• 締切済み

ご助言……など頂けないでしょうか

以下、個人的なメモ書きから抜粋したものです。 歯に衣着せずに書いています。 身も蓋もありませんので、不快な思いをする恐れのある方は、読むのをお控えください。 --------------------------------------------- (前略) けど生活基盤を支えるのは精神だよね。 子供時代に受けたダメージが大きすぎるよ……。 @「足が無くても走れ。 @かつてお前の足を引きちぎった者に罪は無い。 @お前が走れないのはお前の罪だ。お前が悪い。 @手が無くても持て。眼が無くても見ろ。 @できないのはお前が悪い。できないなら死ね。」 と世間は私に言う。 心に刻まれた深い傷は、大きなハンディキャップになるにも関わらず ハンディキャップとして扱ってもらえない。 「怠けてる」ですってよ。僕が悪いんですってよ。責められるべきは僕なんですってよ。 僕はズルいんですってよ。嫌な笑いがこみ上げてくる。 一人くらい、僕の傍で僕の立場に立っていてくれる人、居ないもんですかね。 生まれてから今までかかわった人は、みんなみんな向こう岸の人だった。 家族も親戚も知人も誰も彼もみんな、僕から搾取する側の人か、 あるいは似たような立場の人(誰かを支える余裕などない人)だった。 ぼくは最初から支え無しで自分の足で立つことを強いられた。 そうして疲れ果てて立てなくなってしまった僕のそれは僕の責任なんだって。 僕が悪いんだってさ。僕の心を嬲り殺した奴らは無罪なんだってさ。 彼らに対し、家族や知人だなんて言葉すら使いたくないし、 思い出したくもないし、存在を認識したくもない。 月の裏側の砂埃か、あるいはもっともっと遥か遠い、 私とは無関係でちっぽけな何かであってほしい。 もしいま台所に居るゴキブリが彼らの生まれ変わりだと確信できたのなら、 あるいはそのゴキブリを殺すことで彼らも死んでくれるのなら、 僕は嬉々として、台所が滅茶苦茶になるまで彼らに攻撃をし続ける。 粉々になろうと跡形が無くなろうと関係ない。 なぜ敵に取り入りながら生きねばならないのか。 お互いに与え合うことと搾取し合うこととの違いのわからない人間なんかと付き合いたくないのに。 別々に生きたいのに。傍に近づけばまず僕から搾り取ってばかり。本当に鬱陶しい。 自分の足で立てないから頼ってるんだよ。 甘え? そうだよ。 僕は昔、誰にも甘えることができず、ずっと精神的に突き放されてきたから、 せめて今からでも誰かに甘えずには居られないんだよ。 僕はこのままじゃ“生きられない”んだよ。 何かの比喩ではなく、言葉そのままの意味で。 --------------------------------------------- その……すみません、このメモ書きでどれだけ伝わるでしょうか。 こんな胸の内の僕なのですが、何かお話をして頂ける方がいらっしゃいましたらお願いしたいです。 所持金も残りわずかで一刻も早く収入を得なければ食うにも困るような状況なのですが、働けません。 最近意を決し、半ばヤケクソで仕事の面接に赴きましたが二回連続で落とされました。 それで、あらためて心が燃え尽きました。 こんなに容易に燃え尽きてしまうようでは、 いっそ受からなくて幸せだったのかもしれません。 僕には何ができるのでしょうか。 これ以上に心豊かな人生を望むのは傲慢でしょうか。

みんなの回答

回答No.9

子どもの頃に愛されなかった孤独感はいくつになっても 変わらず残るでしょう。 他人は信用できないですね。 愛されたいですよね。 誰かに必要とされたいですよね。 誰かに支えてほしいですよね。 それは決してかなわないことではないです。 努力はいるでしょう。 それには愛されなかった自分を愛さなくては。 愛さなかった周囲と気持ちの上で決別しなくては。 搾取する人間から搾取できない人間にならなくては。 子どもの頃植えつけられた思考パターンはそんなに簡単に変えられないでしょう。 でも変えることは出来るんです。 今は暗闇の中にいます。 暗闇から抜けるにはやはり行動しかないんです。 貴方と同じような環境でした。 どうやって幸せになったかわかりません。 もがきました。 心もおれました。 人生つらいことばかりでした。 それも今は過去形。 もがいて行動していくうちに変わると信じるしかないです。 貴方が幸せを手にいれられますように。

