• 締切済み

方便であれば偽っても良いのか

     オウムもイエス・キリストも奇跡を説いてきた。 現代人であれば奇跡が偽りであることは皆知っている。 しかし奇跡を用いるのは単なる方便であるから偽りであっても良いと考える人は多いよーである。 どーやら奇跡にまつわる問題の根源はこの辺りに在りそーである。 果たして方便、つまり1つの教えに導くためのプロセスであれば偽っても良いと言えるのか。 人の道においては断じて良くはないと明言します。 何故なら一度偽りの方便が認められると、あらゆる偽りが方便の衣を着てまかり通るよーになり、全ての物事が偽りで満たされてしまうからである。 偽ることは悪である。 これは絶対であり、如何なる例外も認めてはならない。 どのよーな屁理屈を用いても偽ることは悪である。 真理の探求においてはこれが基本である。 哲学である。 それでもなお方便であれば偽っても良いと言えるのか。  

みんなの回答

回答No.40

>現代人であれば奇跡が偽りであることは皆知っている。 いや・・・。 それがですね、そうでもないんですよ。 驚いたことに。 一応、理系のはしくれで、がっちがちの無神論者だったんですがね・・・。 こればっかりは、それまでの私がそうだったように、幾ら言っても分かってもらえない、自分で経験して決めてもらうしかないですね・・・。 その時々にそこにいた人は、少なくとも腹を抱えて大笑いすることはない程度に、奇跡、神は存在するんじゃないかと・・・。 ただ・・・。 いてもねぇ・・・。 自分が作ったんなら、もうちょっと責任感じて、何とかしてくれてもいいんじゃないかと思うんですがね・・・。 もしかして、この世は神が作ったんじゃないんじゃないかとさえ思えてきますね・・・。 人が一般に言う神は、もしかしたら、この世の創造主ではなく、傍観者に近い存在なのかも・・・。 それなら、何もしない説明はつく・・・。 どうなんですかね・・・。 まぁ、この世が存在すること自体、論理では説明がつかない、観念の世界だと思ったりもしますね。

hitonomichi31
質問者

お礼

  >もしかして、この世は神が作ったんじゃないんじゃないかとさえ思えてきますね・・・。 作った? 何故この世は作られたものと断定できるのか。 この世はある時に作られ誕生したってなんでそー結論できるの。 この世は作られたのではなく、もともと存在していたんではないのかい。 もともと存在していたのなら作ることなんて出来ませんよ。 違いますか。    

  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.39

方便は、用途や目的のある嘘です。 これにしたがって良し悪しを腑分けしますと、 善良な用途や目的のある嘘なるものと、 邪悪な用途や目的のある嘘なるものをひとまず考えることになります。 嘘はなんでもアカン、と言い切れば言い切れる次元もあり、 権力側ですとか、法廷ですとか、まあ社会的強者の敷いた倫理にはとくにそれが求められております。 問題は、用途や目的の良し悪しというのが民衆の合意と地続きのような不確かな色合いになっていて、常識に頼るばかり、というところでしょうか。地盤として脆弱です。

hitonomichi31
質問者

お礼

ありがとうございます。 いかなる状況の下においても真実を語ることは間違いではないと見なす文化を築けば良いのではないか。 つまり用途や目的の前にまず真実であるか否かを第一に考える真実主義の文明社会を築くことは出来ないか。 真に豊かな文明社会とはどのよーな社会であろーか。 真に豊かな文明社会であるための要件の一つとして、真実を語るのにその都度の社会状況(用途、目的を含む)についてあれこれ悩む必要のない、単純明快な社会であることではなかろーか。  

