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方便であれば偽っても良いのか

     オウムもイエス・キリストも奇跡を説いてきた。 現代人であれば奇跡が偽りであることは皆知っている。 しかし奇跡を用いるのは単なる方便であるから偽りであっても良いと考える人は多いよーである。 どーやら奇跡にまつわる問題の根源はこの辺りに在りそーである。 果たして方便、つまり1つの教えに導くためのプロセスであれば偽っても良いと言えるのか。 人の道においては断じて良くはないと明言します。 何故なら一度偽りの方便が認められると、あらゆる偽りが方便の衣を着てまかり通るよーになり、全ての物事が偽りで満たされてしまうからである。 偽ることは悪である。 これは絶対であり、如何なる例外も認めてはならない。 どのよーな屁理屈を用いても偽ることは悪である。 真理の探求においてはこれが基本である。 哲学である。 それでもなお方便であれば偽っても良いと言えるのか。  

みんなの回答

回答No.30

 ★(No.29お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~  〔神は〕ひとつであっても同じであるとは言えません。  だいたい相手の考えている神が何なのかも分からない段階で、なんで同じ神を信じていますねなんて言えるのかい。  故意に論理を歪めているのか何なのか分からないけど明らかにおかいしい。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは    >○ わたしの信じるなになにの神は 万人に共通の絶対普遍なる神である。     と発表する人に対しては  です。その発言をひとまづ信用してもバチは当たりません。また 信頼するからこそ 互いに《独り善がりに落ち入ったまがい物》ではないかと検証するのです。  別にどうしても《同じ神ですね》と言わなければならないものではありませんが そういう順序というものがあるとは言えましょう。つまり 口に出さなくても その順序で対話はすすめられるという意味です。  この順序(秩序)に従わないということは  ★ 故意に論理を歪め〔ようとし〕ているのか  ☆ とうたがわれます。つまり そのアルケーの神は ほかの人びとのそれぞれの神とは離れてしまった独善的な神ではないかと。  検証しないというおつもりですか?   誰でも自分の神は ただしいと思っているのですから そのことをまづはウワベのこととしてでも認め合い しかも おかしなところがあったなら 互いに自由に批判しあう。いまも そうしています。これをしないのは 自分の神に自信がないということでしょう。

hitonomichi31
質問者

お礼

>検証しないというおつもりですか? 検証するって何をどー検証するってことなのかな。 キリスト教やユダヤ教はどーやって検証してるのかな。 あなたは検証の仕方って知ってるのかい。  

hitonomichi31
質問者

補足

  >☆ とうたがわれます。つまり そのアルケーの神は ほかの人びとのそれぞれの神とは離れてしまった独善的な神ではないかと。 おっと、およそ信仰とは独善的なものと相場がきまってます。 キリスト教の神は仏教徒から見れば独善的でしょ。 逆もまた真なりではあるが。  

回答No.29

 ★(No.28お礼欄) アルケーの神が万人に共通の絶対普遍なる神になるのは・・・  ☆ これは 神についての認識(ないし説明)がまちがっています。   ○ アルケーの神は 万人に共通の絶対普遍なる神 で あ る。  と言わなければおかしいです。信じるひとがただ一人しかいなくても そう言わなければおかしいです。そして   ○ わたしの信じるなになにの神は 万人に共通の絶対普遍なる神である。  と発表する人に対しては まづ一たんは 互いに同じ《全体としてひとつの神》を信じていますねと言って 共通の了解を交わすことが 肝心です。  そして むろんそのあと 前回の  ☆☆(回答No.28) 14. つまり《独り善がりの神および信仰》ではないか?   ☆ について検証します。つまり 互いに自由に批評し批判し合います。  互いによりよい説明――つまりは 神を知るための補助線――を問い求めて行きます。    もしいわゆる議論が 神について成され得るとすれば それは この《補助線》としての説明書きをめぐってだということになります。  言いかえると 哲学の問題に移行しています。  すなわちそのことは 取りも直さず 哲学で批評し批判しあうとき 互いにその信じる神は 一たんとしてでも 万人に共通の普遍なる神であるとみとめ合っているということです。  みとめ合っているからこそ きびしい検証を 独り善がりではないかについて おこなって行きます。  どうでしょう このあたりでお開きとしては?

