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哲学的ゾンビの考え方に納得ができない

哲学的ゾンビの考え方に納得ができない、というか理解できません。 教えてください。 哲学的ゾンビとは、要は <自分以外の人間が本当に、自分と同じ「意識」を持っているか、「クオリア」を感じているかを、判断することが原理的に不可能> ということだと思います。 しかし、これは本当に正しいのでしょうか? 他人が自分と同じクオリアを感じているかを判断する方法はないのでしょうか? 例えば次のような方法はどうなんでしょうか? 自分の脳みそをパカっと開いて、自分が「赤のクオリア」を感じている時の脳の状態を調べます。(実際にそういうことができるかはここでは問題にしません) 赤のクオリアを感じてる時、自分の脳がどうなってるか、どんな反応を示しているか確認します。 で、他の人の脳みそを同様にパカっと開いて、<自分が「赤のクオリア」を感じている時の脳の状態>と同じような反応がそこに見られたら、その人には自分と同じ「赤のクオリア」が見えていると推測することはできませんか? ※これは質問であって、哲学的ゾンビの考えは間違っている!という批判意見ではありません。自分は哲学的なことをさらっと読んだ程度でそもそも理解が浅く、とても批判や疑問を出せるほどの知識も理解もないです。

みんなの回答

  • ZTyTXxb
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回答No.8

哲学ゾンビとは地獄の獄卒と同じで人の様な有情ではなく無情である物、無情とは心が無い。無情とは機械や自動車の様な物に近い物

noname#210533
noname#210533
回答No.7

一つの解釈としてお読み頂ければ幸いです。 どの道、自分で深く考えて考えて考え抜くのが 哲学なんですものね。 質問者さんの解釈がそもそも違ってる気がしました。 哲学的ゾンビ、というのをとても雑だけど簡単に言えば、 人間の反応を完璧に返すプログラムのことと言えます。 様々なシチュエーションに対して、プログラムの中に あらかじめ用意された「答え」を投げ返して来る「箱」。 完璧な人間に見せかけることに特化した仕組み、と いうものを仮定してみます。 無数とも言える外界刺激と反応パターンがあるでしょうが、 その反応の総量は論理的に計算出来うるでしょう。 簡単に言えば二者択一の分岐が三回繰り返されるならば 2の三乗、というようにべき乗で反応の総量が計算できる。 それは、ロジカルな言い方をすれば、あらかじめ決まった 総量だけ答えが用意されている自動返答機、ということに なりますから、どれ程人間らしく見えても、テープレコーダと 基本的な「意味」は同じ、それには意識は無い、という理屈。 (私は、実はこの構造体に意識が無いとは思わないんですが) 哲学的ゾンビとは、あくまで哲学的思考実験の産物と聞き及んで います。 もっと深い意味での議論なら、途方もない量の分岐が経験的に 積み上げられたら、それは変容して行く「意識」そのものではないか、 という視点で言えば、先の例は哲学的ゾンビとは呼べない、と なるでしょう。 が、これでは話が難解になり過ぎるので、ここは簡単に、 どんなに人間らしく見えてもあらかじめ準備された答えを、 決まったルールに従って返すだけの人形には、意識は存在して いない、というレベルに抑えて考えてみることにします。 哲学的ゾンビとは、「意識」、というより「クオリア」という、 意識の意識たる核についての議論から、対立モデルとして 「クオリア」を持たない存在として仮定された「記号」のようなものです。 だから、クオリア(を感じる、というのもピントがずれてる気がしますが・・ま。) を判断するのが不可能というのが哲学的ゾンビ、という要約は当たらない 気がするのです。 念の為に書き添えますが、別に批判的意見のつもりで書いている 訳ではございません。 クオリアとは何かを議論する間に、クオリアって何だ、よく判らない、じゃ それが無いものを仮定してみよう、というような一連の「クオリア」についての 認識を共有するプロセスで、「有るのかないのか判断できない」という 議論の一コマがあったに過ぎないのではないでしょうか。 それで <自分以外の人間が本当に、自分と同じ「意識」を持っているか、 「クオリア」を感じているかを、判断することが原理的に不可能> というような文脈に挿し替わってしまったんじゃないかと思うのですが、 ご質問にあるように、例えばMRIなどを使って脳内のニューロンや シナプスを観測して、赤を感じる部位や反応経路、反応パターンが 特定できれば赤というクオリアを感じていると見えている、というのは 「赤」を識別する脳神経についての見解だと思います。 赤、はあったかい、リンゴの色、血の色、などなど、頭の中では「赤」という 認識は「赤」という言葉に変換される前の状態で、人に暖かさや食欲、 恐怖や痛みなどを追想させるキーになる「脳内情報=シナプスの発火の 一連のパターン」ですよね。 でも、それは精密なロボットで模倣することが出来る、システムに過ぎません。 クオリアというもの/私の個人的理解で恐縮ですが、赤いものを赤く識別 出来る、と言うことではないと捉えています。 「赤」そのものの、「脳内」での位置・状態特定ではなくて、「意識内」での 「説明される前の、原・「赤」って、どうして「赤」に「見えるんだろう」という とても当たり前過ぎて逆に説明できなくなる根元的な捉え方なのです。 (これも私の理解を書いているだけです) 私たちが良く出来た自動人形ではなくて「我」を持つ、内的世界を持つ、 自立した唯一無二の存在であるのは、どういうカラクリなのか? 全く同じたんぱく質分子で全く同じ構造を再構築して創り上げた「私」には 「私は、私。」という自我が備わるのだろうか?ということを考えていくと、 とどのつまり色んな識別能力や、知識や、思考能力を全て取り払った後に 残る「私」ってものの本質って何なんだろう? ということを掘り下げて考えて行ったら、そもそも「見える」って、自我の 基本中の基本だけど、それって何なんだろう? という疑問にぶつかります。 そこで、「私」そのものが「見る」という 哲学的事象そのものに「何ちゅうか、感じ、っちゅうか、こう、手触りっちゅうか」 というようなことを弄繰り回して「質感」、クオリティ、から派生して出来た 専門用語であったと記憶しています。 「私」が「感じてる」という、あの「感じ」。 それをクオリアと名付けて思考実験を繰り返して来たと聞き及んでいます。 だから、人間そっくりのロボットに心はあるか、という議論と非常に類似点が 多い議論なわけです。 この場合、ロボットは哲学的ゾンビなのか?という話になります。 勿論、実際に議論されているのは、そもそも哲学的ゾンビなんて存在できる ものなのか?とか、心と言う機能云々の有無ではなく、根本的な「我」を 持たない人形として仮定されているので、アンドロイドが哲学的ゾンビか否か、 という卑近的な話ではないと思うのですが、とても説明しやすいのでギアダウン したつもりで取り上げています。 私個人としては、「赤のクオリア」は赤を認識できる人間にも動物にも存在すると 考えていますが、それが同一だとは考えていません。 むしろ、ちがっていなければ おかしいと考えています。 確かに、あなたが仰る通り、「赤」という認識データと、その扱いについての脳内処理は 共通だろうと思います。 赤、という意味や、感覚、それに連なる連想や扱い方などの コンピュータが模倣できる部分についての、データとしての「赤」は、誰でも共通して いると思います。 ですが、「赤い」、ではなく                   赤 そのものが、脳内意識世界の、ある特定の一部に存在する。 これがクオリアという「概念」・・・でいいのか、ともかく、その意味の有意な一面であると 思うのですが、思考の内的世界に、これが無い、つまり、                   「  」 という、人間そっくりだが中が空っぽなものを追求することによって、我々が「我」と感じて その存在を揺るぎなく感じてしまっている、「意識」とは果たして何なんだろう? ということを突き詰めて考えていくためのものが哲学的ゾンビ、という「表象のみの存在」 というわけだと、私は理解しているのです。 これでもかなり雑な言い方ですが・・・。 一つ、別な切り口を用意してみました。 質問者さんの哲学的思索にご参考になれば 嬉しいのですが。 それは、演劇の舞台。 物語があり、セリフがあり、動きがあり、人生が描かれます。 我々観客はその舞台に酔い、喜びや悲しみを仮想体験します。 でも。 そこにある全ては、雑な言い方ですが、「虚構」です。 役者は役になり切ろうと大変な努力を重ね、記憶したセリフが 完全に自分の意思として、相手の「役」と対話できるほどに 訓練し、表情も、動きも、その感情さえも、役になり切ろうと します。 でも。 それらは、全て、架空のものです。 フィクションであれ、ノンフィクションであれ、どれ程リアルに 演じたとしても、その「役」の「クオリア」は存在し得ません。 少なくとも、「我」というものを、絶対孤独な唯一無二の存在と 定義づけたなら、ですが。 そういう意味では、存在しない人間を演じる、ということは、 非常に逆説的に聞こえると思うのですが、演じる役者は 哲学的ゾンビであるという一面も持ってしまう。 演じている役の「人」そのものが、そこには存在しないからです。 我々の目には、他人が生き生きと暮らしている様が「見え」ます。 ですが、未だに世界は自分が見ている夢に過ぎない、という 独我論から抜け出せない自我が沢山ある。 自分しか絶対的に存在していると感じられるものが無い、という 生きる、ということの宿命の中で、「私」と私が感じる、これは 一体何なんだろう?ということを追及して行くことで、人間の 生の意味や意義を知りたいと願っているのかも知れません。 何故なら、「我」が唯一無二だということを哲学的に完全否定 出来ると言うことは、つまり、死の恐怖の哲学的克服に繋がる 事であり、生という存在を「群」の中にあって意味を成す、単位・ 要素としてミクロ的にもマクロ的にも自在に扱うことが可能に なるからです。 「クオリア」というものは、「私」という存在そのものを証明するための 言わば最も基本的な語・視点だ、と言えるでしょう。 これも私の理解・解釈です。 稚拙な点は許して下さい。 群盲象を撫でるがごとくで、さっぱり肝心要の論旨に至りません。 隔靴掻痒で気が狂いそうです。 書けば書くほど遠ざかっていく感じさえ、あります。 ごめんなさい。 一生懸命考えてはいるんですが・・・。 多分、ですが、「クオリア」という視点・切り口で「私」という「我」を 腑分けして行くという作業は、自分と言う意識的存在が独立した 絶対的なものでは無いと理解する作業に他ならないとも思います。 そして、多分、私は哲学的には存在していないのでしょうね。

