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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:『死に至る病』の絶望と救済について)

キルケゴール『死に至る病』の絶望と救済について

ghostbusterの回答

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回答No.4

キルケゴールは「弁証法的」という言葉をよく使います。 弁証法というのは、 あることがらを分析しながら、その特徴を示す「テーゼ」を置く。  ↓ その「テーゼ」ではうまくいかない要素が出て来るために、それに対立する「アンチテーゼ」を置く。  ↓ このふたつのテーゼを包括できる第三のテーゼ「ジンテーゼ」が考え出される。 という思考方法です。 ギリシャ時代から始まったこの方法を、近代になって復活させたのはヘーゲルでした。ヘーゲルは互いに否定しあうふたつのものを、高次の段階で綜合していくことを「止揚」と呼んで重視します。 けれど、実際は互いに否定しあうものが、そんなふうに簡単に和解できるのだろうか。止揚などといっても、しょせんはいいとこどりにすぎないのではないのか。 キルケゴールはヘーゲルの弁証法を批判します。彼の考える「弁証法」というのは、逆に、ふたつのものの対立をぎりぎりまで深化させていき、その上で綜合を図る、というものです。 > ということは、キリスト教を攻撃する躓きの段階に達したとき(つまり神から最も遠いとき)、人間は神に最も肉薄しうるのでしょうか? その通りです。 そうして、ここにキルケゴールの考える「弁証法」があらわれています。 『死に至る病』の冒頭に、こんな箇所があります。 「人間は有限性と無限性との、時間的なるものと永遠的なるものとの、自由と必然との綜合である。要するに人間とは綜合である。」(岩波文庫p.18) ここでいう人間とは、有限性と無限性、時間のうちにあるものと永遠のもの、自由と必然、というふたつの要素からできている、という意味ではありません。そうではなくて、人間には無限性にあこがれる指向性と有限のなかで生きようとする指向性があり、必然性の中に行きながら自由を求め…といった、相反するふたつの方向へ向かおうとする運動によって引き裂かれている、ということです。ふたつの方向を目指す運動に引き裂かれているがゆえに、跳躍することができる。跳躍によって、綜合を遂げることができる。 > ではその絶望から救済にどう転じるのかが書かれていないので私には理解できませんでした。 それが「信じる」ということなんです。 救済に至る筋道が論証しうるものならば、理解すればよいのであって、信じる必要はない。信じるというのは、不確実なものにむかって、自分のありとあらゆる情熱を賭けて跳躍することだ、と言っているわけです。 救済されるかどうかはわからない、その先が奈落かもしれないのにどうしてそんなことができるのか。それは、罪の自覚があるからです。自分が神から限りなく隔たっている、絶望の中にある、という自覚ゆえに、跳躍する(信じる)ことができるのだ、と。

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