hitonomichi31
質問者

お礼

  >○ わたしの信じるなになにの神は 万人に共通の絶対普遍なる神である。  と発表する人に対しては まづ一たんは 互いに同じ《全体としてひとつの神》を信じていますねと言って 共通の了解を交わすことが 肝心です。 ひとつであっても同じであるとは言えません。 だいたい相手の考えている神が何なのかも分からない段階で、なんで同じ神を信じていますねなんて言えるのかい。 故意に論理を歪めているのか何なのか分からないけど明らかにおかいしい。  

回答No.28

 ★(No.27お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~  信仰とはやはり自前で作る以外ないってことです。  何故なら自分で自分をだますことは出来ないし、その必要も無いからです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そうですね。以下 私見ですが すでに断定的に述べるかたちを採ります。短くするためです。  1. 信仰は あたえられるものです。  2. なぜなら 心で受け容れて信じる神は 絶対・普遍であるからです。人間は 普遍を受け容れることは出来ますが その存在や知能が絶対普遍ではないからです。  3. もし人間が自分で信仰をつくりその信じる神をもつくったというのならば それは 人間の知識や知恵なる能力を超えるものではありません。つまり 有限で相対的で片寄った内容であるしかありません。  4.(この《観念の神》が《死んだ》と言われたのです。作った初めから死んでいます。あたまの中だけの存在です)。  5. 絶対普遍なる神を受け容れ信じるとき その神に名をつけることは 人間の自由です。《有る神》でも《無い神》でも 自由です。アイン(無)でも アイン・ソーフ(無‐限)でも アイン・ソーフ・オール(無‐限‐光)でもよろしいし 最後のは アミターバ・タターガタ(無量光如来)と同じような発想です。  ★ 信仰とは純粋に個人的なものでなければならないってことです。  ☆ これは 《信仰》に限られるわけではありません。  6. 一般に《意志》の問題です。わたしの代わりに昼飯を食べておいてくれとか ヲコなる話として代わりにトイレに行って来てくれとかということは成り立ち得ないように 自由意志は 本人に〔のみ〕属します。ということの一環として 信教・良心の自由もあるというかたちです。  7. 言いかえると このように《個人的な意志行為である》からと言うので 《独り善がりな信仰および信仰の対象》であってよいとは成りません。独り善がりの信仰の対象つまり神を持つことは 他人が止められるわけではありませんが 哲学としては 無効の行為であると言っておくことが出来ます。  8. つまりは 《純粋に》という表現の意図は いただけません。要りません。  ★ イエス・キリストや聖書を含めあらゆる既製宗教は集団のためのものであり、決して真の信仰には成り得ない。  ☆ この命題は 論証が必要です。この結論だけでは 通りません。  9. なぜなら 宗教は・そのオシエは 個人の信仰が成り立ったところに得られ出来たものですから そこからもとの信仰の部分を取り出せば済むことです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  そこで生まれたのが「人の道」であり、アルケーなのです。  全て自前で作ったものだから嘘偽りの類は一切ありません。  すべての人がこのよーな方法で自前の信仰を持てば良いのです。  これが答えです。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ですから  10. ここで有効な命題は その神ないし信仰の名づけのところです。《人の道》および《アルケー》です。  11. 信仰は 個人の良心の自由〔およびそれの実践としての意志行為〕に発するものであるからには 個人それぞれの《自前のもの》です。それ以外のあり方はありません。  12. 《ウソイツワリがない》というのは 主観真実のもんだいですから いちいち本人が確認することもないでしょう。    13. しかも問題は 残っています。  ★ すべての人がこのよーな方法で自前の信仰を持てば良いのです。  ☆ そこまではよろしい。ですが その結果について 信教の自由にもとづく・人間の信仰であるのかどうか? これが みんなの眼から見て互いの批判に耐えうるか? これは問われます。  14. つまり《独り善がりの神および信仰》ではないか? です。  15. 《絶対》はいいとして 《唯一》というのは――絶対・普遍であるからには―― 《全体として神はひとつ》という共通の了解にもとづかなくてはなりません。(神は全体としてひとつであるということでなければ 絶対普遍ではないことになります)。  16. 次の内容では いただけません。  ★ (No.24お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~   > 独り善がりとしての《唯一絶対》であるに過ぎない。  独り善がりか独り善がりでないのかなんて気にしてたら信仰になりません。     > ほかの神をいだく人間を人間とみとめないほどの信仰とその神などは まがい物でありインチキの神である。  ほかの神をいだく人間はふつう野蛮人とみなされます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  17. アルケーの神は 万人に共通の絶対普遍なる神ですか?