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質問者

お礼

概ね同感です。 簡単には変えられないけれど、 自分でも気づかないくらいゆっくりにならば 動かせないこともない。 いつの間にか、立ちはだかる大岩の裏側にヒビが入っているかもしれない。 いつの間にか、トンネルを掘れるだけの筋肉がついているかもしれない。 いつの間にか、昔は不幸と感じていたことを不幸とは感じなくなっていて幸せだ、 ということに気付くかもしれない。 いつの間にか、以前は霧がかって漠然としていた景色が晴れており、 自我が芽生えたのだ、あのとき歩き出せなかった道を歩き出せるのだ、 と気付けるかもしれない。 時には質問文のように、ヘドロの間欠泉のようなものが 自分の内より噴き出してもがき苦しむ場面もあるけれど、 幸い、私の人生はそんなに激痛に満ちた時間ばかりじゃない。 間欠泉は苦しみを伴うと同時に、解毒作用をもたらしているような感じがする。 などなど、不幸な時間の中にも 光明を見出す元となる、何らかの隙はふと見つかる、かも。 隙をひとつひとつ、何度も何度も突いて、 蓄積したダメージがふとした瞬間に大岩を砕く、かもしれない。 ありがとうございました。 お互い幸せだといいです。

回答No.8

no2です すみません。 →人に対して頑張りましょうと勧めたり、 自らに対して頑張ろうなどとお思いになったりするのでしょうか。 この議題に焦点を当てて書いていたので →努力が報われるかどうか と 努力して幸福になれるかどうか ↑この2つのことが一緒になっていしまっていましたね。 私は『努力して報われる確率』が1000分の1と言いたかったのです。 努力して幸福になる確率は質問者様の言うとおりもっと高い確率だと思います。 努力が報われなくても自分の中で『十分やった』と思うことができたら、それも1つの幸福ですしね。 混乱させてしまいすみませんでした。 あと『光』についてですが 私の解釈が違っていましたね。 質問者様も光の見えない中報われることを信じて頑張ってこられたんですね。 報われないのは本当にむなしいです。 →今のところ報われておらず、 時間の浪費が背中に重くのしかかるのみです。 こう思うのも致し方ないと思います。 信じるのに疲れて、自分の信じることができない自分に疲れてしまったという感じでしょうか。 でも月並みですが、その報われなかった頑張りも質問者様の幸福・いつか報われる努力につながっていると私は信じています。 私が信じてもどうしようもないのですが。 今の質問者様が無気力になってしまったのは、先に話した自分で自分の幸福を見出すこともできなくなり(環境も環境でしたし)、そのうち報われない努力をするのにも疲れてしまったのでしょう。 でも私とのやり取りの中で →考えも整理でき、活力を幾らか得られましたので こう思っていただけたのならよかったです。 面接うまく行くといいですね。

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質問者

お礼

お礼が遅くなりました。 この3週間余りは、例え突発的なできごとがあっても敢えて報告を控えて沈黙し、 その代わりに自身をできるだけ冷静に見つめ、 気持ちの整理を試みておりました。 (前置きの流用失礼いたします) 報われても、それでも場合によっては虚しいです。 報われて、相対的に人より優れた位置に立って、 そこで得られるものは「優越感」であり、 それは自分の幸せが他者に支配されている状態です。 他者からの承認に依存しており、自分で自分を承認する力が弱い状態です。 ある意味、波に流されるだけで自身の力で泳ぐことのできないクラゲも同然です。 赤信号をみんなが渡れば自分も渡り、まとめて車に轢かれてしまいかねません。 少し昔に、加藤諦三という人の本を何冊か読んでから 「優越感」と「自信」は注意深く区別するようになりました。 「○○さんよりも」とか「○○さんのように」という思考に 待ったをかけるようになりました。 その先に、私個人の幸せがあるとは思えないからです。 失敗(≒挫折、報われない、辛い)は幸せの基で、 後々役立てることができるものだと私も思います。 失敗を活かすだけの残り時間は必要ですので、 失敗してばかりではただの重りにもなりかねませんが。 学習性無力感のように、人生の色々な幸せを 大きく削がれかねないリスキーな例もあります。 自分の全てを信じられて、 且つ過去と現在と未来を「これはこれでよし」と思える、 そんな状態が幸福の完成形、でしょうか。 「自己実現」や「優越感」は嗜好品ってとこでしょうか。 さて、件の面接は落ちました。 けれどその後また数件の面接を受け、受かりました。 幸い、危惧していたほど自身の精神にとってキツい仕事内容ではなく、 ほどほどに楽しみつつ、なんとかやっていけてます。 おかげさまです。ありがとうございます。

