• 締切済み

恋愛は「お金で買う」時代の到来!?

purin-suta-の回答

回答No.3

金で買った恋愛なんてただの暇潰しにしか思えない。 「落ちる・落とせる」と思ってるのはオトコの勘違い。 すべての人間に当てはめても仕方がないことだと思う。 愛は愛でも一生続かない愛に金を貢いでどうする。 結局ただの自己満足にしか過ぎないことになる。 時代が変わったとしてもこの国の現状を私たちの力では変えることはできない。 たとえ金持ちでも心の隅に置くことしかできない。 恋愛は愛だけがすべてではないです。 すべては勘違いから生まれる誤解の塊が噂となり人々が信じてしまう。 このサイクルを繰り返してるだけ。 結論から言い恋愛についての考えは日々、変わっていく。 一時の考えはただの過程に過ぎない。 風俗に手を染める人がいるのも、体で金を儲ける人がいるのも、 この国が平和だから。 「素晴らしい処世術」になるかどうかは分からないが。

noname#189117
質問者

お礼

で,事実を並べたうえで,あなたはどのようなことをコメントしたいのでしょうか?

関連するQ&A

  • 恋愛とはお金をばら撒くこととみたり

    あなたは、「お金」の力で愛を勝ちとることを、どのように受けとめていますか? 不道徳行為であると思いますか。 あるいは、是非も及ばすと受けとめていますか。 または、社会的な許容範囲のうちであると受けとめていますか。 「金の切れ目が愛の切れ目」を口にする人々は少なくありません。 そして、恋愛の機会に恵まれない人々にとって、「お金」ほど重要なものはありません。 意中の相手のために、「お金」を費やす。いや、「ばら撒」くと書いたほうが適切でしょう。 言葉は悪いのですが、それが事実ではないでしょうか。 パートナーに恵まれなかったら、「お金」の力で愛を勝ちとる。 「卑しい行為」であると批判をする人々がいるのかもしれませんが、そうでないと愛を勝ちとることのできない人々は少なくありません。そういった人々にとっては、これは切実な問題です。 「お金」の力にすがっても、愛を勝ちとりたいのです。 たとえば、中高年の日本人男性が、外国の若者と結婚する事例を考えてみてください。数百万円というお金を、業者や相手の家族のために負担することで、愛をもぎとりました。(そして、そういった環境で生まれたのが、わたしです。) それは、不道徳的な行為なのでしょうか。黙認せざるをえない行為なのでしょうか。 「金の切れ目が愛の切れ目」を口にする人々は少なくありません。 そして、恋愛の機会に恵まれない人々にとって、「お金」ほど重要なものはありません。 「お金」の力によって、おたがいの関係を「維持」しているからです。 でも、それは、とてもリスクの高い行為でもあります。 もしも、自分自身が職を失い、収入が激減したら… すべては終わります。 パートナーは、あなたのことを見捨てるでしょう。 「お金」で勝ちとった愛は、「お金」がなくなったとき、それが終わるからです。 そして、「自己責任」とされます。 恋愛について語る人々は大勢いますが、「お金」と恋愛の問題について、真摯に向きあっている人々は、そう多くはいないものと認識しています。 「純愛」という考え方が消えた、いまの日本社会。 愛することも、愛されることも、できない日本社会。 不都合な時代、不憫な時代と批判される日本社会。 そういった世の中で、恋愛の「あり方」が問われています。

  • 恋愛に必要な「適性」

    (日本人にとっての)恋愛に必要な「適性」とは、どのようなものでしょうか? (日本人にとっての)恋愛に必要な「適性」とは、(日本社会的とされる)「馴れ合い」の環境に適応しているか否か、そして、(日本社会的とされる)「持ちつ持たれつ」の人間関係を肯定的に受けとめているか否か、これらの2点が重要になるでしょう。 (日本社会における)恋愛にかんする言説に向きあっていくうちに、恋愛にたいするイメージが、(日本的とされる)「馴れ合い」、「持ちつ持たれ」というイメージに当てはまるのではと思うようになりました。 これに関連して、モテない人々という言説からうかがえることは、いわゆる日本的な「処世術」といったものを批判的に受けとめ、「馴れ合い」や「持ちつ持たれつ」の人間関係の「弊害」に向きあっているからという理由がつけられるのではないでしょうか? モテない人々とは、パートナーとの良好な関係の「あり方」をめぐって、独自の考えを持った人々であると理解することができると思います。理想主義に傾きすぎているという指摘もあるかもしれませんが、彼ら彼女らこそ、真剣にパートナーとの「関係」に向きあっているということもできるとおもいます。それが、「(恋愛的に)重過ぎる」と思われてしまう原因なのかもしれません。

  • 「真面目な恋愛」をする人ほど,「損」をする!?