hitonomichi31
質問者

お礼

  >アルケーの神は 万人に共通の絶対普遍なる神ですか? もちろんこの世界にはヒンズー教徒のごとき野蛮人も大勢いるのであるから、アルケーの神が万人に共通の絶対普遍なる神になるのは相当な時間を要すると思われます。 しかしながら文明が進むうちに、究極的には神とは宇宙の法則であるとゆー人類共通の認識に向かうことは間違いないと確信していおります。  

回答No.27

 ★ (No.24お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~   > だったら その人びとそれぞれの神は 《唯一絶対》ではないことになる。のではないか?   いえいえそんなことはございません。  その人びとそれぞれの神は、その人びとそれぞれにとって《唯一絶対》の神なのです。    > 独り善がりとしての《唯一絶対》であるに過ぎない。  独り善がりか独り善がりでないのかなんて気にしてたら信仰になりません。     > ほかの神をいだく人間を人間とみとめないほどの信仰とその神などは まがい物でありインチキの神である。  ほかの神をいだく人間はふつう野蛮人とみなされます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このような個人の状態は たいてい組織宗教のもとでの個人の置かれている位置であり情況です。昔からつづいて来ている現状です。  つまり このような独り善がりの社会現象をどう捉えどうするのがよいか これを哲学が考えています。  言いかえると 哲学の出発点を 質問者は明らかにして確認した。こういうことです。  もしこの出発点にとどまっているというのなら ウソ・イツワリがどうの 方便だからこうのタトエゆえにそうのという問いをこのように提出する意味がありません。  それは 八つぁん熊さんのお話としてたのしんでください。  どうしますか。

hitonomichi31
質問者

お礼

> もしこの出発点にとどまっているというのなら ウソ・イツワリがどうの 方便だからこうのタトエゆえにそうのという問いをこのように提出する意味がありません。 もちろんこれに対する答えは既に出ております。 信仰とはやはり自前で作る以外ないってことです。 何故なら自分で自分をだますことは出来ないし、その必要も無いからです。 信仰とは純粋に個人的なものでなければならないってことです。 イエス・キリストや聖書を含めあらゆる既製宗教は集団のためのものであり、決して真の信仰には成り得ない。 そこで生まれたのが「人の道」であり、アルケーなのです。 全て自前で作ったものだから嘘偽りの類は一切ありません。 すべての人がこのよーな方法で自前の信仰を持てば良いのです。 これが答えです。      

回答No.26

私は仮面ライダーだ。 コレを嘘と言えるか? 君はなんだかんだと言いがかりをつけて、私が仮面ライダーで無い事を証明しようとしているのだよ。 その全てが無駄な抵抗だ。 何故なら君がなんだかんだ言おうと、私が仮面ライダーである事に私自身は疑問を抱かないからだ。 私は完璧だ。 さらに絶対ですらある。 それら全てを突き抜けて永遠のセレビィだ。 文句あっか。

hitonomichi31
質問者

お礼

  君にいい知らせがあるよ。 実はアルケーの神から仮面ライダーを子分にしたいってゆー声が届いたよ。 どーだアルケーの子分になって正義の為に戦わないか。  

noname#189751
noname#189751
回答No.25

人の方便と、神仏の方便は分けたほうがいいと思いますよ。 人の方便のレベルでは、神仏の方便は推し量ることができない 一例では 観音経の一節に 具足神通力、広修智方便、十方諸国土、無刹不現身・・とある また 密教の現世利益の方便の解釈に 欲に対して利しながら済度し、真智を与え涅槃に送る・・とある ああ、そういうものなのか・・ とは思うが 神仏の計らいが分かるはずもない 一切衆生に知らせず(理解にかまわず)、一切衆生を導くという計らいが神仏の方便という 人間が考えつく方便とはまったく違っている。 神も仏もない みんなデタラメ 方便なんて嘘っぱち・・だ そう思えばそれだけの事です。 届かないヤケクソの言葉にしか過ぎない。 信仰者にとって信仰の決定打といえるものを、無信仰の立場において理解できるはずもない 神仏の方便の中にいるという実感のない者にとっては、遠い世界の出来事でしかない ただそれだけの事です。

hitonomichi31
質問者

お礼

  >人の方便と、神仏の方便は分けたほうがいいと思いますよ。 何をおっしゃる。 神仏の方便は誰が作るのですか。 神仏の方便は人が作るのですよ。 人の方便も、神仏の方便も全て押し並べて人が作るのです。 だから人の方便と、神仏の方便は分けたほうがいいと言っても、分けることなど出来ません。 そもそも人の方便と神仏の方便を分けるなどとゆー発想自体が一つの方便なのであり、いかさまの始まりなのです。  