noname#189751
noname#189751
回答No.38

もう一回だけ・・ >何をおっしゃる。 神仏の方便は誰が作るのですか。 神仏の方便は人が作るのですよ。 人の方便も、神仏の方便も全て押し並べて人が作るのです。 だから人の方便と、神仏の方便は分けたほうがいいと言っても、分けることなど出来ません。 そもそも人の方便と神仏の方便を分けるなどとゆー発想自体が一つの方便なのであり、いかさまの始まりなのです。 いや-・・ すごいですね すごい迫力だ 私より沸騰するのが早い 私も瞬間湯沸かし器なんだが 私よりはるかに感度がいい・・(失礼) 仏の方便とは、誓願不思議と言われています。 仏の衆生に対する大悲の計らいは推し量ることができない だから・・不思議と言われています。 無理に推し量ろうとしても、推し量れない 大悲に照らされている事を知るのみである 親鸞流にいえば、無義の義を受けるのみ、であるとなるのでしょう。 でも、そんなものはイカサマだと・・ 言わないと気が済まない だとすれば、それでいいのではないですかね・・ 分からないことを無理に分かろうとしなくてもいい といった気もしますよ。 まあ、面白くないんでしょうね 面白くないから、イカサマだ、ペテンだ、デタラメだ、大嘘だと・・ どこまでも、やっつけてしまわないと気が済まない 徹底的に、ぐうの音も出ないほど、叩き潰してしまうべきだと・・ アルケーの神への冒涜は許さん・・と 大宇宙の摂理が神であるという客観には、方便というものはない すべては、きれいな摂理の顕れであり、 そこには不可解な働きは一切ない 子供だましのような奇跡というものも無い という事なんでしょうね・・ 実に明瞭ですね それでいいんじゃないですか 無理に、不可解なものを受け入れる必要もない と思いますよ。 ただ、信仰者の立場から見れば、残念です。 それは「自内証」という、神の証明がそこには無いからです。 客観論だけで、神そのものの働きには参入していないように見えてしまいます。 摂理の働きを、いかにきれいに表現しても、それだけでは神の証明をした事にはならない と思いますね。 無理に刀を振りまわさなくても、いいんじゃないですか・・ 宇宙の摂理が、人の道であると言っても決して間違ってはいないと思いますし そのきれいさを、人に伝える事も間違ってはいない ただ、解釈の違う立場もあるということを知っておいてほしいと思います。 それだけです。 以上。 がんばってください。

hitonomichi31
質問者

お礼

  >ただ、信仰者の立場から見れば、残念です。 それは「自内証」という、神の証明がそこには無いからです。 客観論だけで、神そのものの働きには参入していないように見えてしまいます。 摂理の働きを、いかにきれいに表現しても、それだけでは神の証明をした事にはならない と思いますね。 なぜアルケーの神は現れたのか。 神は信仰者の特権であり、信仰者でなければ神は認識し得ないと考えるならそれは大きな間違いです。 むしろアルケーの神は信仰者の神より遙かに強力なのである。 何故なら信仰者の神は単に信じるためのものに過ぎないが、アルケーの神は感じることのできる神だからである。 また信仰者は神に祈りを捧げたり願ったりするが、アルケーの神は祈ったり願ったりするためのものではありません。 何故なら宇宙の法則に対し我々が何かを祈ったり願ったりしたところで、宇宙の法則が変わることは決してないからである。 アルケーの神に対し我々が出来る事といえばただ一つ、真理の探求によってアルケーの神に近づき、アルケーの神の意思を知ることである。 アルケーの神に祈ったり願ったりしてアルケーの神の意思を変えようなどと考えてはいけないのである。   最後に1つ言って終わりにします。 清く、正しく、美しく。  

