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方便であれば偽っても良いのか

日比野 暉彦(@bragelonne)の回答

回答No.32

 信仰は 個人のものです。  独善的でないかどうか これは 本人が自分で検証します。  また 神についての自分自身の説明として補助線を敷いたなら その補助線をみなが寄ってたかって批判します。これが 検証の過程です。  イエスの大嘘という質問をいま かかげています。それを参照して欲しいのですが 次のようなことを――やり取りの過程で――わたしは言っています。  人間の貌(かお)としてのイエスが言ったことは あり得ないことを言っているなら その部分はすべてウソです。  そして 神の貌としてキリストが語ったとすれば それは 人間の認識し理解するところでなくても よいわけです。その見方によれば――と言っても 人間がその神の貌に成れたらという意味ですが―― ウソではない。と推測される。  こういうことです。二重の仕掛けによって捉えます。  ですから 大うそであっても 信仰にあっては 絶対普遍なる神を受け容れるかたちになり得ます。

hitonomichi31
質問者

お礼

>二重の仕掛けによって捉えます。 二重の仕掛けってことは、つまり二重の大噓を付いてるってことでこれはペテンの中のそのまたペテンってことです。 神を理解するのに仕掛けなどいるわけがない。 全てが根底から嘘で満ちているからそのよーな発想が生まれるわけである。   万物の根源、宇宙の法則、アルケーの神なら何の仕掛けも設けておりませぬ。 やっぱ人の道に優る教えはないな。 さよーなら。  

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