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俳句における表現について!

  • 質問No.8492660
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お礼率 57% (88/153)

俳句を作成するにあたり言葉の意味を理解するのは大事ですが、例えば、『かける』という表現に
『気持ちを架ける』という表現法は、間違っているのでしょうか。架けるは、橋を架ける、或いは、虹が架かるというお互いに離れたもの同士をつなぐ意味があるようですが、『○×は気持ちを架ける最上川』という表現は俳句として成り立ちますか。

質問者が選んだベストアンサー

  • 回答No.5
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ベストアンサー率 31% (790/2548)

 補足ありがとうございました。
>最初の五文字には、親交が入ります。「親交とは気持ちを架ける最上川」
もしこれが御作ならば、季語がありません。回答者1の方には「季語が必要」と言いながら矛盾してしまいます。
 
 閑話休題
芭蕉の句を引用された方がおりますので、僕も芭蕉と近代俳句から引用してみたいと存じます。しばしお付き合いのほどをお願い致します。

 芭蕉の作に「蛸壺や儚き夢を夏の月」があります。一見するととてもシュールな作品に見えますが、この句には芭蕉による先人(西行や紫式部)に対するオマージュ的な部分が多分にあります。
 この句が詠まれた場所は「明石」です。古くは源平合戦で平氏が西国へと落ち延びてゆく最初の土地であり、都を離れ、どこにも行く当てのない流離いを「出口のない蛸壺」に重ね合わせている。
 そして何よりも芭蕉がこの句に閉じ込めた感慨は「儚き夢」と「夏の月」に凝縮させてもいる部分に注目する必要もあります。これがもし「春の月」だったなら、蕪村の句「公達に狐化けたり春の月」とほぼ同じ作になりもします。
 春、朧の月明かりの下で舞っている狐の姿は我が世の春を謳歌していた平氏の公達のそれを想起させて十分に余りある。それは恰も藤原一族のそれと見まがいはしまいかとの蕪村の詠嘆と芭蕉では、平家一門に対する距離感は少し異なりもします。
 そして「明石」に連なるといえば、『源氏物語』の「須磨」があります。芭蕉が『笈の小文』で詠じたこの一句には、その動機の一端を記す言葉が遺され「かゝる所の穐なりけりとかや。此浦の實は、秋をむねとするなるべし。かなしさ、さびしさいはむかたなく、秋なりせば、いさゝか心のはしをもいひ出べき物をと思ふぞ、我心匠の拙なきをしらぬに似たり。淡路嶋手にとるやうに見えて、すま・あかしの海右左にわかる。呉楚東南の詠もかゝる所にや。物しれる人の見侍らば、さまざまの境にもおもひなぞらふるべし。」と綴られています。
 『源氏』では中納言行平が評した須磨の浦や明石の海辺の美しさは秋に限るとされているが、今は残念ながら夏である。
 けれどもなんとか「秋の気配」を感じさせる要素はないものだろうかと芭蕉が見渡すと、苫屋の片隅に置かれた蛸壺が目に入った。入り口はあっても出口がない人生の片道切符にも似たこの狭い空間に身を寄せたらそれは自らの行く末を宣告されたに等しい。そして「秋」は「開き」「空き」へと変化していく。
 俳聖芭蕉はこうした「前提全て」を十七文字に閉じ込めたのであり、そこには一つとして無駄な言葉が使われてもいません。
 ですから、感動がなければ俳句は成立しないとは一概には言えないこととなります。むしろ冷静な観察眼で対象をみつめ、それを最もシンプルな言葉で表現もする形です。

 一方の近代俳句からは正岡子規のあの作品を採り上げてみます。「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」。これも同様です。斑鳩にある古寺の参道で柿を食べていたら、その折に鐘の音が聞こえてきた。ただそれだけの光景です。子規が柿を食べていたことと鐘が鳴ったことは別に何の脈絡もない話です。柿を食べる光景が秋を感じさせるだけならば、何の感動もありません。もしかしたら、柿を食べたことで少しは空腹が満たされた程度かもしれません。

 話が大分と横道に逸れてしまいました。質問者様の投句では「親交」を説明するために最上川の流れとそこに架かる橋を掛けたとありますが、そうしたテクニック的な部分に拘泥されたのでは俳句と言葉そのものを狭い空間に閉じ込めはしまいかとあらぬ危惧を感じもします。
 橋というなら、鵲の渡せる橋の~の歌にもあるように、男女の仲を想起させるならば誰もが知っていて、ああそうかと解りますが、友情や親交といったテーマならば、むしろ遠離ってしまうような印象があります。
 「文化村 師走の街や 夜会の宴」、今、作ってみた句ですが、渋谷にある文化村では師走の季節になりますと、中島みゆきさんによる恒例の『夜会』が上演されていました。逆に言えば、『夜会』のポスターがあちこちに見え出すと、もう今年も師走なんだなとの季節の移ろいの速さも感じさせてしまう、との感慨を読み取ることも可能でしょう。
 これは『夜会』や渋谷の街を知っている人ならば理解もできますが、全く知らなければ、「これ、一体何?」と却下されてしまいます。それと似ているのではありませんか?
補足コメント
taka_632

お礼率 57% (88/153)