回答No.37

 ★ (No.36お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~  (あ) 宇宙の法則と人間との間に二重の仕組みなどありません。  (い) 宇宙の法則と人間は直接的に接しているのです。  (う) だからアルケーの神は人間と直接接しているのであって、アルケーの神が人間との間に何がしかの隔たりや、隔てるための仕組みを設けるはずはないし、その必要もないからである。  (え) アルケーの神と人間は直接的に接しています。  (お) だからアルケーの神は感じることが出来るのである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは めちゃくちゃである。  (か) 《宇宙の法則》とは 何か? おそらく経験事象のもとに(その事象の中に)何がしか取り出され得るモノゴトの一般性であろうと思われます。  (き) たとえば モノはすべて移ろいゆかざるを得ないという一般性が取り上げられます。早い話が モノから成る限りでの身と心なる人間存在は 死ぬという法則性です。つまりこれは 諸行無常とも言われます。  (く) どうしてこのモノにちなむ一般性が 神であるのか? ちゃんちゃらおかしい。たしかにそれなら  ★ (い) 宇宙の法則と人間は直接的に接しているのです。  ★ (う) だからアルケーの神は人間と直接接しているのであって  ☆ と言えないでもない。  (け) 冗談はさて措き 経験思考において認識しうるものが 神であるとは いったい何を考えているのか。もしそうなら 《信じる》必要はない。  (こ) 神と人間とは《直接的に接している》(い)とは その神なる《宇宙の法則》が人間には見えるのか? 五感で感じられうるのか? めちゃくちゃである。  (さ) それだったら アルケーの神は そこここにうようよしていることになる。・・・    たしかに説明の限界を感じてしまった。わたしのチカラもここまでかと思う。  これほどの岩盤規制だったとは。

hitonomichi31
質問者

お礼

>(け) 冗談はさて措き 経験思考において認識しうるものが 神であるとは いったい何を考えているのか。もしそうなら 《信じる》必要はない。 だからアルケーの神は信じるものではなく、感じるものであると言い続けています。 アルケーの神を感じよーとすることは信仰ではなく、真理の探求であると。 >さ) それだったら アルケーの神は そこここにうようよしていることになる。・・・ もちろんアルケーの神はそこここにうようよしています。 だからアルケーの神は我々と接していると言ったのである。 しかしそのアルケーの神を感じるよーになるには、真理の探求ってゆー深く長く厳しい試練を経なければならないのである。 漬かっていてはアルケーの神を感じることはできませんってこと。   これらのことはこれまでに何度も繰り返し述べてきたことである。 もはやこれ以上の説明はできません。  さよーなら。  

回答No.36

 ☆☆(回答No.35) すなわち 《アルケーの神と人間とは 二重の仕組みになったかたちで それぞれ存在している》というのが 結論です。  ☆ この結論に対して 反論がありません。もしくは あっても 反論になっていません。  アルケーの神を感じるというその人間は 神の存在を おのれの存在の内に 部分的にあたかも所有したというかたちではないのですか?  二重の仕組みとは このことを言います。

hitonomichi31
質問者

お礼

  >☆☆(回答No.35) すなわち 《アルケーの神と人間とは 二重の仕組みになったかたちで それぞれ存在している》というのが 結論です。 宇宙の法則と人間との間に二重の仕組みなどありません。 宇宙の法則と人間は直接的に接しているのです。 だからアルケーの神は人間と直接接しているのであって、アルケーの神が人間との間に何がしかの隔たりや、隔てるための仕組みを設けるはずはないし、その必要もないからである。 アルケーの神と人間は直接的に接しています。 だからアルケーの神は感じることが出来るのである。  

回答No.35

 アルケーの神と人間とは 二重の仕組みになっているのですよ。  もし それは――まったく同じひとつの存在であるとは言えないだろうから ひとつであるのではなく―― ふたつの存在が ひとえ(一重)であると言うとすれば それは キリスト(神)=イエス(人間)という見方・表現の仕方になります。  つまり 《ひとのみち氏なる人間》=《アルケーの神》という図式です。  もし いやいや そうではない 人間と神とは別だというのなら 《人間は 神の霊を分有する》という見方・言い方になります。  すなわち 《アルケーの神と人間とは 二重の仕組みになったかたちで それぞれ存在している》というのが 結論です。