回答No.7

強くハッキリ伝わるのは、貴方はとても、愛されたかった。愛して欲しかった。愛し返して、欲しかったのだと…。痛い、増悪対象者達との互いを必要とする、存在感と心の相違の違い…。憎しみと愛情は、表裏一体です。増悪が膨らむ程に、愛を欲するのも同等であり、飢餓も同様に、貴方を締め上げ、自らが増幅かけた闇の孤独に追い込まれ、身動きとられる事でしょう。愛情の欠乏は、月日がたっても拭えず、失望の杭を心に打ち付けて、貴方を硬直化させて、二極化の我が身を増悪が支配で満たして、貴方の伸びやかな柔らかさを奪い、無機質で覆い隠して、剥がすに剥がせなくさせる…。 増悪の白黒つけず、対象者達を突き放す勇気を持つことから、始めませんか?。捨てる、捨てられる、じゃなく、貴方から突き放すのです。意識には常に居座り続ける増悪対象者達ですが…。貴方自身を貴方が他者との交わりで、七転び八起きの模索しながら修正し、喜びを育むのです。歪みそうな、卑屈な顔で人生を覆わない様に、意識し貴方が少しでも素直に自分自身を受け入れる、許容する自我を研鑽し、他者を愛するのです。自然体で、自分の息する場所や開放する意識を挫ける中でも、何度でも模索し、歩くなかで貴方が気が付かぬうちに、微力でも、何かを得て、必ず丸みが携わっている事でしょう。押し付けがましくて申し訳ないですが、私の実践した事の一つです。雑草の中にも美があると…気が付き、逞しき生命力だと…。貴方の笑顔を培って欲しく思います。

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質問者

お礼

お礼が遅くなりました。 この3週間余りは、例え突発的なできごとがあっても敢えて報告を控えて沈黙し、 その代わりに自身をできるだけ冷静に見つめ、 気持ちの整理を試みておりました。 「捨てる」ではなく「突き放す」ですか……。むずかしいですね。 私には、この二者がどう違うのか理解いたしかねます。 ですが邪推をさせていただきますと、貴方の仰りたいこの二者の違いは 「投げやりかどうか」でしょうか。 そう判断した根拠は特に無く、直感でありますが。 誰もを愛せる大きな人間になることは素敵なことだと思います。 ですが自分に対して、そういった高みに達するを強いることなく(以前はとにかく強いる傾向にありました)、 今は今で、昔は昔で、先は先で、そのままよしとしたいと思っています。 少しずつではありますが、年月と独学やら思考やらを重ねるうちに 自分で自分の中の幼心の面倒を見られそうな余裕もでてきました。 学習性無力感は治る、とどこかで読みました。 その言葉も少しだけ、実感として信じられるようになりました。 これまでお聞かせ頂いた皆様のお話や 今まで読んだ本や、自身の実体験をみんな合わせると、 「自分の力でどうにかなることも多いのかな」と なんとなくそう感じます。 ありがとうございました。

