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俳句における表現について!
TANUHACHIの回答
補足ありがとうございました。 >最初の五文字には、親交が入ります。「親交とは気持ちを架ける最上川」 もしこれが御作ならば、季語がありません。回答者1の方には「季語が必要」と言いながら矛盾してしまいます。 閑話休題 芭蕉の句を引用された方がおりますので、僕も芭蕉と近代俳句から引用してみたいと存じます。しばしお付き合いのほどをお願い致します。 芭蕉の作に「蛸壺や儚き夢を夏の月」があります。一見するととてもシュールな作品に見えますが、この句には芭蕉による先人(西行や紫式部)に対するオマージュ的な部分が多分にあります。 この句が詠まれた場所は「明石」です。古くは源平合戦で平氏が西国へと落ち延びてゆく最初の土地であり、都を離れ、どこにも行く当てのない流離いを「出口のない蛸壺」に重ね合わせている。 そして何よりも芭蕉がこの句に閉じ込めた感慨は「儚き夢」と「夏の月」に凝縮させてもいる部分に注目する必要もあります。これがもし「春の月」だったなら、蕪村の句「公達に狐化けたり春の月」とほぼ同じ作になりもします。 春、朧の月明かりの下で舞っている狐の姿は我が世の春を謳歌していた平氏の公達のそれを想起させて十分に余りある。それは恰も藤原一族のそれと見まがいはしまいかとの蕪村の詠嘆と芭蕉では、平家一門に対する距離感は少し異なりもします。 そして「明石」に連なるといえば、『源氏物語』の「須磨」があります。芭蕉が『笈の小文』で詠じたこの一句には、その動機の一端を記す言葉が遺され「かゝる所の穐なりけりとかや。此浦の實は、秋をむねとするなるべし。かなしさ、さびしさいはむかたなく、秋なりせば、いさゝか心のはしをもいひ出べき物をと思ふぞ、我心匠の拙なきをしらぬに似たり。淡路嶋手にとるやうに見えて、すま・あかしの海右左にわかる。呉楚東南の詠もかゝる所にや。物しれる人の見侍らば、さまざまの境にもおもひなぞらふるべし。」と綴られています。 『源氏』では中納言行平が評した須磨の浦や明石の海辺の美しさは秋に限るとされているが、今は残念ながら夏である。 けれどもなんとか「秋の気配」を感じさせる要素はないものだろうかと芭蕉が見渡すと、苫屋の片隅に置かれた蛸壺が目に入った。入り口はあっても出口がない人生の片道切符にも似たこの狭い空間に身を寄せたらそれは自らの行く末を宣告されたに等しい。そして「秋」は「開き」「空き」へと変化していく。 俳聖芭蕉はこうした「前提全て」を十七文字に閉じ込めたのであり、そこには一つとして無駄な言葉が使われてもいません。 ですから、感動がなければ俳句は成立しないとは一概には言えないこととなります。むしろ冷静な観察眼で対象をみつめ、それを最もシンプルな言葉で表現もする形です。 一方の近代俳句からは正岡子規のあの作品を採り上げてみます。「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」。これも同様です。斑鳩にある古寺の参道で柿を食べていたら、その折に鐘の音が聞こえてきた。ただそれだけの光景です。子規が柿を食べていたことと鐘が鳴ったことは別に何の脈絡もない話です。柿を食べる光景が秋を感じさせるだけならば、何の感動もありません。もしかしたら、柿を食べたことで少しは空腹が満たされた程度かもしれません。 話が大分と横道に逸れてしまいました。質問者様の投句では「親交」を説明するために最上川の流れとそこに架かる橋を掛けたとありますが、そうしたテクニック的な部分に拘泥されたのでは俳句と言葉そのものを狭い空間に閉じ込めはしまいかとあらぬ危惧を感じもします。 橋というなら、鵲の渡せる橋の~の歌にもあるように、男女の仲を想起させるならば誰もが知っていて、ああそうかと解りますが、友情や親交といったテーマならば、むしろ遠離ってしまうような印象があります。 「文化村 師走の街や 夜会の宴」、今、作ってみた句ですが、渋谷にある文化村では師走の季節になりますと、中島みゆきさんによる恒例の『夜会』が上演されていました。逆に言えば、『夜会』のポスターがあちこちに見え出すと、もう今年も師走なんだなとの季節の移ろいの速さも感じさせてしまう、との感慨を読み取ることも可能でしょう。 これは『夜会』や渋谷の街を知っている人ならば理解もできますが、全く知らなければ、「これ、一体何?」と却下されてしまいます。それと似ているのではありませんか?
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お礼
丁寧な御回答、有難うございました。
補足
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