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ゴータマは、解脱者のなのか?

仏教の開祖・《ゴータマ》さんは、《解脱者》なのかどうか? ゴータマさん出家の動機が、《生・老・病・死》という《四苦》の克服であったことは、 多くの仏伝の伝えるところです。 しかし、 ゴータマさんは、 《老》い、《病》気になり、その病気がもとで《死》亡しています。 実際問題として、四苦を克服していない!! はてはて、 これはどうしたことか??? という疑問が、 数日前、わたしの頭に浮かびました。 1 ゴータマさんは、《苦》を克服、超克できたのか? 2 《解脱》は何からの解脱であったのか? 3 ゴータマさんは、本当に《解脱者》であったのか? 4 成道後のゴータマさんに、《煩悩・klesa》はあったのか? 教えてください。 よろしくお願いします。 大乗的な観点、南伝上座部的観点、原始仏教的な観点、 スピリチュアルからのアプローチ、 わたしの《ゴータマさん論》、《ゴータマ観》、 「仏教の説く《苦・duhka》とは」 などなど、 この質問に多少なりとも縁のある回答ならば、 大歓迎です。 よろしくお願いします(ペコリ)。

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  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.14

解脱と言うのは平たく言えば、迷いの束縛を受けなくなる事です。 煩悩は生涯消える事はありません。 それの最たるものが『生老病死』です。 生の苦しみを受け入れる。 老いの苦しみを受け入れる。 病の苦しみを受け入れる。 死の苦しみを受け入れる。 そして苦しみの意味ですが、喜怒哀楽、及びその感情を引き起こす存在全てが苦しみです。 ちなみにお釈迦様が解脱者かどうかはお会いした事が無いのとご本人の言を直接聞いた訳ではないので、私には断言する事は出来ません。

NemurinekoNya
質問者

お礼

回答、ありがとうございます。 ☆そして苦しみの意味ですが、喜怒哀楽、及びその感情を引き起こす存在全てが苦しみです。 ◇苦しみとは、主観的なものではなく、心外に存在する客観だという意味ですか? ☆ちなみにお釈迦様が解脱者かどうかはお会いした事が無いのとご本人の言を直接聞いた訳ではないので、私には断言する事は出来ません。 ◇YESかNO、どちらだとお考えですか? このどちらでもない、 あるいは、 「わたくしは、解脱者であると信じています」でも結構です。 わたしは、皆さんがどのように考えていらっしゃるのか、そのことを知りたいもので。

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その他の回答 (15)

回答No.5

 こんばんは。  部分的な回答です。  《不老不死》をめぐってです。  ●( bonbonnier さん) ~~~~~~~~~~~~  【Q:《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教)】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3454478.html  回答No.19 BA   ■不生不滅の境地  「世を照らす人は、徹見して、あらゆる見地を超えたものを見た。かれは、最高のものを知り。さとって、それを五人に説き示した。」(Theragatha.1244)  「これは不老でる。これは不死である。これは老い死ぬことのない境地である。敵なく、圧迫なく、過ちなく、恐怖なく、悩みがな い。』(Therigatha511-512)  「不老・不病・不死・不憂・不汚なる無上の安穏・安らぎを求めて、不老・不病・不死・不憂・不汚なる無上の安穏・安らぎを得た。そうしてわれに知と見が生じた、-「わが解脱は不動である。これは最後の生存である。もはや再び生存することはない。」『マッジマ・ニカーヤ』  釈尊は古来の言い伝えではなく、「いま、眼のあたりに体得された法」を語ろうとします。それは、同じくスッタニパータ』に、「心を統一されたサキヤムニは、(煩悩の)消滅・離欲・不死・勝れたものに到達された、-その理法と等しいものは何も存在しない。」と説かれ、輪廻転生等の伝統的な古代思想からではなく、眼の当りに不死の境地を獲得したことが述べられているのです。  中村元先生はその著『原始仏教の思想I』の中で、「この場合『不老』というのは、身体や霊魂が死滅しないという意味ではなく、死滅する動きの外側にあるという意味であろう。」と述べ、三世における生死の流れを外から覚知できる境地であると語っています。  原始経典に説かれた、「不滅の境位」(『ダンマパダ225』)、「不死の領域」(『サンユッタ・ニカーヤ』)、「不死の境地」(『Therigatha97」)等、さまざまに説かれた釈尊の境地は同じ境地を意味しています。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

