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人間には「救済」が必要なのか

無宗教者です。 様々な宗教、特にアブラハムの宗教を学ぶにつれ、 「そもそも救済は必要なのだろうか?」 という疑問を抱きました。 例えば、パウロは、私は惨めな人間であり、誰が私を救ってくださるかといっていますね。 しかし私は、なぜ人間が惨めであってはいけないのか分かりません。 人間は惨めなまま死ねばよいのであり、神による救済など不要ではないかと思うのです。 私はニーチェの永遠回帰を信じているので、人間は無意味に生き、無意味に死んでゆく人生を無限に繰り返し続けるだけだと信じています。 私の人生も無意味ですし、今生きているのも無意味であり、死ぬのも無意味、今ここで自殺するのも無意味です。 したがって、宗教がなぜ「救済」を求めるのか分かりません。 仮に神がいたとして(私は神を信じていませんが、実際にはいるかもしれませんし、それは証明できないことです)、私は神から救済されることなど望まないと思います。 質問ですが、「救済」はなぜ必要なのですか? なぜ人間が惨めであってはいけないのですか?

みんなの回答

回答No.11

惨めであってはいけないわけではありません。 ただ、世間でそういったことを嫌う人が多いのは、単に惨めなのが辛いと感じるからです。 それは長い人間の文化の中で、そうなったとしか言えません。 単純に後ろ向き、惨めな、ネガティブ思考をよしとする人間は子孫を残し辛く、 逆に前向きで、ポジディブをよしとする人間は子孫を残しやすいでしょう。 生きやすい方、気持ちいい方へ向かいことが、生物の本能として備わっているからだと 私は考えています。

selfless
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 > 生物の本能として備わっている しかし、人間以外の動物は、宗教など持ちませんし、生きる意味や「救済」など必要としないと思います。 これは人間特有の現象であって、本能というのは無理があると思います。

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回答No.10

私には、あなたが無意味な人生を全うし死んでゆく自由こそがすばらしいことに見えます。その惨めさを充分に堪能くださいませ。 であるなら、救済がなぜ必要なのか、人間が惨めであってはいけない理由をあなたが知る必要もここで質問する必要もありません。無意味ですよ。 意味の無いあなたの人生にとって、アブラハムだのニーチェだのはゴミです。

selfless
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 > あなたが知る必要もここで質問する必要もありません 質問してもよいのではありませんか? 質問した上で、やはり意味はないと実感する生き方もあるのですから。

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回答No.9

死の危険を目前に危惧する者は助けを必要としているという事で助けるのは神に限らないよ。

selfless
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 生きるためには助けが必要というのは私も同意しますが、では「救済」は必要ないということでしょうか。

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  • hpki
  • ベストアンサー率11% (13/115)
回答No.8

人が、ある日突然一人で勝手に誕生できるのなら別だと思いますが、 この世に生まれてから、1分、1秒、一度も救われてない人間はいないと思います。

selfless
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 おもしろい回答ですが、 > 救われてない この「救われてない」とはどういった意味でしょうか。

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  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.7

selfless様、こんにちは。 >「私はニーチェの永遠回帰を信じているので、人間は無意味に生き、無意味に死んでゆく人生を無限に繰り返し続けるだけだと信じています。 私の人生も無意味ですし、今生きているのも無意味であり、死ぬのも無意味、今ここで自殺するのも無意味です。」 と、信じているのですね。そうですか。 >「質問ですが、「救済」はなぜ必要なのですか? なぜ人間が惨めであってはいけないのですか?」 「なぜ、人間が惨めであってはいけいないか」 ・・・それは、歴史に学ぶことが出来ると思います。

selfless
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 > ・・・それは、歴史に学ぶことが出来ると思います。 私は歴史を学びましたが、分かりませんでした。 kurinalさんは何を学んだのですか?

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回答No.6

無意味と思うことは色のない世界で生きているような感じですね、命は一つでは完結できない満たし満たされるようにできてると思いますそこに喜びを感じ意味を見出すことを強調したいのだと思います。

selfless
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 しかし、分かったような分からないような回答ですね。 > 色のない世界で生きているような感じ 色のない世界とは、貧しい世界ということでしょうか。 しかし、(私は全盲ではありませんが)色のない世界でも、豊かな世界は存在すると思いますね。 > 命は一つでは完結できない満たし満たされるようにできてると思います その通りだと思いますが、そのことと「救済」の必要性はどう関係するのでしょうか?

