• 締切済み

選択集について

馬鹿 禿(@baka-hage)の回答

回答No.3

まず、「五番相対」とは五種正行と五種雑行の二つを、阿弥陀仏との関係の厚薄有無を五つの観点から分類したもので、(1)親疎対(2)近遠対(3)有間無間対(4)廻向不廻向対(5)純雑対です。この五番相対は、五種正行を修するものは阿弥陀仏に対して親縁であり、近縁であり、阿弥陀仏との関係に間無く、また特別に廻向する必要もなく、純粋な極楽往生のための行であるとします。それに対し雑行を修するものは、阿弥陀仏以外の諸仏諸菩薩または経典等の行を修しているのだから、阿弥陀仏とは疎であり遠であり、有間であり、廻向行であるから、雑な行ということになります。このように五種の正行のものと雑行のものとの間では、五種類の得失があるため、雑行を捨てて正行を修することをすすめています。  次に「十三得失」とは善導の『往生礼讃』に説かれるもので、法然は『選択集』にこれを全文引用しています。そのなかで善導は、五種正行をもっぱら修するものは十人は十人ながら、百人は百人ながら往生できるのに対して、雑行を修するものは千人中五人か三人往生できるかもしれないが、もし雑行を修するものの中で真実の心を欠いているものは一人も往生できないと説いています。その説を受け法然は、百人いれば百人往生できる念仏を捨てて、千人いても一人も往生できないという雑行に固執する必要がどこにあろうかと結論付けます。「千人いても一人も往生できない」という部分には、末法という悟るどころか修行すらできない時代背景と自身の凡夫の自覚から、悟るための自力の修行に対して真実の心を持つことができないという法然の厳しい自己認識が伺えます。そういったなか五種正行を修する人は十三の得があり、雑行を修するものは十三の失があるとするのが十三得失です。その失の十三の項目は、(1)雑縁が乱動して正念を失なうが故に(2)仏の本願と相応せざるが故に(3)教えと相違するが故に(4)仏語に順ぜざるが故に(5)係念相続せざるが故に(6)憶念間断するが故に(7)廻願慇重真実ならざるが故に(8)貪瞋諸見の煩悩来りて間断するが故に(9)慚愧懺悔の心あることなきが故に(10)相続してかの仏恩を念報せざるが故に(11)心の軽慢を生じて行業なすといえども、つねに名利と相応するが故に(12)人我自ら覆うて同行の善智識に親近せざるが故に(13)楽(ねご)うて離縁に近づきて往生の正行を自障々他するが故に以上が、雑行を修するものの十三の損失です。その反対に五種正行を修するものには十三の得があるといいます。それを、『往生礼讃』には十三の得のうちはじめの四得だけをあげています(1)外の雑縁なく正念を得るが故に(2)仏の本願に相応するが故に(3)教えに違わざるが故に(4)仏語に順ずるが故に、以上四得のみをあげて以下を省略しています。法然は『選択集』の中では四得は省略しています。それは十三の損失を反対を考えれば十三の得になるから省略したのでしょう。  このように法然は仏教の各種経典に説かれる諸種の修行法を、善導や道綽・懐感の意見を参考に大きく二つにわけて、阿弥陀仏に極めて近しい五種正行と疎遠な雑行に区分し、「五番相対」「十三得失」という理由をもって、五種正行を選び取って雑行を廃するとなります。この雑行を捨てて正行を選び取ることを、先の聖道門を捨て浄土に帰することを「一重の選択」というのに対して、「二重の選択」といいます。  (3)第三重の選択 正定業と助業 「正行を脩せむと欲はば正助二行の中に、なほし助業を傍らにして、選じてまさに正定を専らにすべし。正定の業とは即ちこれ仏名を称するなり。み名を称すれば、必ず生ずることを得。」  上記の五種正行に次いで法然は善導の考えを受容し、五種正行うち読誦正行・観察正行・礼拝正行・讃歎供養正行の四つは称名正行を行ずるものを助けるための行であるとして「助業」と名づけ、称名正行は阿弥陀仏が本願に定めてくださった行いであるから「正定業」と名づけています。この助業というのは、念仏の功徳が薄いためそれを補うための補助行としてではなく、称名念仏する人を励ましよりいっそう念仏させるために行うのを助業と呼びます。これについて法然は『選択集』第二章において、「善導和尚の意によらば、往生の行多しといえども、多きに二つに分つて二とす。一に正行、二には雑行。初めに正行とは、これについて開合二義あり。初めの開を五種とし、後の合を二種とす」と説いて、「初めの開を五種とし」とは五種正行のことで上記のとおりです。