NemurinekoNya
質問者

お礼

こんばんは。 引用なされた回答を読み、 ゴータマさんの発言、 これは《問題のすり替え》ではないか、 という感じがします。 食糧難で飢えに苦しむパリ市民に向かって発言されたとされる、 マリー・アントワネットの「パンがないなら、お菓子を食べたらよい」 と、たいして変わらないのでは? 《不死の境地》、《甘露界》は、 死の恐怖への気休めにはなるかもしれませんけれど。。。 歴史上実在したゴータマさんが説いたとされるお経を読むと、 ゴータマさんの回答には、 こうした問題のすり替え、意味のすり替えなどが、非常~に多い!! ゴータマさんの生きた時代の人たちは、これで納得できたのでしょうか? しかも、 不死の境地を口にしておきながら、 ゴータマさんは、 いざ、死が目前に迫ると、 「アーナンダ、お前のせいで、俺は死んじまうんだ!! 一体、どうしてくれるんだ!!」 ともとれる御発言をなさっていたように記憶していますけれど・・・。 ───と言いますか、 弟子たちには、賭博を禁止しておきながら、 ご自身は、ご自身の命をかけて、悪魔さんと博打をなさっている。 言行が一致していないようにも感じられます。 教祖様だから、オキテから自由、《解脱・mukti》 なさっていらっしゃるのでしょうか─── 21 つとめ励むのは不死の境地である。 (ダンマパダ) 目連は、タコ殴りにされ、非業の死を遂げますし、 シャーリプトラは、「じゃー、俺も一緒に死ぬ」と自殺しますし。。。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%AE%E9%80%A3 自殺は、ゴータマさんによって、禁止されていたはずなのですが・・・。 はてはて・・・。 謎はますます深まるばかりです。 回答、ありがとうございました。 中村元の《解脱・mukti》を《心の平安・santi》ととらえる解釈は、ちょっと・・・。 http://spokensanskrit.de/index.php?script=HK&beginning=0+&tinput=santi&trans=Translate&direction=AU

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  • alphaXXX
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回答No.4

>実際問題として、四苦を克服していない!! 釈迦の目指した解脱とは苦痛や執着、欲望などにとらわれない精神的な境地に至ることであって不老不死などのファンタジーではありませんから。 釈迦自体、その手の超能力などの非現実的なものを求めることを否定しているという話が残っています。厳密には否定というよりは考えるだけ無駄と切り捨てるニュアンスですが。 >1 ゴータマさんは、《苦》を克服、超克できたのか? 肉体的な苦しみにとらわれない精神的な境地には至ったようです。 物理的に肉体が存在する以上は肉体の物理的な損傷は避けられませんので神経が生み出す苦痛そのものを消し去ることは不可能とされていますね。 釈迦は肉体そのものを無敵にするようなファンタジーは求めていなかったようです。 >2 《解脱》は何からの解脱であったのか? 苦しみからの精神的な解脱かと思います。 >3 ゴータマさんは、本当に《解脱者》であったのか? こればかりはタイムマシンとテレパシーでもなければ証明は不可能でしょうね。 仏典も後世に追加されたものも多いですし、案外全部創作かもしれませんね。 4 成道後のゴータマさんに、《煩悩・klesa》はあったのか? あったとされています。ただ、その煩悩を制御していてとらわれることはなかったとされています。

NemurinekoNya
質問者

お礼

こんばんは。 要するに、 部分的ではあるけれど、 欲望などはコントロール、征服できた。 しかし、 歴史上実在したゴータマさんは、《ブッダ》でも、《解脱者》でもなかった。 せいぜい、 欲望などの征服者という意味での《勝者・jina》程度である。。。 このように理解してよろしいでしょうか? 実在のゴータマさんは、徳の高い遊行者程度であると?