回答No.6

no2です。 実は昨日投稿した後、『ここまで書く資格が私にあるのか』と自問自答し、少し投稿したことを後悔していました。 私も人間としてまだまだです。 昨日は上から目線での回答申し訳ありませんでした。 今日は反省を踏まえて、聞かれたことだけを応えようと思います。 →私がむやみに頑張らないのは、 余力があまりないのもそうですが、 「ほんとうにそっちなの?」という疑心も強いからです。 ↑この気持ちは私もよく持ちます。最初の回答に書いたように私も比較的質問者様に近い境遇の人間ですので。本当に確定しないと頑張れないのも似ています。 それでも →人に対して頑張りましょうと勧めたり、 自らに対して頑張ろうなどとお思いになったりするのでしょうか。 ↑こう思うのは、自分が頑張って、その頑張りが100%報われた経験があるからです。と言ってもたった1度きりですが。 なので 頑張ることの素敵さ、素晴らしさをご存じなのでしょうか。 ↑これにはYESと言えます。 よく『努力は報われる』と言いますが、私はこれはウソだと思います。 ウソと言うか、言葉が色々抜けていて 『努力していて、なおかつ運ももっていて、さらにそれに胡坐をかくことなく、問題や課題に真摯に向き合っている中の一部の人間は報われる』 こんな感じでしょうか? 努力しても報われないことの方が圧倒的に多いです。結果がついてこないのは努力が足りないと言われますが、違います。 100%努力をしてもその努力が報われる確率は1000分の1、いや、10000分の1、あるいはもっと低いかもしれません。 人生生きてきて努力しなければならない場面は色々あると思いますが、その努力100%が報われる可能性は限りなく低いと思っています。 努力のうちの何パーセントかは報われることはあると思います。 それでも努力しなければ、その1000分の1にめぐり合えません。 前回の回答で ちょっとも気を抜かず何年も何年も頑張り続ける必要があるのが、今の世の中だと思います。 ↑こう書いたのは、その1000分の1にめぐり合うためです。 努力してそれが全て報われるなら、質問者様も私も誰も苦しんだり悩んだり、自罰的になったりしません。 努力しても報われなかったり、それどころか真逆の結果になってしまう事の方が多いから質問者様や過去の私のような 『自分が幸せになるために必要がなければ一生頑張りませんし、人間的に成長するようにも努めません。』 このような考え方の人間がいるのではないでしょうか? 最初の回答に書いたように私は、自分に自信はありませんが 自分の好きなこと・趣味・自分の思うこと それだけは絶対になくさないように生きてきました。 これをなくしていたら、たぶん私は自らの意志でこの世と別れを告げていたでしょうね。 そして奇跡的になくさないように生きてきた物で、私は10000分の1に当たったことがあります。 当たった瞬間分かりました(悟ってと言ってもいいかもしれない) 今までの苦労はこの瞬間のためにあった。 今までの苦しみはこの喜びを味わうために不可欠だった。 全ての人生の出来事がこの結果ににつながっていた。 その瞬間私の『努力は報われました』。 その事柄に対する努力だけではありません。 今まで報われてこなかった努力も全て報われてしまいました。 このような体験から私は自分にも他人にも頑張ってと思いますし、友人知人には直接言います。 残念ながら、一度も努力が報われることなく人生が終わる可能性もあります。 というか、その可能性の方がはるかに高いです。 でも努力しない限り報われる瞬間は訪れません。 自分以外は大した努力もせずに報われていると、昔の私は思っていました。 でもしてたんです。最大限の努力を。みんな。私が意識的に見ないようにしていただけで。1000分の1をつかみ取るために。 自分の認識が甘かったとその時反省しました。 それ以来、自分の好きなもの以外でも私は努力ができるようになりました。 質問者様の →頑張ることが自分を幸福にするとわかれば(あるいはそこに希望を見出せば)頑張りますが、 残念ながら今の私の目には、その先に見える光がありません。 この文章ですが、『光が無ければ頑張れない』という事でよろしいでしょうか? そうだと仮定して書きますが、努力している方で光が見えている方はほとんどいないと思います。 こうすれば絶対自分が幸せになれる。と信じて努力していらっしゃる方もいるでしょうが、少なくとも私は光が無くても努力してきたので、光が無ければ頑張れないというのがちょっと理解に苦しみました。 あっ でも希望は見出していたかもしれません。 私の価値観ですが、『光が見えている幸福になるための努力』はなかなか見つけられませんが『希望のある努力』は自分の力で何個でも見出せます。 たとえば 私は現在結婚しているのですが、今の主人と結婚するためには努力をしました。 ダイエットや料理の練習をして自分の価値を高めようとしたことはもちろん、相手の趣味に興味を持ってみたり、一緒にやってみたり、いろいろ努力しました。 でも『この人と結婚したら絶対幸せになれる』という光が見えていたから努力した訳ではありません。 むしろ『本当にこの人でいいのだろうか?』と日々思い悩んでました。 それでも結婚に向けて努力したのは、相手を好きだったのは当たり前ですが『この人と結婚して幸せになれるかどうかは分からないが、最大限幸せになれるよう努力してみよう』という希望を自分の中には作り出していたからだと思います。 そうして今は家庭を築いて、わりと幸せに暮らしています。 未来は良くも悪くも『不確定』です。 角度を変えて、視点を変えて見てみると、どんな事柄においても希望は見出せると思うのですが、どうでしょうか? 自分で希望を作り出す行為さえ疲れ果ててできない、と言われてしまったらどうしようもないのですが。。。 私の話を読んでどちらを選ぶかは、質問者様次第です。 1000分の1なら頑張るだけ無駄と思うか、可能性が低くても0ではないなら頑張ってみようと思うか。 それは質問者様の自由です。

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質問者

お礼

努力が報われるかどうか と 努力して幸福になれるかどうか って別だと思うんです。 幸福になれる確率だけで言えば もっともっと現実的な確率かもしれませんね。 それからその確率もまったくコントロールできないわけではなく、 自分自身に委ねられている部分もそれなりに大きい気がします。 少し希望が見えてきました。 ですが仮に、幸福になれる確率が 1000分の1という超低確率だったとします。 1回のチャンス毎の確率とかではなく、 この先の人生が幸福である確率が1000分の1だとします。 その1000人に1人の幸せを自分が掴んだ場合でも 「誰かの貴重な幸せを自分が奪ってしまった!」 と罪悪感を抱く必要はないですよね。 パイの奪い合いとは違い、 幸せは自分の中で自分が生むものですから、 自分がいくら幸せになろうと 誰かの幸せを奪う格好になることはないでしょう。 それどころか幸せは、キャンドルサービスの炎の如く 連鎖的に幸せを生むことすらできるでしょう。 私が見えないと言った「光」は 誰かが敷いてくれるレールだとか、 確定した未来だとか、 そういう保障のことではないんです。 私達にわかりやすい言葉を使えば 要は「自信」のことではないかと思います。 頑張ることに対し、なんとなく意義を見出せる気持ちです。 自分で自分に背中を預けることのできる気持ちです。 頑張りさえすればどうにかなると信じ 光のない努力をいっぱいしてきました。 自分の中で言葉にならずとも 「どうせ上手くいかない。どうせ達成できない。どうせ報われない。  自分は努力するに値しない。努力の内容が醜い。その程度では努力と呼べない。」 などと、ずっと力強く思いながら努力を重ねてきました。 その末路が今です。 今のところ報われておらず、 時間の浪費が背中に重くのしかかるのみです。 光なんか無くてもいっぱい頑張れますよ確かに。 力が残っている内ならば。無力感を学習する以前ならば。 さて、無い無いと喚いてばかりでも、 恐らく自分のためによくありませんね。 おかげさまで考えも整理でき、活力を幾らか得られましたので 勝手ではありますが、また仕事の面接行ってきます。(昨日応募しました)