    恋愛とは,「真面目に」考えるべきものなのでしょうか? 恋愛観について,さまざまな人々の意見をいただきましたが,恋愛というものが現代日本社会においては,いわゆる「ごっこ遊び」の延長線上にあるようなものであるという意見がありました。それは,わたしにとっては,納得のいくものでした。 さらには,恋愛とは,単に「セックス」をするための手段のようなものでもあるという意見もありました。「やりたい」から,パートナーを見つけるのだという,単純な考え方があるとのこと。 「真面目に,本気で,「好きな人」と向きあいたい。」 「真面目に,本気で,「好きな人」と一緒に,他者に対する愛を実践し,それを享受したい。」 もちろん,わたし自身も「人の子」ですから,邪な考え方やら,エッチな妄想は,します。しかしながら,わたしの考える<恋愛>とは,そういった要素が第一のものではありません。 やはり,恋愛は,何かしら高貴なものを考えたり,期待するのではなく,「快楽の実験台」を見つけるようなもの,として受けとめるべきなのでしょうか? つまり,恋愛とは「マジ」になるものではない,ということになるのでしょうか? 「真面目に付き合いたいのです。」 なんて相手に言うことよりも, 「ずっと,一緒にいられたらいいよね」 という認識のほうが,ましなのかもしれません。

  • 「ないものねだり」の恋愛観

    パートナーを選ぶにあたって,「条件」ばかりをつけることは,パートナーをつくることにならず,他者を遠ざけてしまうことになりませんか? 参考までに: パートナーを選ぶにあたって,「ないものねだり」をする人々は,少なくありません。これは,パートナーを選ぶにあたって,「多くの条件」をつけることでもあります。 ・カッコイイ人,可愛い人 ・お金を稼ぐことができる人 ・背の高い人 ・筋肉質の人 ・積極的にスキンシップをしてくれる人 ・外国語ができる人 ・スポーツ万能な人 ・楽器が演奏できる人 多くの人々は,自分にはできないことができる人をパートナーに選ぶ傾向にあると,わたしはおもいます。自分にはできなくても,彼氏や,彼女ができれば,ある種の満足感,あるいは,満足感のようなものを,得ることができるからです。「トラの威を借るキツネ」のごとく,ということです。当の本人にしてみれば,迷惑千万,ということになるでしょう。 パートナーがいなくて困っている人々の多くは,上に挙げたような「条件」ばかりをつけてしまうので,パートナーになってくれる人がいなくなってしまい,「悩み事」になってしまうと,わたしはおもいます。 わたし自身は,いわゆる恋愛にかんしては,未経験なので,どんな人でも受けいれるつもりでいます。交際してみて,いろいろなことがわかるからです。そういった「経験」をとおして,パートナーの魅力や,良いところが見つかることは,素晴らしいことだと,わたしはおもいます。 わたし自身がよくおもうことは,わたし自身は,「誰でもウェルカム!」なのにもかかわらず,そういう人々に関心をもたずに,みずからの「条件」ばかりを高くして,パートナーが見つけられないと,愚痴をこぼす人々がいることです。そういう人々の周囲にも,わたしのように,「誰でもウェルカム!」という人がいることでしょう。 「条件をつけすぎ!」 「選びすぎ!」 「ワガママがすぎている!」 ということにもなります。 たとえば,彼氏を探している人にたいして,「地味にみえるかもしれないけど,目立つようなタイプではないけれど,パッと見は良くないけれども,実は,パートナーのことを第一に考えてくれる人」がいたら,どうしますか?,とわたしは問いたくなります。 「理想像」ばかりを追い求め,気がついたら,何も得ていない…ということは,よくあるとおもいます。