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noname#195588
noname#195588
回答No.3

生老病死を解決するのに ゴータマ・ブッダは出家したわけだけど これは昔のインドだからでしょう。 今日の我々が生老病死を解決する方法は 医療だと思う。 再生医療が進歩すれば、肉体を交換して いわば輪廻転生のようなことまで可能になると思う。 でも、解脱を望むものは、肉体を再生してまで生きるのは 安らぎではないと考えるはずです。 ここで、再生医療と対立してきそうなきもしますが、 肉体が健康で不老不死になればこそ、 心の安らぎを得られると考える人たちもいるでしょうから こちらは仙人でしょうか。 ここで考えてみたいのは、 なぜゴータマ・ブッダは医師のところへ行かなかったのか? ゴータマ・ブッダは心の問題を解決したかったのだ、 当時に精神科医もカウンセラーもいない、となるかもしれない。 私は、仏教が、安らぎを説いていながら 医療の思想があまり発展していないような気がしている。 ゴータマ・ブッダは病気治しをしたりはしない。 神格化されても、そんな奇跡をしていない、はず。 それなのに、安らぎを説いている。 それが不思議で仕方ない。 人間にとって、健康こそが安らぎではないか? 医療以外に人を癒せるのか? ゴータマ・ブッダよ、 乞食になるくらいなら 医師になるべきではなかったか? はい、天魔の質問ですかね たぶん、病院のベッドで死にたくなかったんでしょう。 自分で呼吸器をはずすタイプかも。

NemurinekoNya
質問者

お礼

回答、ありがとうございます。 ☆人間にとって、健康こそが安らぎではないか?  医療以外に人を癒せるのか?  ゴータマ・ブッダよ、  乞食になるくらいなら  医師になるべきではなかったか? ◇時代的な背景はあるけれど、 ゴータマさんは、進むべき道を誤った。 本当は、沙門ではなく、 医師や薬師、セラピストになるべきであったと。 なるほど、なるほど。 しかし、 医療で病気や怪我は癒せるけれど、 人は癒せるのか? という問題が新たに出てきそうな感じもしますけれど。。。 再生医療によって、 もし、 「老い」や「死」を克服できたとして、 それは、その人は幸せなのか? 「死」を望んだり、しませんかね~。 死ねないツラさというものが、出てきたりしませんかね~。 ソクラテスがいうように、 「死」は案外いいものなのかもしれませんよ(ニコニコ)。 本題から外れてしまったようです。 「しかし」以降は、忘れてください。

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noname#215306
noname#215306
回答No.2

んー?、開祖の話にわざわざみっともない?ような逸話 の捏造もないでしょうから、ほんとなのかもしれません が? 最終段階の秘教家が、毒キノコにも気付かずに食します かね? 病気や処刑・拷問などは予知もし、敢えて苦痛などのコ ントロールもせずに受け入れるという事などはあるよう ですが、 毒キノコを食す事を敢えて受け入れる必要性というのも 、なかなか"?"ですし?・・・

NemurinekoNya
質問者

お礼

こんばんは。 ☆んー?、開祖の話にわざわざみっともない?ような逸話 の捏造もないでしょうから、ほんとなのかもしれません が? ◇チュンダのお話ですね。 ☆最終段階の秘教家が、毒キノコにも気付かずに食します かね? ◇これには《豚肉》説もあります。 例えば、 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%94%E9%99%80 ☆毒キノコを食す事を敢えて受け入れる必要性というのも 、なかなか"?"ですし?・・・ ◇おそらく、この件については、『法華経』読みの方、あるいは、日蓮系の仏教を信仰されている方から、回答があるように思われます。 ほら、わたし、質問者ですから(笑い)。 《お・し・え》を請う立場!! そして、 この回答は ゴータマは解脱者ではない、 と理解してよろしいですか? 回答、ありがとうございました。

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回答No.1

こんにちは。素人なりのイメージですが、釈迦も超人などではなく一人の人間であるということを前提にしながら考えてみました。 1「苦」に対して気持ちを煩わせないという感覚にはなれていたのだと思います。 2、3「~しなければならない」というような使命感や義務感から解放されて、自由に気楽な感覚にはなれていたのだと思います。 4自分が生まれた時代の中で、人間に過ぎない生き物として基本的に肩の力を抜きながらできることはやるが、その結果については心を煩わせずに時の流れが決めるものだと腹をくくっていた、つまりその意味で煩悩はなかったのだと思います。