回答No.5

no2です 書き方が悪かったですね。私が言いたかったことは 『自分を信じている人でさえ失敗して自罰的になるので、自信のない人が失敗して自罰的になることはごく自然で当り前のこと』 という事です。 自罰的という事は回答者様が調べたとおり →失敗したときや思うようにならなかったときに、攻撃を自分に向け、みずからを責める傾向があるさま。 このとおりです。 自分を信じている人も失敗します。というか信じているからこそ失敗します。 自分を信じている人は『決断する力』を持っていると私は思っています。 自分を信じて自分で決めた事柄だからこそ、その決断が間違っていた時(失敗だった時)に、自分で自分を責めてしまう(どうしてあの時この決断をしてしまったのかとか)状態 つまり『自罰的』になってしまうのではないでしょうか? そこで自罰的にならない人間はあまりいないと思います。 逆に自罰的になれないなら、その方は自信のある人ではなくて、ただの傍若無人で無神経な人です。 自罰的にも個人差や程度の差はあると思いますが、自罰的にならない人生を送れる人はいないでしょう。 自信のない私は、1人で物事を決めるのが苦手です。たくさんの人に意見を求め一番正しい人と思った方の意見を『決断』としてしまう節があります。 これは 私の欠点だと認識しており今も直そうと努力中です。 自罰的という言葉の意味は『失敗した時』と書いてはいますが『自分の気持ちを大事にできず、自分のことを信じてやれないような状態の人が失敗した時』とは書いていませんよね? 自分の信じていないから自罰的になるのではないと私は思います。 自分を信じている人も、信じていない人も、失敗して自分を責める。 そうではないでしょうか? たぶん質問者様は、その自罰の程度が他人よりも大きいのでしょうね。 ここからは質問者様にとって厳しい意見になると思います。 初めの質問内容を読んだ時『この人は苦労してきたんだなぁ』と感じました。 ちょっと人より、傷つくストライクゾーンとでも言うのでしょうか、そうゆうものが広いがために他の人では傷つかないような事柄にも傷ついてしまう、そのような繊細な方なんだと思いました。 だから『一緒に頑張りましょう』と書きました。 今は…申し訳ありませんが一緒に頑張れません。 質問者様は『甘え切っている』と思います。 誰にか? 『苦労した過去を持つ自分自身に』 です。 ご苦労されてきたんだと思います。 どのような苦労かは想像できませんが、自分の足で立つのが苦痛なくらいには苦労無さってきたんだろうなと思います。 でもその過去に、悪い意味で縛られていませんか? 『こんなに不幸な人生だったんだから、誰か甘えさせてくれてもいいじゃないか!』 そう思っていませんか? 私は昔、思っていました。でもそんな時は誰も助けに来ません。甘えさせてもくれません。 本当です。 最初の質問に書きましたよね? →今からでも誰かに甘えずには居られない 残念ですが、今の質問者様を甘えさせる人間はいないと思います。 それはなぜか? 自分の不幸に酔ってる人間、甘えてる人間をそれ以上甘やかす必要はないからです。 っていうか今甘やかしたら、確実に人として堕落します。 今でさえ甘え切って堕落しようとしているのに(過去の苦労のせいで今働けなくてお金が無いなど)これ以上甘やかしてもいい方向へは行かないと思います。 他の方の回答に書きましたよね? →できないという思い込みによってできないのです。 思い込みであろうことをいくら理屈で理解していても、です。 また私への回答に →自分が勝手に自分を責めてしまい、消耗しきってしまう こうも書かれています。 これが本当なら、医学的治療が必要だと私は思います。自分で自分を制御できないという事は、大変なことです。 適切な方法で精神を正常な状態に戻す必要があるかと思います。 最後に、どんな人が甘えさせてあげたいと思える人間か? それは『少しでも努力してる・頑張っている人間』です。 何かに(何かは人それぞれですが)負けないように頑張っている人・打ち勝とうとしてる人は応援したくなりませんか? 逆に、不幸に甘えて『これだけ不幸だったんだから、僕は可哀そうな人間だ。だからお前は僕を助けるべきだ。』と言われても、嫌ですよね? 私は嫌です。正直『あなたの苦労など知ったこっちゃない』と思うと思います。 回答者様は私のお礼にこう書きました →自分の気持ちを大事にするということは 私も数年ほど前から実践して参りました。 ですがちょっとでも気を抜くと自罰的になってしまい…… すっかり疲弊してしまい、もうどうしたものかと。 厳しいことを言います。 たった数年ですよね? 個人的にはそれだけでもすごいとは私は思います。 けど、世間から見たら足りないんです。 まだまだ足りてないんです。 残念ながらそれが現実です。 ちょっとも気を抜かず何年も何年も頑張り続ける必要があるのが、今の世の中だと思います。 過去に苦労されてきたのは本当だと思います。 でも、今苦労しているのは質問者様自身が原因ではないでしょうか? 気分を害されてしまっていたらすみません。 でも質問者様は、今からでも立ち上がれると思います。