「後の合を二種とす」というのは、 合を二種とすというは、一には正業、二には助業。初めの正業は、上の五種の中の第四の称名をもって正定の業とす。即ち文に「一心に専ら弥陀の名号を念じて、行住坐臥、時節の久近を問わず、念々に捨てざるもの、これを正定の業と名づく。かの仏の願に順ずるが故に」と云う、これなり。次に助業は、第四の口称を除いての外、読誦等の四種をもつて、しかも助業とす。即ち文に「もし礼誦によるをば、即ち名づけて助業とす」と云ふ、これなり。 意訳 合の二種というのは、一つは正定業、二つは助業です。最初の正定業とは五種正行なかの称名正行をもって正定業します。即ち『観経疏』の「一心にもっぱら阿弥陀仏の名前を称えて、行住坐臥いづれの時でも長くとも短くとも、念仏を続けることを、正定業といいます。阿弥陀仏の願に順じるが故に」と説いている、これです。次に助業は称名正行以外の、読誦等の四種をもつて、助業とします。即ち『観経疏』に「阿弥陀仏を礼誦するというのは、即ち名づけて助業とします」という、これです。 と説いて、称名正行は仏の願に順ずる行いですから正定業として、五種正行の中でも称名正行以外の正行が助業と呼ばれます。阿弥陀仏が定めた正定業である称名念仏を行ずるのに助業が必要なのかというと、念仏は本願の行であるが極めて簡単な行であるために、煩悩具足の凡夫は怠惰な心が起こりやすく念仏を中断しがちになってしまいます。このようなことを懸念して、怠惰な心をおこさないように助業を交え修するのです。いうなれば、助業とは凡夫に念仏させるための雰囲気作りをするためのものといえます。  また法然は、五種正行を二分して正定業と助業に区分した場合の助業のほかにもう一つ助業があることを『選択集』第四章において明かしています。「一には同類の善根をもつて念仏を助成す。二には意類の善根をもって念仏を助成す。」と説いて、一の五種正行を正定業と助業に分けたときの助業を「同類の助業」と称します。二はこの他に「異類の助業」と呼ばれるもので、これはさきに「五番相対」または「十三得失」という理由によって雑行として廃捨されたものが念仏の助業として関係を持つことをいいます。それについて法然は『十二問答』において、 我こころ阿弥陀仏の本願に乗し決定往生の信をとるうえは、他の善根に結縁し助成せむことまったく雑行になるべからず、我往生の助業となるべきなり 意訳 私の心は阿弥陀仏の本願本願に任せて、必ず往生できるという信を確立した上ならば、他のもろもろの善行とご縁を結ぶべきことは、決して雑行ににはなりません。むしろ、自身の極楽往生を助けるための行いになるのです。 と説いています。また、『禅勝房伝説の詞』に 現世をすぐべき様は、念仏の申されん様にすぐべし。念仏のさまたげになりぬべくは、なになりともよろずをいといすてて、こえおをとどむべし。いわく、ひじりで申されずば、めをもうけて申すべし。妻をもうけて申されずば、聖にて申すべし。住所にて申されずば、流行して申すべし。流行して申されずば、家にいて申すべし。自力衣食にて申されずば、他人に助けられて申すべし。他人に助けられて申されずば、自力衣食にて申すべし。一人にて申されずば、同朋とともに申すべし。共行して申されずば、一人籠居してもうすべし。衣食住の三は念仏の助業なり。これすなわち、自身安穏にして念仏往生をとげんがためには、何事もみな念仏の助業なり。 意訳 この世を生きていくのは、念仏を称えながら過ごしていくべきです。お念仏の妨げであれば、たとえどんなことであっても厭い捨てて、それをやめなさい。たとえば、出家して世俗を離れた聖者として念仏が称えられないのであれば、妻をめとって念仏しなさい。それでは念仏できないというのであれば、世俗と離れ聖者として念仏しなさい。定住しては称えられないというのなら、各地を遊行して称えなさい。遊行して称えられないというのなら、家にいながら称えなさい。自分の力で衣食をまかなっていてはお念仏できないというのであれば、他の人に助けてもらいながら念仏を称えなさい。他の人に助けてもらっては念仏できないというのであれば、自身の力で衣食をまかないながら称えなさい。一人では称えられないというのであれば、お念仏の仲間たちと称えなさい。仲間と一緒に念仏できないのであれば、一人で籠って称えなさい。衣食住の三つは念仏を助けるためのものです。つまり、この自分が平穏にお念仏を称えて往生するためのことは、どのようなことでも全て念仏を助けるためのものになりえるのです。 つづく

