を狙って士気が高いです。 判官びいきの武勇伝。 大きな戦は話の種が欲しいです。 幸村を英雄にした。 家康公も蹴散らされたとすれば、秀忠も関ヶ原の言い訳に都合がいい。

azuki-7
質問者

お礼

ありがとヴざとます

回答No.6

azuki-7さん おはようございます。 私は、関が原の合戦の後、幸村の兵士の武士、ひとりひとりが、浪人として、うつうつとした生活の中で、大坂の陣が起こり、自分の死に場所が、見つかったと、闘ったためと思います。 新渡戸稲造の「武士道」を読むと、桜の散るような、美しさと、はかなさの中に当時の武士は死というものを考えていたし、また、そのような心を持たない、もしかしたら家康に勝って、自分たちが出世するという雑兵もいたかもしれませんが、上述のような生き方をする真田幸村と接しているうちに感化され、意識が変わったかもしれない。 ここの「日の本一のつわもの」真田幸村部隊が出来て、家康本陣に突っ込み、びびった側近が本陣の旗を捨てて逃げた。 さて、私の歴史のロマンの新説ですが、実は真田幸村は、azuki-7さんのような、ベッピンの女性であり、木曽義仲の巴御前の生まれ変わりであった。 雑兵は、azuki-7さんのようなベッピンに、めろめろになり、言うことは何でも聞いたという新説。 ここまで書いたら、当然ベストアンサーでしょう(笑)。 でも、azuki-7さんは、男勝りで怒ったら恐い、男を尻にひく女性ですか(笑)?

azuki-7
質問者

お礼

うりがとうございました

  • ngwave
  • ベストアンサー率27% (23/84)
回答No.5

講談や小説の話ですか? それとも史実の話ですか? 真田昌幸の次男、真田信繁をモデルとした物語に真田幸村が登場します。 実在の人物ではありません。 >真田幸村が音に聞こえた名将であったのは言うまでもありません 音に聞こえた名将が、勝手に名前を変えられたりしません。 音に聞こえた名将は父の真田昌幸であり、その子供というだけで担ぎ上げられた存在でしかありません。 大坂側には、もはやその程度の人材しかいなかったのです。 でも、結構頑張ったので、「真田昌幸の息子の真田何某は、実は凄かったらしい。」という話が広がり、でも、ろくに誰も名前知らないので、幸村とか適当に響きの良い名前が後付けで広がったのでしょう。

azuki-7
質問者

お礼

ん? 幸村の名前の由来を知らないのですか?

noname#204885
noname#204885
回答No.4

幸村は九度山に住んでいた時点で、すでに腕の立つ野武士や牢人を密かにスカウトし、訓練を施していました。そのため、九度山を出た頃には、供回りの者十数名に加え、すでに500名ほどの軍勢を従えていたと言う説もあります。 もちろん、残りの数千名は大阪城で調達したのでしょうが、これらの幸村の意が通じる配下に10名づつ雑兵を割り振れば、軍勢として十分に統率のとれた部隊が出来上がります。 また、有名な赤備えも、部隊の全員にエリート意識と統一感を植え付け、一丸となっての勇猛果敢な行動を取らせたのではないかと思います。このあたりの部下の心の掴み方のうまさが、単なる戦上手だけはない幸村の非凡さであったと思います。

azuki-7
質問者

お礼

ありがとうございます

  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (812/3031)
回答No.3

うーんどうでしょう?私はそこまで秀頼が絶対的な指揮権を掌握してたとは思わないんですよねえ。 大坂城の浪人の群れのなかから各武将が適当な人数を連れて行ったような状態で、そんななかで幸村が「我こそは先陣(正確には先陣というよりただの突確陣地ですが)を切らんと思うものはわしに付き従うがよい」と声をかけて集まった連中が、浪人連中のなかでも一番の猛者連中だったという結果じゃないかと思ってます。 もともと組織化されてない人間を各武将に適当に割り振ったわけですから、武将の側からもあれを連れていきたいみたいな要望も出るでしょうし浪人のほうにも当然真田の名に呼応したもの長曾我部に呼応したもの○○にといろんな連中がいて、そういった要求を無下に断るのも無理がありますよね。そんな中であえて幸村に付き従うとなると、浪人の中でも一番精強な連中が自然に集まる気がします。

azuki-7
質問者

お礼

なるほど そういう理由ならありえそうですね 幸村ならつわものですし 手柄でも立てようものなら自分の名も上がるかも と言う思惑もあったかも知れませんね

noname#206980
noname#206980
回答No.2

いや…だから、秀頼の命令で真田配下に入ったのなら 真田の言うこと無視したら秀頼の命令を無視したことになるんですが…。 もう秀頼のもとにも帰れなくなるんですけど。 どういう意味?? 秀頼なんて気にしなくていい一兵卒だと尚の事 上の命令に従わない意味があまりないですしね。 ちゅーか、軍から逃げ出す人たちはいたとしても 戦地で命令違反する人はいないだろって意味…理解してください。

azuki-7
質問者

お礼

はい 分かりました しかし大坂の兵の大多数は募集して集めた雑兵です(こいつらは秀頼の配下でも何でもありません、つまりたまたま真田に割り振られただけで本気で戦う義理も無いわけで…) あ 何かややこしくなりそうなので ありがとうございました

関連するQ&A

  • 真田信繁を大坂城に招いたのは誰か?

