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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:1901-1902年)

日露高官会談とその意味

このQ&Aのポイント
  • 1901-1902年の日露高官会談は、両国が平和を保つ意思を持っており、その危険性を認識していたことを示している。
  • 会談は両国にとって失望だったが、日本の同盟戦略ではなく、独自の行動として伊藤博文の訪問を解釈する選択をした。
  • 会談後、英日同盟が発表され、ロシアは不安定な状態になり、傷ついたと感じた。

質問者が選んだベストアンサー

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  • oignies
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回答No.1

イアン・ニッシュ『日論戦争の起源』 事実関係がよくわからないので、訳しづらかったりするのですが・・・ 文脈頼りに訳してみますと 伊藤がサンクト・ペテルブルグを訪問した際の顛末によって、 最初の日露首脳級会談ともいうべきものは、封印された。 階段は、双方にとって、実をむすばなかったが、双方ともに、平和が 保たれることをのぞんでおり、かつ、平和が破られるおそれのある ことを理解していたのだった。会談をおえたあと、ロシア側は、確信 をもてずにいたが、ときあたかも、日英同盟が発表される。 これをもって、ロシア側は、伊藤の訪ロを日本の命運を左右しうる陣 営の動きーーー実際にはそうだったのだがーーーではなく、実際は そうでなかった日本側の「同盟戦略」の一部とみなした。 というような意味だったりします。伊藤が訪ロしたときの顛末が失敗に おわったので、日露間の首脳会談ができなくなったということのようで すが。

yakkamireader
質問者

お礼

どうもありがとうございます。

その他の回答 (1)

  • oignies
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回答No.2

回答者1です。 典拠の題名がちがっていました もちろん日露です。 またoriginesは原因と訳すのがよろしいかも。

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