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noname#195588
noname#195588
回答No.5

第一論文 「善(gut)と悪(böse)」「よい(優良)(gut)とわるい(劣悪)(schlecht)」 ・「[〈よい〉という]判断のおこりは、〈よい人〉たち自身にあった。すなわち高貴な人たち、強力な者たち、高位の者たち、高邁な者たち自身にあった。こうした者たちが、あらゆる低級な者・下劣な者・野卑な者・賤民的な者に対比して、自己自身および自己の行為を〈よい〉と感じ〈よい〉と評価する、つまり第一級のものと感じ、そう評価する。この距離のパトスからしてはじめて彼らは、価値を創造し価値の名を刻印する権利を自らに獲得したのである。功利など彼らの眼中にはない!まさにこのように順位を定め、順位を分明ならしめる最高の価値判断が激烈にほとばしりでるところにあっては、功利の観点はおよそまったく無縁であり、ふさわしからぬものである。……高貴と距離のパトス、すなわち低級な種族つまり〈下層者〉にたいする高級な支配者種族の持続的・優越的な全体感情と根本感情、――これこそが〈よい〉(優良)と〈わるい〉(劣悪)との対立の起源なのである。」(377-378) ・これに対して、「利己的」な行為よりも「非利己的」な行為を「良心」に照らして道徳的であるとみなす態度は、貴族的な価値判断の没落とともに、人間の畜群本能が支配的となる場合に生じる。(379) ・【僧侶階級と騎士階級の対立】「騎士的・貴族的な価値判断が前提とするものは、力強い肉体、今を盛りの豊かな溢れたぎるばかりの健康、加えうるにそれを保持するうえに必要なものごと、すなわち戦争、冒険、狩猟、舞踏、闘技、さらにはおよそ強い、自由な快活な行動を含む一切のものごとがそれである。」(387)これに対して「僧侶的民族」であるユダヤ人は、「諸価値の徹底的な価値転換」によって「精神的な復讐」を遂げる。「ユダヤ人[イエス・キリスト]こそは、……貴族的な価値の方程式(善い=高貴な=強力な=美しい=幸福な=神に愛される)にたいする逆転のこころみをあえてし」た。すなわち「『惨めな者のみが善い者である。貧しい者、力のない者、賤しい者のみが善い者である。悩める者、乏しい者、病める者、醜い者のみがひとり敬神な者、神に帰依する者であって、彼らの身にのみ浄福がある。――これに反し、おまえら高貴にして権勢ある者ども、おまえらこそは永遠に悪い者、残酷な者、淫いつな者、貪欲な者、神に背く者である。おまえらこそはまた永遠に救われない者、呪われた者、堕地獄の者であるだろう!』」(388) http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Resume%20on%20Nietzsche%20Zur%20Genealogie%20der%20Moral.htm ~~~~~~~~~~~~~~~~ なるほど。戦争に負けたなんてのは書いてませんね。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ・【虚無を意欲する人間】「が、それにもかかわらず──人間はそれによって救われた。人間は一つの意味をもつに至った。……今や人間は何かを意欲することができるようになった、──何処へむかって、何のために、何をもって意欲したかは、さし当たりどうでもよいことだ。要するに、意志そのものが救われたのである。……人間的なものに対するこの憎悪、それにもまして動物的なものに対する、さらにはまた物質的なものにたいするこの憎悪、官能に対する、また理性そのものに対するこの嫌悪、幸福と美とに対するこの恐怖、あらゆる仮象から、変転から、生成から、死から、願望から、欲望そのものからさえも逃れようとするこの欲望──これらすべては、あえてこれをはっきり規定するなら、虚無への意志であり、生に対する嫌厭(けんえん)であり、生の最も基本的な諸前提に対する反逆である。……人間は何も欲しないよりは、いっそむしろ虚無を欲する。」(583-584) http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Resume%20on%20Nietzsche%20Zur%20Genealogie%20der%20Moral.htm ~~~~~~~~~~~~~~~

selfless
質問者

お礼

ニーチェの文章を引用されていますが、それで何がおっしゃりたいのですか?

