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「下根の至根」

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  • mmky
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回答No.5

「下根の至根」 ○お釈迦様は蓮の花に例えて説法することは多いのですね。蓮の花は泥水の中の根から芽がでて、茎になり水面を目指して伸び、水面にでた茎から葉になり花を咲かすわけですが、これを修行僧の努力と例えているわけです。 めでたく花を咲かせた根を修行僧がアラハンになると例えているのですね。 さて、「下根」とは泥水の底の蓮の根のことで、修行僧のことですね。「至根」とは「水面に至る根」という意味で、アラハンになれる修行僧であるという指摘ですね。 お釈迦様はチューダパンダカを一目見て、パンダカの過去現在未来を理解されたということです。 質問は「至根」の意味ですが、自分の名前さえ覚えられないパンダカが悟りに至る僧であることを見抜かれた本当のわけは、過去世をごらんになったからですね。過去世でパンダカは非常に優秀な人物だったのですね。優秀がゆえに多くの者を馬鹿にしたのです。その因果で自分の名前さえ覚えられない愚か者としての人生を選んだということを見抜かれたので、現在は「下根:愚か者」ではあるが三宝に帰依し修行を行えば必ず悟りに至る「至根:アラハンになれる者」であるとおっしゃられたのですね。まあ、人は見かけによらないという例えでもありますね。

gesui3
質問者

お礼

ようやく意味が分かりました。 蓮の根のように下根ではあるが、ついには水面に達する茎のように至る根であるという意味ですね。皆さんがおっしゃっていたのも、ようやく理解できました。私も愚鈍ですが、みなさまのご親切で理解に至りました。 どうもありがとうございました。

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