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質問者

お礼

現在の私は、 自分が誰かや何かに甘えることを、 自分に対し意図的に許可しておりますが、 相手が私に対し無償の愛をそそがねばならない、などと 強いているつもりはございません。 回答者様が「甘え」「堕落」と称されるような状態も あえて自分に許可しています。 それを許すことができなかったからこそ、 今の精神的枯渇があると思っておりますので。 私が甘えているように見えるのでしたら その許可の試みもちょっとは成功してるということかもしれません。 今の私は、自分の幸せが第一だと思っていますし 必要以上に誰かにもたれかかって、 その相手を疲弊させる(不幸にする)ようなつもりもありません。 ですがまったく他人に頼らないことは普通の人間には不可能であり そもそもそんなスーパーマン状態は目指しておらず、 他人に何かと世話はかけさせます。 ですが最低限、私から離れようとする人の歩みは 止めないようにしています。 “割とテキトーな幸福至上主義”とでも言いましょうか、 私は、自分が幸せになれないであろうことは わざわざ自ら行いません。 他人に甘えることが自らを不幸にするとわかれば、他人に甘えませんし、 他人の不幸を喜ぶことが自らを不幸にするとわかれば、それだけ他人の幸福を大事にしますし、 細かいことに考えを巡らすことが自らを不幸にするとわかれば、深く考えませんし、 雨の日に傘をさすことが自らを不幸にするとわかれば、傘をさしません。 頑張ることが自分を幸福にするとわかれば(あるいはそこに希望を見出せば)頑張りますが、 残念ながら今の私の目には、その先に見える光がありません。 適当に羅列してみましたが、この中にもケースバイケースあると思います。 私がむやみに頑張らないのは、 余力があまりないのもそうですが、 「ほんとうにそっちなの?」という疑心も強いからです。 回答者様は、何を以って、人に対して頑張りましょうと勧めたり、 自らに対して頑張ろうなどとお思いになったりするのでしょうか。 気になります。 場合によっては私にとっての大きな光明となり得ますので、 もしまだお付き合い頂けるのであれば、 もう少し突っ込んでお聞かせくださいませんか。 頑張ることの素敵さ、素晴らしさをご存じなのでしょうか。 私は、自分が幸せになるために必要がなければ 一生頑張りませんし、人間的に成長するようにも努めません。 時間やお金の消費が激しいものほど、その都度、必要性を考慮します。 それくらい慎重かつ素直に吟味しなければならない程度には、 切羽詰っているということでもあります。 色々書きましたが、結局のところ 今の私が頑張っているかどうかは 私を見る方ひとりひとりがそれぞれ決めることですので、 「甘え切っています」と言われても 「そうですか」としか返せません。 私の気分はどうぞ害してください。 要は、思っていることをストレートに言ってしまっては 私に対しての攻撃度合が強くなってしまう、というお気遣いですよね。 素直なお気持ちが聞けることで、 私も素直に考えることができてありがたいですし、 そもそも、私の気分を害したり和らげたりするのは 他人ではなく、いつでも私自身であると知りましたから。 ですので、たぶん貴女が私の気持ちを害することはできません。 もし貴女の言葉や振舞いをきっかけに私が気分を悪くしたとしても それは私の責任です。 近年の私が「していないこと」は 往々にして昔の私が「していたこと」です。 それをしていたことにより、自らが不幸になったと感じたことです。

