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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《法を見るものは私を見る。私を見るものは法を見る》)

法を見るものは私を見る。私を見るものは法を見る

nyan_nyankoの回答

回答No.25

 こんばんは > つまり ゴータマの発言にあっては 矛盾することを何らかまわないかのごとく あい対立する内容のことを言う場合があるかとさえ考えられて来ます。  おそらく、同じ時代、しかもほぼ同じ場所にて活動したジャイナ教(アートマンの不滅を説いています)の影響もあったのかもしれません。このため、思想に矛盾するところがでてきたのかもしれません。憶測に過ぎませんが。 参考 http://www.hm.aitai.ne.jp/~genkou/jituzon/indojaina.html  > つまり要するに 《永遠》といった概念は持っていた・また使っていたのではないかとも推測されるのではないか。とは思うのです。  初期・部派仏教時代にも、”輪廻”を肯定していました。これらは、《不死》や《永遠》を前提としていると考えられます。従って、これらの概念もあったのかもしれません。 > さらにあるいは 法身仏=つまり この場合は 法を説くゴータマ・ブッダ というような捉え方から この法もブッダも 永遠なるもの・永遠なる存在であるといった見方へと広がって行ったかも分からない。  そういう意味において 現代において 拡大解釈をも許容して どう捉えるかと考えてはいました。  そうでございましたか。了解致しました。  大乗仏教におきましては、このような傾向は顕著にみられますので、その各時代において、思想の変化などがあったのかもしれません。 > 微妙ですね。つまり ひとつの基本は 当時の情況の中で――おっしゃるように――その言葉の意味を確定して捉えることでしょうね 確かに。  スッタニパータは今日でも上座部の経典でもあります。さらにこの上に大乗仏教(現在も対立がみられます)の思想を加えてしまいますと、複雑化し過ぎてしまうと考えたため、このように簡略化させていただきました。 > ☆ ううーん。何だか わかりづらいところですね。《人間ではなくなっている》って言っても まだ生きている間のことをも言っているように思われるんです。  スッタニパータには、以下のように”来生”に関する記述も見られます。このため、”来生”のことかと考えました。  もちろん、生きている間なのかどうかにつきましては、はっきりとしたことはわかりません。誠に申し訳ございません。 404 正しい法(に従って得た)財を以て母と父とを養え。正しい商売を行え。つとめ励んでこのように怠ることなく暮らしている在家者は、(死後に)<みずから光を放つ>という名の神々のもとに赴く。」 > ▼ 師(1074): そのように聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって、(生存するものとしては)数えられないのである。  ☆ これも まだ生存しているあいだについても言っているように思えるのですが どうなんでしょうねぇ。  ”身体から解脱”とありましたので、”生存していない”と考えましたが、やはり、これもわかりません。ごめんなさい。 > ○ それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。  これですが 有るか無いかの判断基準を超えている。相対性の世界を超えている。というふうにも見られるように思うのです。  確かに、形而上的な意味合いを持っていると考えられます。 > ただし もしそうだとしても それは おそらくそのような神に 人間が成る。つまり ゴータマが 神なる存在に成った。というような見方を言っているのなら それは ちょっとどういう現実かと疑わねばならないようにも思います。  上記の404詩にもございますが、ゴータマが神になった、とは言い難いと思われます。 > 法には 相対的な世界におけるブッダの現実のすがた・その徳のありさまを言う場合と  そうして あたかもこの相対性の世界を超えたところのことをも指し示しているかのような場合と――ふたつの意味があるように感じます。  後者(相対性の世界を超えたところ)の例として以下の詩がございました。もしかしますと、形而上的なものまで及んでいたのかもしれません。 139 かれは神々の道、塵汚れを離れた大道を登って、情欲を離れて、ブラフマン(梵天)の世界に赴いた。(賤しい)生まれ、ヴェーダの文句に親しむバラモンたちも、しばしば悪い行為を行なっているのが見られる。 285 バラモンたちには家畜もなかったし、黄金もなかったし、穀物もなかった。しかしかれらはヴェーダ読誦を財産ともなし、穀物ともなし、ブラフマンを倉として守っていた。 > そしてこの後者の絶対の世界については 非経験の場であると想定したかたちでの捉え方が あいまいである。だから ブラフマン神と人間における霊我アートマンといった非経験の場のことを ゴータマは捉え得ていなかった。  部派仏教時代、また現在の上座部も含めまして、「無神論」であるというのが通説だったと思われます。ですが、上述の詩にもございますが、”ブラフマン神”という語だ出てきます。これをどのように解釈すべきかは、はっきり申しまして難しいのですが、 ・このスッタニパータも後に種々改変されたものである ・アートマンの否定から出発したため、ブラフマンについて積極的には言い出すことが困難となった。  のような推測が可能かもしれませんが、形而上的なものに関しては消極的であることは確かなように思えます。そういう意味では、捉えていたかもしれませんが、消極的な姿勢を堅持したため、「ブラフマン神と人間における霊我アートマンといった非経験の場」については敢えて言及しなかった、もしくは後の編集者達はこれを無視したのかもしれません。これも憶測ではございますが・・・ > そういうあいまいさ――つまり 両義性としては 両方の意味がありうる――において  ▼ 法を見るものは私を見る。私を見るものは法を見る  ☆ と言っている。のであろうと見るのですが どうでしょうかねぇ。  そうでございますね。改めてスッタニパータを見ますと、両方の意味もありうる、そう感じさせられました。    憶測だらけの回答となってしまいました。残念ながら、これがわたくしの限界かもしれません。  それでは、失礼をば・・・

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ▼ (スッタニパータ)  ~~~~~~~~~~~  1074  師《ゴータマ)が答えた、     「ウバシーヴァよ。     たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は     滅びてしまって(火としては)数えられないように、     そのように聖者は名称と身体から解脱して     滅びてしまって、     (生存するものとしては)数えられないのである。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《聖者は名称と身体から解脱して 滅びてしまって、(生存するものとしては)数えられないのである。》――これは 生きている聖者について言っているのではないでしょうか。  死んだ者が 《滅びてしまって、(生存するものとしては)数えられない》のは 当たり前ですから。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ これですが 有るか無いかの判断基準を超えている。相対性の世界を超えている。というふうにも見られるように思うのです。  確かに、形而上的な意味合いを持っていると考えられます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ いいえ。《非思考の庭 ないし 非経験の場》は 《形而上学》ではあり得ません。形而上学は 思考の問題です。相対性にかかわる経験世界に属します。いいかげんなことは言わないでください。  ★ ・アートマンの否定から出発したため、ブラフマンについて積極的には言い出すことが困難となった。  ☆ この要因は おおきいかと考えます。

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