  • 「生まれ持ったもの」にゆだねられる恋愛観

    恋愛とは,「生まれ持ったもの」にゆだねられるものなのでしょうか? これまで,パートナーほしさに,恋愛にかんする書物に目をとおし,恋愛にかんする言説を分析してきました。何かしらの知識を身につければ,恋愛はできる,パートナーを見つけることができると思っていました。 表向きには,恋愛とは共感の賜物のようなものとして受けとめられています。恋愛にかんするタテマエとして,共感のスキルが重要であると受けとめている人々は,とても多くいると思います。恋愛のおけるコミュニケーション・スキルとは,共感のスキルでもあると,わたしは考えます。 しかしながら,恋愛とは共感の賜物でもなんでもなく,そのホンネとは,「生まれ持ったもの」にゆだねられることです。 「ただし,イケメンに限る。」 この言葉こそ,恋愛とは「生まれ持ったもの」にゆだねられるという,恋愛観を代表する言葉だと思います。 そして,この概念を打ち破るには,「自分磨き」などという言葉で表現される共感のスキルを磨くことではなく,「お金の力」でしか打ち破ることができないとされます。ある有名な企業の創業者が,「お金で買えないものはない」という発言をしましたが,「生まれ持ったもの」をもたない人々にとって,恋愛とは「お金で買うもの」であると思うときがあります。人身売買のようなものであると批判したくなる人々もいることでしょう。そして,これは,ある経済学者の発言ですが,「イケメン税」なるものを導入すべきだというものも,過去にはありました。 恋愛のための適正とは,生まれながらにして,その有無が決まるものだと思います。才能であれば磨くことができますが,恋愛については,生まれる前からその是非が決まっているという,残酷なものだと思います。

  • パートナーを<買う>世の中!?

    ・パートナーとは、好きになるものではなく、そして、愛するものではなく、<買う>ものなのでしょうか? ・パートナーとは、<買う>ことで得られるものなのでしょうか? 結婚式を挙げる予定のカップルのなかには、「招待客」役の人々を「レンタル」する人々がいたことが、報道されたことがあります。代理出席、結婚式代行、といったかたちのビジネスが、いまの日本社会では関心のまなざしを集めるようになりました。 さらには、デートの相手を「レンタル」するというビジネスが、マスコミをとおして紹介されました。これは、いわゆるメイドさん系ビジネスの、「メイドさんとお散歩」の延長線上にあるようなものと思われますが、いまの日本社会では、お金を払って、デートの相手を「レンタル」するという時代になりました。 結婚式のゲストも、デートの相手も、お金を払って<買う>時代になったことは、さまざまな意味において、大きな議論を巻きおこすものであると同時に、多くの人々にとっては、非常に納得のいかないものなのかもしれません。 しかしながら、恋愛経験のないわたし自身にとっては、<買う>という「オプション」すら、非常に魅力的なものにみえてしまいます。もちろん、<買った>あとの「アフター・ケア」があることは十分に理解をしていますが。 パートナーを見つけて、おたがいの人間関係を深めるということは、お互いの尊重だとか、思いやりによって成立するのではなく、<買う>ことで成立する、ということになるのでしょうか? 極端な話になるかもしれませんが、ポルノ映画、あるいは、空想小説のネタになるのかもしれませんが、彼女や彼氏を<買う>ための自動販売機があっても、おかしくないのかもいしれません。

  • 恋愛若葉マークは彼氏としてOKなのか

    あなたは、恋愛未経験の人物を、恋愛の対象として認識し、さらには、パートナーとして接することはできますか? 単純な質問ではありますが、非常に、さまざまな回答がでてくる質問だと思います。 いわゆる、彼女いない歴イコール年齢の男性を、彼氏として受けいれられるか、という質問でもあります。 いい年になって、恋愛も知らない、色恋とは無関係の人物を、あなたはパートナーとして受けいれることはできますか? 口では、「彼氏の過去など関係ない」と言いながらも、そのホンネとしては、「そういった人物は、いろいろとヤバそうだから…」などと思っていることでしょう。 たとえば、過去の彼氏の性風俗歴。あるいは、浮気歴。これを、大変に気にする女性は少なくありません。いくら「過去のこと」とはいえ、そういうことをした人物はパートナーにすることはできないと、ばっさりと切る人々がいる一方で、「過去は問えない」として、大目に見る人々もいます。 さらには、「初めての彼女」ということもあって、いろいろと「気苦労」をする人々もいることでしょう。そういったことがあるので、いい年をして恋愛の経験のない人々はパートナーにはしたくないと言う人々は、少なくないと思います。 パートナーができない、ということについては、当の本人の人格やら性分が原因であると、一方的に断定することはできません。社会的な事情や、家庭の事情、オトナの事情など、いろいろとあると思います。さまざまな「事情」があるなかで、彼女いない歴イコール年齢の男性を、彼氏として受けいれることは、「大英断」なのかもしれません。

  • 建前論でしか恋愛を語れない人々

    恋愛にかんする質問にたいするコメントの多くは,建前論を前提にしたものが少なくありませんが,なぜ,多くの人々は,恋愛という観点においては,建前論を語ることが多々あるのでしょうか? 過去の,わたしの出した質問にたいしては, (1)パートナーはお金で「買う」ものだ →(建前)お金で人心は買えない。 →(本音)お金の切れ目が愛の切れ目 (2)パートナーのわがままを聞くことは良いことだ →(建前)おたがいの要求を聞き,おたがい歩み寄ることが重要だ →(本音)与えるよりも,与えられるほうが嬉しい,あるいは楽だ (3)パートナーのことが,ほんとうに好きなら,愛しているなら →(建前)パートナーの全てを受け入れられる →(本音)パートナーの過去が気になる

  • なんで,あんな人を選ぶの!?