回答No.4

NO2です。お礼拝見いたしました。 私は自分の存在にさえ自信はありません。 明確に言うならば、自分の持っている ・価値観 ・感性 ・思考回路 ・存在意義 全てにおいて自信がありません。 もっと言うと『プライド』もありません。土下座しろと言われたらあっさりするでしょうね。 そのくらい自分の存在を自分で軽視しています。 それでも、そんな私でさえもお金を稼ぎ、そのお金で食事をし、排泄をし、睡眠をとり、家を建てたり部屋を借りて、生活をしていかなければならないのです。生きている限りは。 回答者様は →ちょっとでも気を抜くと自罰的になってしまい…… すっかり疲弊してしまい、もうどうしたものかと。 こう書かれておりますが、ごめんなさい。それ、当たり前です。 『自分の気持ちを大事にする』、『自分のことを信じる』生き方をしていて自罰的にならない人なんかいません。 『本当にこれで良かったのか?』 『あのときの自分の判断や考えは間違ってはいなかったのか?』 普通に生きていたら、何度も悩み、立ち止り、自問自答し、時にはその気持ちが外に出て攻撃的になってしまう。 人間ってそういう生き物です。 質問者様の生い立ちは存じ上げませんが、たぶん人より強制がたくさんあった人生なのでしょうね。私はそうでした。少しでも回答を間違うと容赦なく怒られました。 質問者様もそういう人生だったからこそ少しでも間違ったり、人と違ったり、要因は様々でしょうが他人が気にも留めないようなことに対してさえも自罰的になってしまうのではないでしょうか。 あくまで予想なので、違っていたらごめんなさい。 私は自分の存在を軽視しているからこそ、他人をよく見てきたと思っています。 憧れとでも言うんですかね? こういう人になりたい!こんな人間になりたい! と思いいろんな人を観察してきました(なれませんでしたけど)。 そうやって観察していきついた結果は 『結局良くも悪くも自分は自分以外にはなれない』 ということです。 努力して近付くことはできても、100%その人と同じにはなれない。それは生きてきた人生が違いすぎるから。 自分というものを殺しきることができないんです、人間って生き物は。 だからどんな自分でも、向かい合って生きていくしかないんです。 嫌な自分にも、です。 質問者様は、周りの人間はみんな自分より幸せで、自分よりいい人生を歩んでいると思っていませんか? 私はそう思っていました。 『なんで自分だけ』 『なんでこんな運命なんだ』 『神様なんているもんか』 そう思ってずっと生きてきました。 でも、いたんです。神様は。 昔で言う『お天道様』ですね。 たった1度でしたけど、神様はきちんと私のことを見てくれていました。 それ以来、相変わらず自信は持てないままですが、少しは前を向いて生きていけるようになりました。 そして気づきました。 周りの人間が幸せそうに見えるのは、自分のダメなところを見せていないだけです。又は、見ている人が自分を貶めていて相対的に幸せそうに見えるだけです。 長々と書いてきましたが、質問者様もすぐには変われないと思います。 →やけくそになるなというのは、今の私にとって 熱湯を熱いと感じるな、という程度には無理な話です。 そう思うなら、今はやけくそでもいいと思います。 いつの日か神様が質問者様に目を向けてくれるまで、質問者様が変われる日まで今のままでもとりあえず生きてみてください。 死んでしまったら、元も子もありませんから。

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質問者

お礼

なるほど。 程度の差異こそ測れませんが 文章上においては私もあなたも“自信”に関して共通しているのですね。 >当たり前です。 >『自分の気持ちを大事にする』、『自分のことを信じる』生き方をしていて自罰的にならない人なんかいません。 この辺を読んでいて「ん?」となりました。 自分の気持ちを大事にできず、自分のことを信じてやれないような状態が 自罰的と呼ばれるものなのではないのでしょうか。 あべこべではありませんか? 自分の気持ちを大事にし、自分を信じるからこそ自罰的になる というのはちょっとよくわかりませんでした。 自分を大事にできないからこそ、であれば頷けるのですが。 私の全く存じ上げない考え方なので、 間違えて書いてしまったとかでなければ もう少し詳しくお聞かせ願えないでしょうか。 自罰的という言葉の使い方を間違えたかなと思ったので 辞書で引いてみましたところ “失敗したときや思うようにならなかったときに、攻撃を自分に向け、みずからを責める傾向があるさま。” とのことでした。 私が言いたかったのは 要は「自分が勝手に自分を責めてしまい、消耗しきってしまう」ということです。

回答No.3

あのー、ここまでわかっててなにがしりたいの?もうなんにも無いかわりに虚しさが残ったの?虚無は、どこに行ったの?まだ、自分のこころの中にあるの?

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質問者

お礼

虚無といった意味を持つ言葉は質問文中に用いてはおりませんが。 恐れ入りますが、何を仰りたいのかよくわかりませんでした。 それとも過去の私をご存知の方でしょうか? 私の過去の何らかの発言に対してのお言葉でしょうか? 私は貴方のお名前に見覚えがないのですが……。 >ここまでわかっててなにがしりたいの? この一文に対してのみならばお返しできますので、お答えいたします。 私は、わかっていません。 私の何を見て「わかってて」とお思いになったのか、私にはわかりません。 たとえ話になりますが、 1+1=2 という式をわたしが紙に書いたとします。 それを見てあなたが「わかってる!」とお思いになったとします。 けどわたしは、わかっていないんです。 2という答えに確信をもって書いているわけではなく、 そこに算数的にみて正しい結果が表れていたのは、たまたまなんです。 わたしは、1+1の答えが2であるという確信を持っていないので 別の機会には 1+1=3 と書いたり 1+1=4 と書いたり、 1-2=2 と書いたり 3+4=2 と書いたりするんです。