このような俳句を作ったのは、初めてなんです。
何故、川を人と人との距離に置き換えたかというと、そのヒントは、天の川だったです。織姫と彦星が天の川で隔てられたいる。そこで、お互いに天の川に気持ちを架けて、親交にという事を詠みたかったんです。

夜会の例で、指摘されておりますが、確かに、知らない人が読むと意味不明なのでしょうね。

今日は、詳しい解説をしていただき、有難うございました。

俳句をはじめて、1年目になります。
因みに、私の特選句は、

水鏡俯き行けば秋の空

鰯雲姿消え行く空が海

空青く降りてくる風野路の秋
投稿日時:2014/02/28 21:42
お礼コメント
taka_632

お礼率 57% (88/153)

丁寧な御回答、有難うございました。
投稿日時:2014/02/28 22:21

その他の回答 (全4件)

  • 回答No.4

ベストアンサー率 52% (1738/3335)

他カテゴリのカテゴリマスター
五七五にすれば一応形としては俳句にはなると思いますが、好いかどうかとかおもしろいかどうかはまた別でしょう。
季語はどうするのだという疑問が他の人からも出ていますけれど、季語を入れるというお約束の意味は季節感とか自然とか空気感のような物を捉えると好いですよというヒントであると考えるべきでしょう。
そのことによって“情景を浮かび上がらせる”というところに俳句という短い詩のおもしろさが良く出るという考え方があるわけです。

それは「私は人との親交を大事だと思います」と描くのではなくて、自然やあるいは人と人との何気ない情景から人のつながりを感慨深く捉えた経験を描く方がすぐれているという考え方です。

自分の思想をただ五七五に置き換えただけでは「人生標語」にすぎず、俳句や短歌特有の感覚的な共感は得られないと思います。

「架ける」という言葉を何か象徴的に使えないだろうか、という動機で模索していらっしゃるのでしょうが、そういう観念的な理屈を出発点にしないで、ちょっとしたことで実際に感じた出来事を写真のように描写してみるような事から発想されてはいかがかと存じます。
その上でならば掛けことばだとか、象徴的な語だとかも技巧として意味が出てくるだろうと思います。
補足コメント
taka_632

お礼率 57% (88/153)

そうですね。俳句は、川柳とは違い、人生標語ではありませんね。自然を例にだすならば、植物の擬人化は面白いと思います。

会うたびに何故か照れてるアマリリス
投稿日時:2014/02/28 21:47
  • 回答No.3

ベストアンサー率 27% (1021/3685)

俳句は、感動がなければ成立しません。
「気持ち」は感動から生まれた作者(あなた)の言葉でしょうが、その内容を事物や季語に託して表すのが、詩的文章の本質です。
『行く春や 鳥啼き 魚の目は涙』
これは、芭蕉が奥の細道の旅に出て、千住に立ち寄り、そこで見送りの人々との別れの句として作ったと云われます。
『行く春』には自分の旅立ちへの決心が込められ、『鳥啼き』には見送りの人達から掛けられる旅先での無事を祈る声や別れを惜しむ声が、『魚の目は涙』は、自身の目にも見送りの人達の目にも潤むものが有ったことを表したものでしょう。
この様に、気持ちや感動を事物に仮託して表現するのが、俳句の本道のようです。

『親交とは気持ちを架ける最上川』
これでは最上川が泣いてしまいます。
『最上川彼岸の人の赤い布』のような表現なら、『赤い布』が恋人若しくは親交の深い人を象徴し、大河を挟んでの心の交流をも表すかと思います。
不味い添削でご免なさい。
  • 回答No.2

ベストアンサー率 31% (790/2548)

 何か意味不明な質問ですね。
「架ける」から両端を繋ぐ物とのイメージを想起させる、ここまでは解ります。
 けれども「気持ちを架ける」を「離ればなれになっている者達の思いを繋ぐ」との意味で使うなら、その場合は「気持ちを結ぶ」でよいのではありませんか?。
 それとも「架ける」に相当の思い込みがある理由があるのでしょうか。ここまでは一点目の疑問であり質問に対する回答ともなります。
 次は「季語の扱い」です。○×の部分に季語を入れるとすれば、一例として「五月雨」を入れてみます。「五月雨は気持ちを架ける最上川」となり「は」がおかしな要素となります。もしこれが別の助詞だったならまた違う解釈のできる余地もありえます。
 けれども「最上川」が邪魔な存在となってしまいます。感じたままに作れといっても、一応は言葉の連なりですから、それなりの論理関係を必要とします。
 五月雨が降っていることと最上川がどう関係するのか、何の脈絡もありません。というわけで、言葉を並べただけとの評価になると考えます。
補足コメント
taka_632

お礼率 57% (88/153)

御回答、ありがとうございます。
そうですね。
質問の詳細が書かれていなかったので、意味が読み取り難かったと思います。この俳句は、自分と他人との距離を川に喩えてみたかったのです。最初の五文字には、親交が入ります。

親交とは気持ちを架ける最上川
投稿日時:2014/02/28 09:51
  • 回答No.1

ベストアンサー率 23% (1061/4470)

かける、というのは、
かけ言葉の意味じゃないですか?

それに、俳句というのは、季語が必要ですし。
補足コメント
taka_632

お礼率 57% (88/153)

季語は、○×の部分に入れます。
投稿日時:2014/02/27 16:56
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