NemurinekoNya
質問者

お礼

回答、ありがとうございます。 ☆1「苦」に対して気持ちを煩わせないという感覚にはなれていたのだと思います。 ◇《病》などの苦痛は存在していた、と。 それをありのままに受け入れ、受け止めていたが、 それによって《こころ》の平安のごときものは、乱されることはなかった・・・。 なるほど、なるほど。 ☆2、3「~しなければならない」というような使命感や義務感から解放されて、自由に気楽な感覚にはなれていたのだと思います。 ◇となりますと、 ゴータマさんが《教え》を説いたのは、義務感や使命感というものではなかった、となりますが、 そのように理解してよろしいでしょうか。 ☆4自分が生まれた時代の中で、人間に過ぎない生き物として基本的に肩の力を抜きながらできることはやるが、その結果については心を煩わせずに時の流れが決めるものだと腹をくくっていた、つまりその意味で煩悩はなかったのだと思います。 ◇《生(せい)・bhava》とそれに付随する《渇愛・「サンスクリット語:trsna・トリシュナー」or「パーリ語:tanha・タンハー」》はなかった、と。 その意味で、煩悩はない、と。。。 なるほど、なるほど。 回答、 ありがとうございました。 ───────── かつ‐あい 【渇愛】 のどがかわいて水を求めるように、激しく執着すること。 http://kotobank.jp/word/%E6%B8%87%E6%84%9B ─────────

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  • スッタニパータのゴータマ批判

     コーヒーブレイクになりますが 二件取り上げて論じ その是非を問います。  ▼ (スッタニパータ・中村 元訳) ~~~~~~    http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm  【 第一 蛇の章 】        <1、蛇>  1 蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。  2 池に生える蓮華を、水にもぐって折り取るように、すっかり愛欲を断ってしまった修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。 ──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。  ・・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~  (1) 勝手に捨て去ってくださいと言いたくなります。  (2) ほとんどすべては 先行していたブラフマニズムのオシエに対抗し――中で身分制に反対したことは 見上げたことですが――これを否定して 言わば駄々をこねた。に過ぎない。  (3) 主宰神ブラフマンあるいはその神の霊が ひとに生まれながらにそなわっているというその霊我なるアートマン これを否定しました。  いわく。アン-アートマン(無我・非我)と。  (4) ブラフマニズムの内容をアン‐インストールしようとしたわけです。  (5) 《この世》を望まず 《捨て去る》というのは 周知のように出家するというかたちです。自死をえらぶというわけではないようです。そのかわり 生活の糧は ほかの人びとの慈悲にすがっているということになっています。はたらくということをも捨て去ったわけです。  (6) 《かの世》を捨て去るというのは まづ例の身分制によって人びとの生活は その生まれの違いだけで よい暮らしが出来たりもすれば 悲惨な生活を送るしかない場合もあったりして そのように《思うようにならない》という《苦》を人生の前提に ゴータマ氏は 置いたようです。  (7) その結果として この《苦》から《解脱》することを 求めるべき・かつ実現すべき目標としたようで その意味は端的に言って もう低い身分の親の元には生まれて来ないという意味で《かの世を捨て去る》と表現したもののようです。   (8) すなわちこの世の《苦》からの解脱を得たあかつきには 悲惨な暮らしを余儀なくされる低い身分にはもう生まれて来ない。なぜなら われはこの世も かの世も ともに捨て去るのだからと。  (9) ものは言いよう。なのでしょうね。そもそも 輪廻転生などということは 遺伝子が同じ存在が過去にいたということがあり得ないからには ただのまやかしです。文学としての言葉のアヤであり そういうおとぎ話です。  (10) そう言えばいいものを わざわざ徹底していやな人生を送らねばならない身分を嫌って もうおれは 輪廻転生することはない。生命のともしびが 風に吹き消されるかのように――この世も かの世も ともに捨て去ることによって―― 消えてゆくのだ。つまり ニルワーナに到るのだ。と屋上屋を重ねるようにして 説教したようです。  (11) そりゃあ 何でも言えるわけです。ブラフマニズムのほうだってそうですが ゴータマ氏にしたって 生まれる前や死のあとのことなど 誰も知りませんから うまいことを言うのは言ったもん勝ちであるようなのです。  (12) その証拠に この《この世も かの世も ともに捨て去る》といった言い回しをも ひとつの命題として捉え ああだこうだと いまだに《学問も研究も一般市民の探究も》絶えることがありません。  (13) いったい世の中 どうなってるんでしょう?         *  ▼ (スッタニパータ 839 ) ~~~~~~~~  師は答えた、   「マーガンディヤよ。  【A】~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   『教義によって、学問によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、私は説かない。   『教義がなくても、学問がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  【B】  それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (14) これを批判しますが すなわち 次のように相い矛盾する発言をならべてみれば済むと考えます。  【A】 『教義によって・・・清らかになることができる』とは、私は説かない。  【B】 それ(教義)を捨て去って、・・・こだわることなく、・・・迷いの生存を願ってはならぬ。〔* という教義によって〕(これが内心の平安である。)〔* と説いた〕  (15) もしこの【B】が 《教義や道徳》ではないと言い張って来た場合には 次のように応答しましょう。  【A】 『教義がなくても、・・・清らかになることができる』とも説かない。  【B】 それ(教義)を捨て去って、・・・こだわることなく、・・・迷いの生存を願ってはならぬ。〔* というふうに教義ではない発言によって〕(これが内心の平安である。)〔* と説いた〕  (16) 《清らかになる》ことと《内心の平安という状態を得る》こととは別だと言って来た場合には・・・。