hitonomichi31
質問者

お礼

全く話が噛み合わないのは私とあなたとでは神の認識が根本的に異なるからであると考えます。 アルケーの神は宇宙の法則なのであって《私なる人間》=《アルケーの神》となるわけがない。 自分が神であるなんて思う人なんていないでしょ。 あなたはこの点についてイエス・キリストは大嘘つきであると言ったんだよね。 また《人間は 神の霊を分有する》ってのも間違いである。 そもそも霊などとゆー言葉はあまりに品がなさすぎるので、使うべきではありません。 あなたは神とは分かるか分からないかが分からないものであると言っているのであれば、《人間は 神の霊を分有する》なんてことがなんで分かる。 またイエス・キリストは自分が神であると大噓をついた言いつつ、イエス・キリストは神であると主張しているわけである。 結局あなたの頭の中はあらゆる事が全て矛盾しているのです。 人間のクズであるイエス・キリストを神に仕立て上げるための仕掛けを考えたいんだろうけど、あまりにお粗末過ぎる。 そんな幼稚な考えで哲学なんて出来ません。   

回答No.34

 さようなら。

hitonomichi31
質問者

お礼

  >二重の仕掛けによって捉えます。 二重の仕掛けってことは二重の方便ってことだ。 つまり偽りを偽りで塗り尽くすことである。 偽ることは悪であるのに、あんたは永遠に偽り続けるんだね。 非思考の庭とか、非経験とかいろいろと訳の分からん観念をこしらえたけどすべて偽るための仕組みであり、偽るための方便にすぎなかった。 人間のクズであるイエス・キリストを神に仕立て上げるには二重、三重の仕掛けが必要であった訳である。 あんたはその仕組を作ろうともがき続けているわけだよ。 ま、そこまで分かれば十分でしょ。 さようなら。    

回答No.33

やあ。 アルケーさんが私お子分にしたいとな。 お誘いありがとう。 神様ってのは私にとっては精霊だ。 お友達になりたいというのなら歓迎だよ。 要するにポケモンゲットなので、君からアルケーさんを略奪することになるが別にかまわないだろ。

hitonomichi31
質問者

お礼

  君は分かってないかもしれないがアルケーの子分になるってことは人の道を歩むことなんだよ。 君は仮面ライダーで、仮面ライダーは悪の手先なんだろ。 すると仮面ライダーは辞めてもらわんと人の道は歩めんぞ。  

回答No.32

 信仰は 個人のものです。  独善的でないかどうか これは 本人が自分で検証します。  また 神についての自分自身の説明として補助線を敷いたなら その補助線をみなが寄ってたかって批判します。これが 検証の過程です。  イエスの大嘘という質問をいま かかげています。それを参照して欲しいのですが 次のようなことを――やり取りの過程で――わたしは言っています。  人間の貌(かお)としてのイエスが言ったことは あり得ないことを言っているなら その部分はすべてウソです。  そして 神の貌としてキリストが語ったとすれば それは 人間の認識し理解するところでなくても よいわけです。その見方によれば――と言っても 人間がその神の貌に成れたらという意味ですが―― ウソではない。と推測される。  こういうことです。二重の仕掛けによって捉えます。  ですから 大うそであっても 信仰にあっては 絶対普遍なる神を受け容れるかたちになり得ます。

hitonomichi31
質問者

お礼

>二重の仕掛けによって捉えます。 二重の仕掛けってことは、つまり二重の大噓を付いてるってことでこれはペテンの中のそのまたペテンってことです。 神を理解するのに仕掛けなどいるわけがない。 全てが根底から嘘で満ちているからそのよーな発想が生まれるわけである。   万物の根源、宇宙の法則、アルケーの神なら何の仕掛けも設けておりませぬ。 やっぱ人の道に優る教えはないな。 さよーなら。  