関連するQ&A

  • 鎌倉新仏教-法然-について

    鎌倉新仏教についての質問です。法然は、専修念仏による極楽浄土を唱えましたが、そのときに、南都仏教の連中から攻撃をうけました。新興勢力をたたいたかんじもありますが、彼らは法然の何を批判・攻撃の根拠としたのですか?攻撃を受けた理由がわからないのです。どなたか詳細お願いいたします。

  • 法然と親鸞

    法然と親鸞 法然は浄土での往生の方法として、出家や修行ではなく専修念仏のみでよいと説かれました。それを継いだのが親鸞だと思います。 今、法然の浄土宗より、親鸞の浄土真宗の方がよく広まっているのはなぜでしょうか?また、二派の考え方の大きな違いは何でしょうか?

  • 念仏も6万回唱えたら自力じゃないか

    先日、NHKの方丈記のテレビ番組を見てたのですが、 その中で「法然が念仏を6万回唱えたら、それはもう自力じゃないか」という 趣旨の発言があり、たしかにもっともだと思ったのですが 法然はこれについて何か反論してるのでしょうか?

  • 浄土真宗における菩薩について

    念仏行者を「菩薩」だとみる見方はあるのでしょうか?(法然が勢至菩薩の化身だとかいうのは除いて) 現生正定聚というのは弥勒の位と同じだと言われていますが、凡夫のままで弥勒の位と同じなんでしょうか?それとも念仏者が菩薩になるのでしょうか?

  • 「念仏を唱えれば成仏できる」の意味の本質は?

    仏教に素人のものです。 法然が唱え、親鸞が普及させた念仏信仰ですが、 これの本質はどういうものなのでしょうか? 世界でも類をみないユニークな教えだと思います。 この考え自体は経典にあるそうですが、 「念仏を唱えさえすれば、死後極楽にいける」 という単純なものではないように思います。 「いかに生きるべきか」という問題を内包していると 予想しているのですが。 また現在信仰している人は、阿弥陀仏や極楽浄土をどのように 解釈しているのでしょうか? 昔の解釈のまま受け入れているのか、あるいは別のものに解釈しなおしているのか。 現在に法然や親鸞がいたら、どう説明するのでしょうか? 時代に合わせた別の理論を組み立てるでしょうか、それとも念仏理論で十分でしょうか。 よろしくお願いします。

  •  鎌倉仏教で登場する法然・親鸞の念仏と、日蓮の題目は、どう違うのでしょ

     鎌倉仏教で登場する法然・親鸞の念仏と、日蓮の題目は、どう違うのでしょうか? ご存じの方、よろしくお願いします。

  • 天台宗だった六波羅蜜寺で隠れ念仏が行われたのはなぜ?

    (1)京都・六波羅蜜寺は977年に比叡山の僧・中信が中興して以降、天台天台宗に属していたそうですが、桃山時代に真言宗智積院の末寺となったそうです。 寺院の宗派は簡単に変えることができるのでしょうか。 (2)六波羅蜜寺では年末に隠れ念仏が行われています。 これはかつての念仏弾圧から逃れるために密かに念仏を行ったことの名残だそうです。 念仏弾圧が行われたのは鎌倉時代だと思いますが、このとき六波羅蜜寺は天台宗です。 浄土宗の開祖である法然は、1204年に比叡山の宗徒に念仏停止を訴えられています。 比叡山延暦寺は天台宗であり、天台宗は念仏を快く思わなかったのではないか、と思うのですが なぜ天台宗であった六波羅蜜寺において隠れ念仏が行われたのでしょうか。 (3)上記の記述において間違いがあれば指摘いただければ幸いです。

  • そこまで菩提心が問題なのか?