    いわゆるパートナー選びにかんして,ほんとうの意味において,「ぴったりの相手」をパートナーとして選んでいる人々は,いるのでしょうか? 参考までに: 夫婦間のトラブル,カップル間のトラブル,そういったもののなかには,数はとても限られていますが,いわゆる犯罪行為に発展するものがあります。 さらには,いわゆるセクハラ,デートバイオレンス,家庭内暴力など,さまざまな問題をかかえているカップルは,少なくないと,わたしはおもいます。 そういった問題について考えていくうちに, 「なんで,当事者は,“あんな人”(パートナーに暴力をふる人,たとえば)をパートナーとして選んだのか?」 という「疑問」にたどりつきました。 「世の中には,カップル間における人間関係にかんして,犯罪行為をするような人々がいる一方で,まじめで,パートナーとの信頼関係を重んじる人々がいるのだから,なぜ,そのような人々を選ばなかったの? まゆにつばをつけたのか?」 パートナー選びに「失敗」してしまった人々が,すご~く,いっぱいいる,ということになるのでしょうか? そういった「問題」のことを考えるたびに,恋愛とは,いわゆる「テクニック」ありきのようなものであり,いわゆる「実直な人」,「正直な人」,「誠実な人」は,恋愛という面においては,「つまらない人」,あるいは,「損ばかりをしてしまう人」であると,そのように思うときがあります。 わたし自身のことですが,わたしには,恋愛経験はありません。恋愛にかんするテクニックなども,ありません。 「ウソをつかない」,「相手を裏切らない」,「相手を尊重する」,「相手をいたわる」,「パートナーの,のぞみをかなえるために頑張る」 恋愛関係にかんするスキル的なものとしては,こういったものしか,わたしはもっていません。いわゆる「堅物」,「つまらない人」と思われても,仕方がないのかもしれません。

  • 恋愛と結婚、そして日本社会―個人VS社会

    はじめに、(いつまで掲載されているのかは、わかりませんが)この動画をご覧ください。 「結婚差別と部落問題」 https://www.youtube.com/watch?v=Chv6nzNfq54 そして、動画を観ていただいたうえで、質問をします。 「もしも、あなたにパートナーがいて、そのパートナーが「抑圧された(される)側(差別を受ける、受けた側)」―たとえば、日本社会においては、同和地区につながりをもつ人々、ハンセン病の関係者、外国出身者、あるいは、外国につながりをもつ人々、など―の人々に属することがわかった場合、パートナーとの関係を終わらせたいと思いますか、あるいは、パートナーとの関係を継続させますか?」 上に挙げた動画においては、同和地区につながりをもつ人々にたいする差別の問題が紹介されましたが、このようなケースは、同和地区につながりをもつ人々のケースだけではなく、国際結婚、ハンセン病の関係者、障碍者にたいする差別についても、同様の議論になるものと思われます。 そして、自分自身には差別意識はないのだけど、世間の<まなざし>や、家族、親族の<まなざし>を考慮して、泣く泣く交際を終わらせた人々も、日本社会には少なくありません。このような、恋愛、結婚事情とは、個人という次元を超えた、「社会的な事情」が強く関係しています。 恋愛や結婚事情とは、「個人の問題」であると強調する人々は少なくありません。しかしながら、日本社会における諸問題に目を向けたとき、恋愛や結婚事情というものが、「社会の影響」を強く受けることは、誰もが否定することはできません。「コミュニケーションのスキル」がどうのこうの、当人の人格がどうのこうのという次元だけでは、こういった問題を語ることは容易なことではないのが、日本社会における「現実」ではないでしょうか。 あなた自身が、「結婚相手のバックグラウンドは、あまり重要な問題ではない」と口でいいながらも、「世間」がそれを許すことは、ほとんどありません。そんな「世間」に、あなたは「抗議」しますか、それとも、「世間」に従属しますか?