    史実では九度山に蟄居せしめる信繁は豊臣秀頼の出馬要請を受けて九度山を脱出 大坂城にはせ参じたわけですが そもそも秀頼は真田信繁を知らないですし(名前ぐらいは聞いたことあるけど面識は恐らく無い) 大坂の首脳部(大野兄弟や速水甲斐守など)は信繁が信幸の弟であり 徳川と通じてる恐れがあるとして信繁を大坂に呼ぶ事は反対でした。 長宗我部や後藤などの浪人は大坂からの「浪人募集」のお触れで駆けつけたわけですが 豊臣秀頼の名前を使って真田信繁を大坂に呼び寄せたのは誰なのでしょうか?

  • 九度山への秀頼からの依頼は…

    関ヶ原で負けて紀州・九度山に蟄居となった真田幸村の下へ、1614年風雲急を告げる大阪の秀頼から幸村勧誘の書状が届きます。 しかし 幸村はこのとき九度山で浅野家の監視下にありました。 書物などによると浅野家は幸村に同情し特別に監視を緩くしていたそうです。 ここで疑問なのですが 秀頼からの書状は何故幸村に届いたのでしょうか? 普通ならこういう状況下では幸村に直接書状を届けるのは無理と思います なので事前に浅野家が検閲をしているでしょう 内容は秀頼からの勧誘の書状です 手紙を見た時点で浅野は家康に通報するはずですが そういう事は無かった様です 何故 秀頼からの書状が無事に幸村に届いたのか? と言うことです

  • 大坂の陣の前に豊臣秀頼の官位は剥奪された?

    豊臣秀頼は、大坂冬の陣の前の時点で正二位・前の右大臣という高い官位を有していました。秀頼の父である秀吉、その養子である秀次は、いずれも関白任官の直前には「正二位内大臣」の官職にありましたので、秀頼の「正二位・前の右大臣」という官位官職は「関白任官待ちの状態」と言えます。 これに対し、 徳川秀忠 従一位 右大臣 征夷大将軍 徳川家康 従一位 前の右大臣 前の征夷大将軍 の両名が「鐘銘事件」をきっかけに「因縁をつけて」、豊臣秀頼と断交し、諸大名を動員して大坂城を攻囲するに至ったわけですが、その過程で * 徳川方が朝廷に工作し、豊臣秀頼の官位を剥奪させた。 * 同じく徳川方が朝廷に工作し、豊臣秀頼を追討することを正当化する文書を出させた。 などということが行われたとは聞いたことがありません。 「正二位の高位の公卿を討つ」という尋常ならざる事態ですから、 「予め、秀頼の官位を剥奪して無位無官の地下人に落としてから天下の兵で攻撃する」 といった手続きが要るように思うのですが、そのような手続きは踏まれなかったのでしょうか?

  • 真田一族はそんなにすごいのか

    上田市出身なんで真田一族の評価が高く、ゲームで高い能力を持っていることは悪いきしません。でも冷静に考えるとそんなにすごいのか疑問に思います。 真田昌幸は武田家再考を目指していたが実現的なかった。また、領土はそれほど広げていない。秀忠の軍勢を引きとどめ関が原に影響を与えたが、秀忠に勝ったわけでも家康に勝ったわけでもない。関が原後は隠居し紐を作る程度の功績しか残していない。一言で言うと大きな功績を残していない。 幸村は関が原の戦いではそれほど目立った功績を挙げていない。大阪の陣で大活躍したことが知られているが、所詮二度の戦いであり戦をたくさん経験したわけではないから戦上手と評価するのは尚早、まぐれで家康に突っ込んだ可能性もある。元もと真田家の武将であり秀頼に大恩があるとは考えにくく、趨勢は完全に徳川に傾いている時期に秀頼のために命を懸けたのは無駄死に近い。 どう思いますか。よろしくお願いします。

  • 真田幸村の子孫

    本屋へ行ったら、「日本史有名人の子孫たち」(新人物文庫)という面白そうな本があったので購入しました。真田幸村のところを読んでみると、 真田幸村には男二人、女七人の子供がいたという。そのなかで、・・・石合十蔵道定の妻となったすへ以外は正妻の大谷吉継の娘が母親である。嫡男の大助は大坂城で豊臣秀頼に殉死したことで有名である。・・・次男の大八は幸村がまだ高野山麓の九度山にいたころ、京都で石合戦に参加して石に当たり、それがもとで死んでいる。 とあります。しかし、この内容は私が知っている事実とはあまりに異なるので驚いています。たとえば、真田幸村のウィキペディアには、次のように書いてあります。「次男の大八(真田守信)は伊達家重臣で後に三女・阿梅の夫となる片倉重長のもとで姉たちとともに保護され、後に元服し片倉守信となった。以降、公式に残る信繁(幸村)唯一の家系・仙台真田家として現在へも続くことになる。なお、片倉姓から真田姓に復したのは守信の子・辰信の時である。」 さらに、ウィキペディアでは、幸村の妻子は、正室(大谷吉継娘)のほか、側室が4人いたことになっており、子供の数も、男二人、女七人ではなく、男4人、女7人の計11人で、しかも、正室の子供は5人、残りの6人は側室の子供です。たしかに大八は正室の子供ですが、片倉重長の妻(後室)となる阿梅は側室の娘となっています。 新人物文庫の筆者(蒲生眞紗雄)はこれらの事実を知らないで書いているのでしょうか、それともウィキペディアの方に間違いがあるのでしょうか?すくなくとも、大八=守信が仙台真田家の初代となったことは厳然たる事実のように思えるのですが。。。