  • kurinal
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回答No.6

こんばんは。 「納得出来ない」は、ともかく、「理解出来ない」とは、ご愁傷様です。 >「哲学的ゾンビとは、要は <自分以外の人間が本当に、自分と同じ「意識」を持っているか、「クオリア」を感じているかを、判断することが原理的に不可能> ということだと思います。 しかし、これは本当に正しいのでしょうか?」 正しくない、と思います。そもそも、そんなことは原理的に?可能なんでしょうか??? ・・・以下は、仰る「哲学的ゾンビ」の立場に立っての、「問題」へのアプローチなんでしょうかね。 >「他人が自分と同じクオリアを感じているかを判断する方法はないのでしょうか? 例えば次のような方法はどうなんでしょうか? 自分の脳みそをパカっと開いて、自分が「赤のクオリア」を感じている時の脳の状態を調べます。(実際にそういうことができるかはここでは問題にしません) 赤のクオリアを感じてる時、自分の脳がどうなってるか、どんな反応を示しているか確認します。 で、他の人の脳みそを同様にパカっと開いて、<自分が「赤のクオリア」を感じている時の脳の状態>と同じような反応がそこに見られたら、その人には自分と同じ「赤のクオリア」が見えていると推測することはできませんか?」 「哲学的ゾンビ」は知らない・判らないのですが、 「他人が自分と同じクオリアを感じているかを判断する方法」については、 deodo3さん と、記銘いたしました。 (たぶん、私がそうでなくても、このネットの世界で、 deodo3さんという名が忘れられることはないでしょう)