回答No.24

 だったら その人びとそれぞれの神は 《唯一絶対》ではないことになる。のではないか? 独り善がりとしての《唯一絶対》であるに過ぎない。  ほかの神をいだく人間を人間とみとめないほどの信仰とその神などは まがい物でありインチキの神である。から。    ただし オシエとしての宗教について言っているのではない。あくまで個人の内面における神とその信仰のことである。

hitonomichi31
質問者

お礼

  > だったら その人びとそれぞれの神は 《唯一絶対》ではないことになる。のではないか?  いえいえそんなことはございません。 その人びとそれぞれの神は、その人びとそれぞれにとって《唯一絶対》の神なのです。  > 独り善がりとしての《唯一絶対》であるに過ぎない。 独り善がりか独り善がりでないのかなんて気にしてたら信仰になりません。   > ほかの神をいだく人間を人間とみとめないほどの信仰とその神などは まがい物でありインチキの神である。 ほかの神をいだく人間はふつう野蛮人とみなされます。    

回答No.23

 ★(No.22お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~   ★ (No.21お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~   個人の信仰とは「人の道」であり、普遍なる神とは万物の根源、宇宙の法則、アルケーの神ってことでいいよね。     あ~、すっきりした。    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ ひとのみちとは まづ相手を立てるものですよ。    あなたを立てる人は他に大勢いるのだから、特に私から立てる必要もなかろーってことで。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ですから 《普遍》の何たるかが・・・。  つまり 神は わたしの神のほかにも みなさんそれぞれの神がいるはずだから まづそういう意味での相手を立てなきゃ。  ま いいです。これは 説教みたいになってしまいますから。  何かなければ この質問への投稿をこれでおしまいとします。

hitonomichi31
質問者

お礼

  > つまり 神は わたしの神のほかにも みなさんそれぞれの神がいるはずだから まづそういう意味での相手を立てなきゃ。 イスラム教徒はアラーが唯一絶対の神であり、アラーを除いて如何なる神も存在しないと説きます。 同様にユダヤ教徒はヤーベが唯一絶対の神であると説くし、キリスト教徒はイエス・キリストが唯一の神であると説きます。 これで誰も一々いちゃもんを付けたりはしないものです。 もちろん人の道においても神は万物の根源、宇宙の法則であるアルケーの神を除いて如何なる神も存在しないと説きます。 これで何も問題は無いはずであると承知しております。 例えばイスラム教徒が我々日本人の顔を立ててアマテラスは神であるなどと決して認めることはしないでしょう。 そーでなければ信仰ではないと彼らは考えるのです。      

回答No.22

 ★ (No.21お礼欄) ~~~~~~~~~  個人の信仰とは「人の道」であり、普遍なる神とは万物の根源、宇宙の法則、アルケーの神ってことでいいよね。    あ~、すっきりした。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ ひとのみちとは まづ相手を立てるものですよ。  ○ 普遍  ☆ の何たるかが まだ おぼろげであるようです。

hitonomichi31
質問者

お礼

   >☆ ひとのみちとは まづ相手を立てるものですよ。 あなたを立てる人は他に大勢いるのだから、特に私から立てる必要もなかろーってことで。  

回答No.21

 ★(No.18お礼欄) 大食漢で大酒飲みで大嘘つきなら宗教家としては完全に失格である。  ☆ だから 個人の信仰――つまりは 普遍なる神――を指し示した。と言っています。  《宗教化として合格》だったら 目も当てられない。

hitonomichi31
質問者

お礼

  >☆ だから 個人の信仰――つまりは 普遍なる神――を指し示した。と言っています。 で、個人の信仰とは「人の道」であり、普遍なる神とは万物の根源、宇宙の法則、アルケーの神ってことでいいよね。   あ~、すっきりした。  

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