  • 浅野家が改易されなかった理由は?

    大阪冬の陣の直前 秀頼の要請を受けた真田幸村一行は蟄居先の紀州九度山を脱出して大阪城に馳せ参じました。 紀州は当時浅野左京太夫幸長が治めていた領地で 浅野家は九度山の幸村一行の監視も担っていました。 関ヶ原で敗れ蟄居中だった真田幸村は罪人です。 当然幸村に逃げられたとなれば浅野家は取り潰し物の大失態ですが 浅野家が処分される事はありませんでした(後年芸州広島・播州赤穂に国替えになりますがこの事とは無関係ですし) 何故お咎め無しだったのでしょうか?

  • 徳川家康 大阪夏の陣で死す

    結構有名な話ですよね? 大阪夏の陣の最終盤に真田幸村が三千の兵を三隊に分けて松平忠直軍一万三千に 突撃をかけ、家康の本陣を突き崩す 真田隊の鉄砲(幸村が仕掛けた地雷を踏んだとも…)で深手を負った家康は葬儀の棺に 紛れ脱出をはかるが、これを怪しんだ後藤又兵衛に棺を槍で突かれそれが致命傷で死んだらしい そして小笠原秀政が影武者となった しかし後藤又兵衛の件はやや難有り 又兵衛はその前に伊達の鉄砲で死んだという説が有力だからだ

  • 真田昌幸の秘策?実行されていたら…

    紀州九度山で 昌幸が亡くなる直前 息子の信繁(幸村)に託した 豊臣勝利の秘策についてです 秀頼から兵を借り 青野ヶ原へ布陣 そこは何もないただの平原で何故真田はこんなとこに布陣したのか徳川は疑問に思い 物見などを出してこちらの様子を伺うはず(家康は過去に昌幸に散々に負けた経験があるので 真田が無策でこんなとこに布陣したとは考えないであろう) そうこうしているうちに一ヶ月は時間を稼げる 真田の小勢が徳川の大軍を一ヶ月も釘付けにしたとなれば 豊臣有利とみて寝返る武将も出てくる そうなると徳川方に猜疑心が生まれ 混乱が起きる そこを一気に攻め立てる という「青野ヶ原の策」です 歴史にもしもはありませんが仮にこの策が実行されていたら豊臣の勝利の可能性はあったでしょうか?

  • 豊臣秀頼公の生存説及び島原の乱について

      大坂夏の陣において、名城大阪城とともに運命を共にされたと言われている豊臣秀頼公ですが、 次のような伝説・伝承があります。  ※秀頼公は、密かに大阪城を脱出し、   (1) 真田幸村公達とともに薩摩へ逃れ、子供も授かり、島津氏の庇護のもと天寿を全うした。   (2) 備中足守(?)へ逃れ、木下家の庇護のもと密かに天寿を全うした。(幕府も黙認)   というものです。私は、当時は写真やビデオなど映像が皆無の時代であり、城からの脱出さえ上手くいけば…ありえないことではないと思うのですが、皆様のお考えやそのような説を唱える学者の方がいらっしゃるのかご教示頂きたくお願いします。   また、島原の乱について「天草四郎は、秀頼公の子供か孫であり、真相は豊臣家の残党が彼を旗印にして、幕府に一矢報いたものであり、いくつかの外様大名が支持すれば幕府の存立にかかわる大事件(単なる一揆ではない)であったという話を聞いたことがあるのですが、真相はどうだったのでしょうか…   併せて、お考え等をご教示くださればありがたく存じます。   どうか、宜しくお願い申し上げます。

  • 茶臼山という地名が多いのはなぜ?

    茶臼山といえば、1614年に大坂冬の陣に徳川家康が本陣を置き、翌年の夏の陣に真田幸村が敗死した地で有名です。 調べてみると、茶臼山という地名は多いです。 栃木県北部にある那須岳の主峰の茶臼岳もありますし、 吉備には茶臼山城が2つもあります。 なぜ茶臼山という地名が多いのでしょうか? そもそも茶臼ってどういった意味ですか? 調べてみると、「碾茶(てんちや)をひいて抹茶にするためのひき臼」とあります。 なぜ↑の意味が「茶臼山」と地名に付けられるのでしょうか?