    ~~~~~~~~~~~~ 法然は,また十二章「釈尊、定散の諸行を付属したまはず。ただ念仏をもつて阿難に付属したまふの文」においては,観経に説く「菩提心」に関し、次のように言う。 発菩提心とは,諸師の意不同なり。天台には即ち四教の菩提心あり。謂はく蔵・通・別・円これなり。 つぶさには止観の説の如し。真言には(中略),華厳には(中略)、三論・法相に,おのおの菩提心あり。 つぶさにはかの宗の章疏等の説の如し。また善導の所釈の菩提心あり。つぶさには疏に述ぶるが如し。発菩提心その言一なりといへども,おのおのその宗に随つて、その義不同なり。(中略)願はくはもろもろの行者,一を執して万を遮することなかれ。もろもろの往生を求めむ人,おのおのすべからく自宗の菩提心を発すべし。たとひ余行あしといえへども,菩提心をもつて往生の業とするなり。 この文に関する限り,法然は「善導の所釈」の浄土門に固有な菩提心の存することを認め,同時に聖道門・顕密諸宗の菩提心についても、これを全面的に否定する如き立場をとつてはいないのである。しかし同章の後段において,法然は再び菩提心否定の立場を明確にする。 答へて曰く,「仏の本願を望むに、意、衆生をして一向に専ら弥陀仏の名を称せしむるにあり」と云ふ。定散の諸行は本願に非ず。 経中に「定散を説くことは,念仏の余善に超過たることを顕はさむがため」に過ぎず,したがって 「菩提心はこれ浄土の綱要なり。もし菩提心なき者は,即ち往生すべからずと」考えることは誤りである。菩提心を含め「定散は廃せんむがために説き、念仏三昧は立たせむがために説く」のが経の本意である。法然において,菩提心は往生業としては,究極「余行」として位置づけられる。法然のこの菩提心観は,その思想の中核をなす本願念仏説を構成する契機である。しかしそこに,明恵から大乗仏教の基本的立場に反するとの批判がなげかけられる理由がある。明らかに菩提心は大乗仏教一般の基本をなすものであり,このことは中国・日本の浄土系思想において一貫した思想的伝統であった。しかるにこれを法然は否定したのであり,ここに法然浄土教の独自性と,同時に問題が存する。 菩提心に関する一考察 ――明恵・法然・親鸞の所説をめぐって―― 熊田健二 http://ir.iwate-u.ac.jp/dspace/bitstream/10140/2587/1/al-no57p001-017.pdf 5~6ページ ~~~~~~~~~~~~~~~ 私はもうokwaveに参加したくないのです。 中国人や韓国人にとって日本の浄土教の菩提心の解釈など、どうでもいいでしょう。 いやみばかりいってくるようですが、そんなに気になるならpdfを読めばいいでしょう。 批判したいならpdfの作者にすればいいでしょうが。 本当に嫌になる。

  • 試験科目で簿記を選択したいが・・

    普通高校を卒業し、社会人となり少し前に公認会計士試験に合格 大学に進学したいと思い、選択科目のことで分からない事があるので教えていただきたいのですが 「数学II・数学B」 「工業数理基礎」 「簿記・会計」 「情報関係基礎」 の中から1つを選択 ※ただし、「工業数理基礎」、「簿記・会計」、「情報関係基礎」を選択出来る者は、高等学校又は中等教育学校においてこれらの科目を履修した者及び専修学校の高等課程の修了(見込み)者だけである。 「簿記・会計」を選択したいと思っているのですが 普通高校を卒業している私は上記の文面を見る限り選択できそうもありません 選択できる方法はあるのでしょうか? 知っている方がいらっしゃいましたら、 回答よろしくお願いします。

  • 選択を誤った、と感じること

    どんな時に「選択を誤った、、」と感じるのでしょか? 例えば私の場合ですが、「職業の選択を誤った」と思います。なぜ、そう思うのか根拠が分りません。 もちろん「向いていない」というのも当てはまると思いますが。人に、向いてると思うよ。適している。と言われた事もあります。もしかして、向いてるのか?と思うこともあります。が何が基準に、向くの向かないのと判断するのか分からないので、分かりません。 同僚で「私はこの職業には向いてない」って言ってた人がいますが、じゃあ、この職業を選んだこと事態はは正しかったのだろうか?後悔はないのだろうか?と思います。 私は、この職を選んだ学生の時の自分、転職しなかった自分、なにか引っかかりながら十数年もこの仕事をした自分。全てが間違えていたと思います。なにが間違えかというと、「選択」を誤ったと思うのです。とうぜん、選んだ時は真剣に選びました。 退職(転職)する人の理由に「向いてなかった」「失敗した」「ほかにやりたい事があったんだ」「条件が合わない」「予想と違う」「労働条件があわない」、、などなど色々ありますが、私にほどうも、これらは該当しません。やはり「選択を間違えた」です。 なぜ、こう思うのか、第三者のご意見を聞きたいんです。 今、転職のための勉強中ですが、今後の為に、、と真剣な気持ちです。 よろしくお願いします。