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真田信繁を大坂城に招いたのは誰か?
史実では九度山に蟄居せしめる信繁は豊臣秀頼の出馬要請を受けて九度山を脱出 大坂城にはせ参じたわけですが そもそも秀頼は真田信繁を知らないですし(名前ぐらいは聞いたことあるけど面識は恐らく無い) 大坂の首脳部(大野兄弟や速水甲斐守など)は信繁が信幸の弟であり 徳川と通じてる恐れがあるとして信繁を大坂に呼ぶ事は反対でした。 長宗我部や後藤などの浪人は大坂からの「浪人募集」のお触れで駆けつけたわけですが 豊臣秀頼の名前を使って真田信繁を大坂に呼び寄せたのは誰なのでしょうか?
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『駿府政事録』という幕府の記録が残されています。国会図書館のアーカイブで公開されているので誰でも閲覧できます。 以下は慶長十九年十月十四日の記述です。 「……京都板倉伊賀守飛脚到来其状曰大坂之躰相替儀雖無之諸牢人弥多抱置候由別紙注文捧之真田源三郎是者先年関原御陣之時為御敵蒙御勘気数年高野山引篭秀頼為当座音物黄金二百枚銀三十貫目遣播磨牢人若原右京召連大坂篭浅井周防守是者御母儀縁者其外根来三百騎篭城……」 京都所司代・板倉勝重は忍者・朝比奈正成らを大阪城に潜入させ、城内の状況を正確に把握していました。 駿府政事録において、板倉の報告はこの前後に度々出てきて豊臣方の動向を報告しています。長曾我部宮内少輔、後藤又兵衛らの名前も出てきますが、「秀頼が呼んだ」と名指しされているのは真田源三郎だけです。 このことから真田信繁招聘の発案者が誰にせよ、決定者は秀頼本人であったと考えてよいと思います。 それにしても『駿府政事録』で真田信繁に割かれている字数は牢人衆の中でダントツで、『徳川実記』でも真田親子はたびたび取り上げられています。徳川家にとって真田が不倶戴天の敵だったことは想像に難くありません。実際、大坂の陣でもえらい目に合わされていますからね。
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- oska2
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>豊臣秀頼の名前を使って真田信繁を大坂に呼び寄せたのは誰なのでしょうか? 「武林雑話」の記述では・・・。 「秀頼の意向を受けた大野治長の使者」となっていますね。 紀州は、大野治長の旧所領です。 人脈も残っていたので、案外真田とは連絡をとっていたのかも知れません。 >そもそも秀頼は真田信繁を知らない 「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きも退いたよ鹿児島へ」 という童話が残っている様に、案外知っていた可能性もあります。^^;
お礼
「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きも退いたよ鹿児島へ」 は 江戸時代中期の作り話ですね
- ithi
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azuki-7 さん、こんばんは。 大野修理でしょう。彼としては自分たちの一族だけでは心もとないほか、実戦経験を大きく欠いている彼らでは明らかに徳川勢とは実力が大きく開いているので、関ケ原以来、不遇をかこっている戦国武将がちょうどよかったと思います。
お礼
ありがとうごつざいます
お礼
徳川は親子二代に渡って真田父子に散々な目に合わされましたね