【キリスト教徒の方に質問・聖書の謎】聖書は現代で言う小説ですよね?

このQ&Aのポイント
  • 聖書は物語が盛り上がる小説のような要素がありますが、それだけでは語り尽くせない特別な存在です。
  • 聖書は神の言葉を伝える書として信仰の根拠とされており、その意味合いは小説とは一線を画しています。
  • 聖書には歴史や教えが記されており、宗教上の重要な資料として世界中の人々に影響を与えています。
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【キリスト教徒の方に質問・聖書の謎】聖書は現代で言

【キリスト教徒の方に質問・聖書の謎】聖書は現代で言う小説ですよね? それ否定しますか? 聖書は今でいうハリーポッターみたいなもので物語が大変良く出来ており、作者の死後も愛されて、作者が死んでからも続編を誰かが書き続けたので後半になるとどんどん話が盛られてイエスキリストは偉大な神となった。 けど、ハリーポッターを読んで熱心なファンになってハリーポッター寺とかハリーポッター教とか今ではあり得ないけど昔は娯楽がなかったので○○クラブみたいなノリがオウム真理教みたいになってお金もお布施で入るし俺も働かなくても潤うしというノリでバチカンのローマ法王みたいなドラゴンボールでいうフリーザみたいな悪の巨人が生まれたって感じですか? 聖書って今でいう小説だったという意見に否定しますか?反論ありますか?

質問者が選んだベストアンサー

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  • GENESIS
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回答No.1

聖書は小説ではありません。小説とは作者が想像して作られた、いわゆるフィクションの世界です。でももしあえて小説という分野に分けたいならノンフィクション…つまり事実(史実)に基づいた…でしょうか。この目で実際に見てないという事実もあるので。 ご存知でしょうが聖書には旧約と新約があります。天地創造からキリスト降誕以前の神と人々の関わりが旧約であり、キリスト降誕以降が新約です(ざっくりですが)。そしてこの聖書は約1600年の間に40人ほどの人が、想像ではなく神の霊感により書かれました。 キリスト教はこの聖書が教えの基本であり、信仰の要です。そしてキリスト教徒はその歴史や教えを信じています。たとえその時代に生きていなくて、その歴史をその目で見ていなくとも信じる、それが信仰なのです。 教会についても、形こそ今とは違いますが旧約時代からありました。ただし宗教は他にもあり自分の信ずる宗教は正しく他は異端と考えるものも多く、それは今でも通じる話です。 なぜハリポタやDBが引き合いになるのかは理解できませんが、教会はノリで出来たのではなく信仰に必要で出来たのです(ローマ法王はなぜ悪なのか?)。まあ、中には欲がらみやノリで出来た宗教もありますが…。 残念ながら今はキリスト教といえ多くの宗派があります。元々の教えは一つでしたが、聖書の解釈の違いから多くに分かれてしまったのが現状です。 ところで質問者様はどのような回答を期待されているのでしょうか?。 >聖書は現代で言う小説ですよね?それ否定しますか? >否定しますか?反論ありますか? と、明らかに聖書は小説であるという前提で書かれているように思えます。そしてキリスト教の方限定とされていますが、水掛け論にならなければと気になっています。 ただ私に言わせれば、それが小説なのか史実なのかはどうでもいいこと。あなたが小説だと思えばそれでいいし、史実だと思えばそれでいい。自分がどう思うかが大切であって他人がどう思うかは他人に任せておけばいい話ではと…。なお私はキリスト教の1つの派に所属ていますので、キリスト教徒の方として意見させて頂きました…。 ちなみに質問者様は学校で歴史の授業を受けられたと思いますが、それはどう思われましたか。小説or史実?。

japanway
質問者

お礼

みなさん回答ありがとうございます 日本の日本史はデタラメですね。明治時代に天皇崇拝で書き換えてますよね。

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