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回答No.4

 ★ (No.2お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~   > おなじDNA を持った人間は自分よりほかにいないので 輪廻転生することはあり得ませんが  なぜ「ほかにいない」「ありえない」と断言できるのか不思議です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《ほかにいない》のなら 過去に何野何兵衛であった人間が いまのわたしの前身であるといったことは《あり得ない》と断言できるのではありませんか?  ★ (同上) ~~~~~~~~~~~~~~~~    > 組織宗教と 個人の信仰とは これまた違うという意味です  では、「個人の信仰」において、「救済」が必要とされる理由は何ですか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは そういう意味ではなくて 組織宗教は 《他人に対する支配欲に支配されてこの欲望を満たすためにこそ 金儲けを兼ねて 互いに群れたがる》という個人の心的現象でありまたそれが集まった社会現象であると言っています。  個人の信仰は そのような――それでも《信仰》という看板をしばしばかかげているところの――組織宗教とは根本的に違うと言ったまでです。  つまり 信仰には 《救済を必要とする》場合もあれば 質問者のように《必要としない》場合もある。という仕分けをおこなったまでです。  すくいを必要とする理由を述べてそれとしての議論をおこなう段階ではないという意味です。

selfless
質問者

お礼

> ほかにいない 「ほかにいない」と断言できる根拠は何でしょうか。 > 信仰には 《救済を必要とする》場合もあれば 質問者のように《必要としない》場合もある ええ、それで、《救済を必要とする》場合、どのような理由があるのか? という質問です。 理由もなく《救済を必要とする》わけではないですよね。

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noname#195588
noname#195588
回答No.3

ニーチェはバラモン教、仏教、キリスト教を「三大宗教」(『道徳の系譜』III・17)といい、後の二つを「二つの世界宗教」(『悦ばしき知恵』347)あるいは「二大宗教」(『善悪の彼岸』62)と呼んでいる。 http://www.geocities.jp/jbgsg639/sutta.html#12 ~~~~~~~~~~~~~~~~ わざわいなるかな!人間がもはやその憧憬の矢を人間を超えてかなたへ投射することなく、そしてその弓の弦がうなることを忘れてしまう時が来るのだ!       (『ツァラトゥストラ』序説5)  この「憧憬の矢」は、「別の岸へ向かう憧憬の矢」 (序説4)であり、「超人へ向かう一本の矢、一個の憧憬」(第1部「友人」)でもある。 ニーチェは「インドの仏陀とは反対のもの」を称し、その「憧憬の矢」は、仏陀の”darts of sorrow”にことごとく反逆しているようである。 http://www.geocities.jp/jbgsg639/sutta.html#12 ~~~~~~~~~~~~~~ 正直、ニーチェは嫌い。 でも、勉強しないといけないなあ、と思ったり。 キリスト教の結果がニヒリズムだとすると ニヒリズムをどう考えるかというのはやっぱり重要。 ニヒリズムを問題視すればそれは、キリスト教批判になるから。 それに、ニーチェの思想を一言で言うと 負けたのが悪い。 ということだと思います。 なんでこんなのが日本で流行るのかわからない。 結局、戦争で負けたのが悪い。 負けた連中が、善悪を捏造して、勝者を貶めた。 そんなことはやめろ、強くなれ。 これは、 戦後の日本を完全に批判しているような気がする。 もっとも、こんな話は生々しいから 戦争に負けたユダヤ人が、神を捏造して、 キリスト教は大衆のプラトン主義という話でいいですけど。

selfless
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 > 負けたのが悪い。 ニーチェはそんなことを一言も書いていませんが……。 なぜニーチェを読んでもいないのに、ニーチェについて要約できるのか不思議です。 あと、日本の敗戦については今回のトピックと全く関係ないですね。

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回答No.2

 こんにちは。  ★ 私はニーチェの永遠回帰を信じているので  ☆ おなじDNA を持った人間は自分よりほかにいないので 輪廻転生することはあり得ませんが もしそれでも《これこれを信じている》というのであれば パウロにしても 《あれそれを信じている》と言っていいのではないでしょうか?  という回答です。    あと たぶん  ★ 無意味  ☆ であることに意味を見い出しておられるのかも知れません。  つまり 人それぞれであるということになると思います。  あと  ★ 宗教がなぜ「救済」を求めるのか  ☆ は 金儲けのためと支配欲を満たすためです。  つまりは 組織宗教と 個人の信仰とは これまた違うという意味です。

selfless
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 > おなじDNA を持った人間は自分よりほかにいないので 輪廻転生することはあり得ませんが なぜ「ほかにいない」「ありえない」と断言できるのか不思議です。 > 組織宗教と 個人の信仰とは これまた違うという意味です では、「個人の信仰」において、「救済」が必要とされる理由は何ですか?

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