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    当否は承知しませんが、私の理解するところを記します。 ゴータマ・シッダッタは修行の甲斐あって解脱しました。解脱をすれば輪廻しないのだと思います。然るに一例として「維摩経 第12章 法供養」では世尊が帝釈の率いる聴衆を前にして、自らの前世を語っています。これは輪廻していることを示していて解脱したことと矛盾しているように思えます。 この疑問は輪廻、解脱の意味を初め、「維摩経 第12章 法供養」の読み方など何かを誤解しているが為に生じるのだと思います。何をどう考え直せば矛盾を感じなくなりますか。 よろしくお願いします。

  • あなたは ニルワーナ(涅槃寂静)をこいねがうか

     問いまたは/およびたたき台として 次のようです。  1. 《ニルワーナ=さとり》か?     ▼(ヰキぺ:涅槃) ~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%85%E6%A7%83    涅槃は、「さとり」〔証、悟、覚〕と同じ意味であるとされる。   ~~~~~~~~~~  ☆ でよいか?  2. 《ニルワーナ=涅槃寂静》か?  ▼(同上・承前) ~~~~~~  しかし、ニルヴァーナの字義は「吹き消すこと」「吹き消した状態」であり、すなわち煩悩(ぼんのう)の火を吹き消した状態を指すのが本義である。その意味で、滅とか寂滅とか寂静と訳された。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この特に語義をめぐる議論ないし情報は 次の質問すなわちほかの方の質問ですがそこでのやり取りを参照してください。もしそれについてもご見解があるという向きには のべてください。  【Q:ニルヴァーナを否定する思想】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7792422.html  3. 《ニルワーナ=死》という定義の場合について  ▼(承前) また、涅槃は如来の死そのものを指す。涅槃仏などはまさに、死を描写したものである。  ☆ この意味についてもそれを 《こいねがうか》といちおう問うておきます。  4. 《ニルワーナ=涅槃寂静》について  ▼(承前)  「人間の本能から起こる精神の迷いがなくなった状態」という意味で涅槃寂静といわれる。  ☆ これについて《こいねがうか?》と問うわけですが おそらくまづは この《ニルワーナ=涅槃寂静》の定義について さらにくわしい説明が必要かと考えます。ご自分の見解を示して お答えいただければさいわいです。  4-1. たとえば《精神の迷いがない》と言っても 生身の人間は あやまちをおかしたり迷いを持ったりするはずです。それでも《さとり》はありうると質問者は考えますが そのあたりのことをはっきりと明らかにして定義していただけるとさいわいです。  4-2. その場合には 《死》という意味での涅槃は あくまでたとえなのだという解釈を前提にしているはずです。それでよいか? ともあらためて問います。  つまりたとえば 次の《ニルワーナ=やすらぎ》という翻訳も 賛否いづれにしても 参照されるものと思われます。  ▲(同上) ~~~~~  南伝のパーリ語教典を訳した中村元はダンマパダ、第十章、「暴力」、百三十四節の訳注において    「安らぎ - Nibbāna(= Nirvāṇa 涅槃):    声を荒らげないだけで、ニルヴァーナに達しえるのであるから、   ここでいうニルヴァーナは 後代の教義学者たちの言うような   うるさいものではなくて、心の安らぎ、心の平和によって得られる   楽しい境地というほどの意味であろう。」  