回答No.2

生き方の違いでしょうか? 私も質問者様と似たような感じで生きてきました。 一つ違う点は、私が昔からとてつもなくとろくて、見かねた親が全部やっていたことです。 その結果、私は自分では何もできない自信のない人間になってしまいました。 何をするにも自信が無いです。 そんな風に育てたのに、私の親は私が何もできない人間に成長したら 『なんでもっと考えないんだ!!なんで何もできないんだ!!』 と私を叱りました。 やる機会がなくて経験が無いのにできる訳ないんですけどね。 そんな私でも今は家庭を築いて幸せにやってます。 それができたのは 『周りの人や物全てが自分を裏切っても自分で自分を裏切らない』 この気持ちを持ち続けたからだと思います。 自分の好きなこと・趣味・自分の思うこと それだけは絶対になくさないように生きてきました。 好きな人には『好きと伝える』 好きなものは『胸を張ってこれが好きと言える』 これだけのことでも幸せに生きれます。 回答者様もちょっとした気持ちの変化で心豊かに生きられると思います。 ちょっと腹黒いかもしれませんが 心のハンディキャップ→これだけ生まれながらに苦労したんだから、晩年は最高にハッピーになるに違いない。 出会った人はみんな向こう岸の人→ただ相容れなかっただけ。まだ自分の岸の人に出会ってないだけ。これから最高の相性の人に出会える。 敵に取りいる→自分のために『利用する』 精神的に突き放された→家族の場合、将来面倒見なくていい理由ができた。ラッキー。嫌いな人の面倒なんて誰が見るか。 こんな風に考えてみてはどうでしょうか? 私もまだ同じ岸の人に出会ったとは感じてません。 旦那も本当の意味では同じ岸にいません。もちろん大好きですけどね。 いつか出会うと信じていても、信じるのに疲れて鬱になり、精神的に不安定になったこともあります。 それでも信じて待つしかないんです。 とりあえず最高の未来を待つためには生きていかなければならないので、やけくそじゃなく真面目に仕事を探しましょう。 見えないもののために頑張るのはものすごく大変ですが、私も頑張っています。 一緒に頑張りませんか?

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質問者

お礼

回答者様は、ご自身の能力等については自信がないものの、 ご自身の存在そのものには自信をお持ちなのでしょうか。 だとしたら、うらやましいなぁ。 確信半ばながら、自分の気持ちを大事にするということは 私も数年ほど前から実践して参りました。 ですがちょっとでも気を抜くと自罰的になってしまい…… すっかり疲弊してしまい、もうどうしたものかと。 やけくそになるなというのは、今の私にとって 熱湯を熱いと感じるな、という程度には無理な話です。 考え方参考にさせて頂きます。ありがとうございます。 よければ一緒に頑張って頂けますか。よろしくお願いします。

回答No.1

>>一人くらい、僕の傍で僕の立場に立っていてくれる人、居ないもんですかね。 いません。 他人は他人で自分の事に忙しいのです。 その他人もあなたの思う様な事を思っているのです。 お互いに、書かれている様な事を思って居る・・と言う事です。 >>半ばヤケクソで仕事の面接に赴きましたが二回連続で落とされました。 受かるまで・・何度でも。 それしかありません。 何故、やけくそになるのでしょう。 そのやけくそが面接者に伝わるから・・不採用なのだと思いますが。 >>僕には何ができるのでしょうか。 他人ができる事なら、あなたにも何でも出来ます。 少々出来具合に差はあるにしても。 >>これ以上に心豊かな人生を望むのは傲慢でしょうか。 幸せになるのは人間の権利です。 どうぞ、好きなだけ望んで下さい。 但し、望むだけでは希望は敵いません。 行動が必要です。

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質問者

お礼

>何故、やけくそになるのでしょう。 人に心を委ねられない環境で育ったなどの要因により、 「自分にはできない」という信念が染みついているからです。 自分ではどうやっても振り払えないのです。 何に取り組むにしても、どうしても退廃的な姿勢になってしまうのです。 客観的に見ればとても簡単なことでも、 できないという思い込みによってできないのです。 思い込みであろうことをいくら理屈で理解していても、です。 パブロフの犬です。 ちなみに、連続で落とされた仕事のうちの後者は 採用報告らしき電話がかかってきました。 でも怖くて出られなかったんですよ。 自分の中の何かが、自分で自分を不採用に持っていったんです。 >行動が必要です。 限界まで行動済みです。

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質問者

補足

お礼欄にて用いた“パブロフの犬”という例えですが、 “学習性無力感”と言った方がより適切ですので訂正させて頂きます。 こちらはパブロフ氏ではなく マーティン・セリグマン氏の行った実験です。

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