回答No.5

お礼、ありがとうございます。 ☆ゾンビたちが、刺激に対するその物理・化学的反応も含めて、すべて人間と同じであるなら、彼らの中に自分と同じクオリアが芽生えているのでは?と推測するのは自然なこと、ということでいいでしょうか? ◇です。それが自然です。 で、わたしは、哲学的ゾンビにはクオリアが発生する、と思います。 紹介にしたWikipediaの哲学ゾンビの記事に現象判断のパラドクスという項目があるでしょう。 そこに、 「意識体験を物理的現象と別のものとし、かつ、物理的世界が物理法則によって因果的に閉じている(物理領域の因果的閉包性)とした場合に、物理世界で行われている判断に意識体験そのものが関与してこなくなってしまう因果的排除の問題 (The Causal Exclusion Problem)である。」 と書いてあります。 哲学的ゾンビは、有機的身体を持つ機械のようなものだから、単に物理法則に支配される存在であって、決して意識体験(クオリア)は発生しない、といったことを仮定に入れている。 この仮定が正しい保証はない。 この仮定が破れる可能性があるのです。 なので、ひょっとしたら、哲学的ゾンビに意識体験(クオリア)が発生しているかもしれない。 そして、わたしは、おそらく発生しているであろう、と考えています。

回答No.4

同じ遺伝子を持ち、同じ環境で育ち、 同じ身体構造をして、 同じ生化学反応をして、 共通の会話が成り立つ時、 「直接的に観察できないから本当に 同じか分からない」と言えるほど、 我々は『直接的に観察』していない。 直接的に感受しているのは、感覚器官 表面における量子相互作用のみであり、 どんなに「確かな存在」も突き詰めれば、 その相互作用のパターンに、その向こう にあるものを空想しているに過ぎない。

回答No.3

いずれは確認できるようになるでしょう。 脳と脳の直接接続をやって、相手のクオリアを自分とクオリアとして感じることです。

回答No.2

NO1の付け足し。 ☆<自分以外の人間が本当に、自分と同じ「意識」を持っているか、「クオリア」を感じているかを、判断することが原理的に不可能> ということだと思います。 ◇これは、ちょっと違います。 これを言うのならば、 「わたしの《赤のクオリア》と他の人の《赤のクオリア》が同じであるか、違うか分からない。同一である保証はない」 かな。 哲学的ゾンビとは、ちょっと話が違います。 この話に哲学的ゾンビを絡めると、 「わたし以外の人間はすべて、哲学的ゾンビかもしれない」 となります(ニコニコ)。 哲学的ゾンビかクオリアを有した人間か、その判断方法はないんですよ。

回答No.1

哲学的ゾンビとは、 ~~~~~~~~ 哲学的ゾンビ(Neurological Zombie) 脳の神経細胞の状態まで含む、すべての観測可能な物理的状態に関して、普通の人間と区別する事が出来ないゾンビ。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%B2%E5%AD%A6%E7%9A%84%E3%82%BE%E3%83%B3%E3%83%93 ~~~~~~~~ のこと。 脳細胞や脳の神経を含めて、刺激に対するその物理・化学的反応も含めて、すべて人間と同じだけれど、クオリアだけが欠如している存在。 なので、いかなる観測によっても、哲学的ゾンビであるかどうかは識別は不可能です。 そして、人間は、哲学的ゾンビにクオリアがあると推測します。

deodo3
質問者

お礼

ゾンビたちが、刺激に対するその物理・化学的反応も含めて、すべて人間と同じであるなら、彼らの中に自分と同じクオリアが芽生えているのでは?と推測するのは自然なこと、ということでいいでしょうか?

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