としている。  ~~~~~~~~~~  4-3. というのは たとえばぎゃくにかのソクラテスの場合には じっさいに死ぬという事態になっています。そのような事例との関連では どう考えるかの問題です。  《よく生きる》ことが 死ぬことにつながった。・・・  5. 《精神の迷い》は 人間の《本能》から来るか?  細かい議論になりますが 前項の引用で   ▲ 人間の本能から起こる精神の迷い  ☆ とヰキぺ氏は書いていますが これは ほんとうでしょうか? つまり《精神の迷い》は 《本能から起こる》とは ほんとうでしょうか?  本能ないしその感性は それを知覚したところで まだ理性的動物であることの要素が現われただけなのではないか?  つまりその知覚のあと むしろ精神が その本能のおもむくままに進め 進んでもよいと決断し よっしゃ進んでやろうと心に――心にさからってでも――決めたときに起こる《迷い》であり《あやまち》なのではないか? これをも問います。  人間のあやまちは 理性主導によるマ(間)の違いから概して生じるのではないか?  6. ゴータマ・ブッダの《成道》とは何だったのか?  ▲(同上) ~~~~~  涅槃を有余と無余との二種に区別する際の有余涅槃は、釈迦が三十五歳で成道して八十歳で入滅するまでの間の「さとり」の姿を言う。  無余涅槃は八十歳で入滅した後の「さとり」の姿とみるのである。  この場合の、「余」とは「身体」のこととみて、身体のある間の「さとり」、身体のなくなった「さとり」とわける。  ~~~~~~~~~~~  ☆ 有余涅槃は [4-1]の《生身のからだ》でいるときのニルワーナだと受け取られます。  6-1. だとしたら かの《成道》とは 決して最高・究極のさとりだとはとても考えられません。そのオシエは じっさい後世においては無論のこと生前においても 変わって行っていると思われるのですから。  たとえば少なくとも 《空》の概念は ナーガールジュナがあらためてその意味を確定するその前においては ゴータマブッダにしてもはっきりしていない。  (▲ ヰキぺ:空 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA_(%E4%BB%8F%E6%95%99)  6-2. 《無我(ないし非我。アナートマン)》にしても 最初ゴータマは《我執の否定》を言っていたと言われます。 《〈わたしの物〉という観念を離れること》。  その後やはりナーガールジュナによる《空》説において ゴータマの縁起説の復活というかたちで 内容が確定したとしても ゴータマの時代には けっきょく明らかではなかった。  つまり ゴータマ説は 解釈においてだけとしても 変化している。言いかえると ゴータマは人びとにはっきりと分かるようには説いていない。  これが 究極の成道であると言ってよいか?  7. あなたはニルワーナをこいねがうか?  単純に言って ニルワーナは《〔風が〕吹き 吹き消されること》を言うらしいのですが そんなマイナスの言葉をわざわざえらんで用いているのですから  ▼ (ヰキぺ:涅槃) 初期の仏教が、正統バラモンから他の新思想と共に虚無主義者(ナースティカ、nāstika)と呼ばれた  ☆ のは 不思議ではないようです。一面ではニヒルな内容を持つこのニルワーナを あなたはほんとうにこいねがい ひとつの理想としますか?  欲張っていろんな論点を盛り込みましたが どの点についてでも自由にご見解をお示しください。  お座なりの説明ではなく ご自身の納得の行っているその中身をお聞かせいただけるとありがたいと思います。