回答No.31

 《信仰》が 独善的でないことの検証は 次のような見方考え方にもとづきます。  独善的な信仰というのは じつは 矛盾した表現です。絶対普遍なる神を受け容れ信じているのに 自分だけの狭いところでしか通用しないというのは あり得ないからです。万人に共通のものでなくては 神と言えません。    【Q:《信じる》とは 人間にとって どういう行為か?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7627807.html  その趣旨説明欄そのままを掲げますが。  ( a ) おそらく信じる対象は 《非経験の場》だと考えられるが 信じる行為は この現実における経験行為である。  まづは こう考えますが きちんとした哲学としての定義を問い求めます。      *    宗教を信じるだのキリスト教を信じるだのと言うことを聞きますが それはマチガイでしょう。  ( b ) 《おしえ》は あくまで経験思考の対象です。それは 《考える》です。  ( c ) 考え思っていることを つよく念じてその内容をつねに心がけるといったこと これも 《信じる》ではありません。それは 信念とか信条とかと言います。  あたまや感覚ですでに知覚し認識していることを《信じる》気遣いはあり得ません。  《心がけ》などをめぐる信念は それを《信じる》という言葉で表わすこともあるのは あくまで文学的表現ないし修辞学の問題でしょう。《強く思う》と言いたいところを 《信じる》と表わしてみた。こういうことでしょう。  ですから 信念や信条とそして《信じる(信仰)》とは 別です。  考え思うことは 経験合理性にもとづき何らかの根拠のあるものです。もしくは 根拠がそのいま科学的に問われているものごとです。  根拠が問われていること――因果関係や相互の作用関係などについてその根拠が問われ得るものごと――については たしかに一方で仮説を信じるというふうに表現したりしますが それも言葉のあやであるに過ぎず いっさい《信じる》とは別です。《考える》です。  言いかえると   ( d ) 無根拠――もしくは 根拠について分かるか分からないかが人間には分からないものごと・さらにあるいは 因果関係から自由な《非経験の場》―― これについて人は 《信じる》と言うのだと考えられます。  ( e ) この《信じる》は 包括概念であり そこに《信じない》をも含みます。この《信じない》と《狭義の信じる》とは 互いに同等でありその選択は 人にとって自由です。       *  さらに質問者の考えをたたき台にしてしるします。  1. 《信じる》は 思考に非ず つまり非思考という行為である。  2. 思考は 経験合理性にもとづき――その非合理性をも人間の境地において引き受けることさえありつつ――考えをすすめることである。  3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を 無根拠として 心に受け容れるということになる。  4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明け これが《非思考の庭》である。思考はいっさい無い。しかも行為は 経験行為としてある。  5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもこの無根拠を心に受け容れるという時点では じつに人間のそして《わたし》の経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。  6. 《信じない》という賭けのばあいは 領収証を発行しないという領収証を切ったことになる。それが 人にとって 《信じる》という普遍的な経験行為である。これは おそらく万人にとってその存在にかんする 人間の条件である。  7. 一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。したがって《神を信じない》のは 《〈無い神〉を心に受け容れている》ことであり それは 無神論としての《信じる》である。  8. 無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている。  9. 言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばにして言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである。  10. この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとして取り上げそのうえ教義や道徳規範として押し戴く場合がある。組織宗教である。  11. クリスチャンやブディスト――それが有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげる場合がある。これは 信仰ではありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない。  12. キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》よりほかのことではない。  13. せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合にも社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰であろうと考えられる。  14. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。  15. 現行の憲法では 結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰〔の姿勢〕を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自由への殺害行為であり 違法行為である。  16. 仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離したところの――ムラ(共同体)こそがそれだ。それしかない。人びとのきづなしかない。  17. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は そのヒエラルキアにおいて信仰の自由を侵すならば 欺瞞である。       *  ☆ 信仰ないし神が 絶対普遍なるものという条件を満たしているかどうか。これについては このここでのNo.30までの回答内容にしるしています。そのようにお伝えします。

hitonomichi31
質問者

お礼

  その検証の結果、キリスト教、ユダヤ教は独善的ではない信仰になるのかい。 またその検証の結果、アルケーの神を信奉する人の道は独善的な信仰になるのかい。 ついでに訊くと、あなたは大嘘つきのイエス・キリストは神ではないと宣言してるけど、では何がキリスト教の神なのかい。  

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