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支配を望む、それとも支配されるのを望みますか?

人は、支配を欲するのか、支配されることを欲するのか? 世の中の出来事を見ていると、 人は、意外に、他者に支配されることを望んでいるのではないか? と思えることが多々あります。 人は、他者を支配することを欲するのか、他者に支配されることを欲しているのか? 教えてください。 よろしくお願いします。 わたし、SMのSです、Mでも結構です。 わたしの考えるSM論でもOK。 ファッションなどの流行に敏感です、 ホニャララさんは、わたしの《神》です、 ニーチェは間違っている、 などなど、 この質問に関係することならば、どのような内容でも大歓迎です。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • koiprin
  • ベストアンサー率23% (72/306)
回答No.9

基本的には、人は「支配されたい」という欲求はなく、あるのは、「所属したい」「つながっていたい」という欲求だと言われています。 アメリカの心理学者のアブラハム・マズローは、人間の基本的欲求を低次から述べると、以下の通りであると述べています。 1.生理的欲求(Physiological needs) 2.安全の欲求(Safety needs) 3.所属と愛の欲求(Social needs / Love and belonging) 4.承認(尊重)の欲求(Esteem) 5.自己実現の欲求(Self-actualization) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%AE%9F%E7%8F%BE%E7%90%86%E8%AB%96 1と2は生物の本能的な欲求で、3番目から社会的欲求と言われます。 この「所属したい」「つながっていたい」という欲求の中で、このルールに従わないと仲間に入れないとか、この人の言うことを聞かないとつながっていられないという場合に、支配されているような状態になるわけです。 ただ、欲求の大きさが大きいほど、支配の幅が広がり、欲求が小さいほど、支配されない状態になると言えると思います。 4が「認められたい」という欲求で、高じて支配への欲求となります。 5は自己実現で、これは支配への欲求がさらに高じて、支配を使命と考えるようになる時の欲求といえます。

NemurinekoNya
質問者

お礼

なるほど、なるほど。 マズローを忘れておりました(ポリポリ)。 回答、ありがとうございました。

その他の回答 (8)

noname#194996
noname#194996
回答No.8

支配したい、上にいたい、これは勝たねば負ける、弱肉強食のひとつの基本パターンですから、進化論で十分説明できますね。上はアレキサンダー大王の遠征から下克上の戦国武将、下はちゃぶだい返しの夫唱婦随まで世にあふれた傾向で、支配欲は単純に説明できるでしょう。 問題は仰る被支配欲、実例の数から言えばこの方が圧倒的といえますが、説明は意外と難しい。まぞ歪むは極最近いわれはじめた”変態性欲”としての捉え方しかされないものですが、確かに実体はごくふつーの人間のありかたなのかもしれません。というより、S,Mに関する限りでも、人間の場合男性はS、女性はMとしての性格を遺伝的に付与されることで順当な種の保存が確立されたといっていいのかもしれません。このでんでいけばやはり男性がM気質をもつということは異常なのだといえるかもです。 さて、この思考を社会に敷衍した場合、弱肉強食で勝つものは数値的には1/2で、敗者は敗者として消え去るべきなのか?これでは社会は順々にトーナメントを勝ち進み、勝者ひとりだけが生き残るということになりますが、これでは人間社会は成り立ちません。ここで敗者も完全には消え去らず、負けても良しとする一種の精神規範が現われたのでしょう。もちろん絶対勝たねばならぬ、勝てなければ俺は死ぬ、という人間は希少ですが最後に勝ち残る人間の原資になる、あとはいはば負けてもよいという大勢の人間が大方は生き残り、一般大衆になって全体でヒエラルキーを形成して人間社会を作り上げてきた。つまり 大方の人間は支配されることを悪くは思っていない(欲しているとはいえなくも、まあ、そのほうが楽が出来るし、いーかもー)ということになったのではないでしょうか。 いーかげんな私見ですが、ご参考になればw。

NemurinekoNya
質問者

お礼

回答、ありがとうございます。 負け組の方が数は多いので、その内に、恨みから徒党を組んで、勝ち組打倒に走るかもしれませんね。

回答No.7

生命は、淘汰に対する反力として発生する。 ゆえに、生きる意志を発し、その充足を目的とする。 その意味では、他者であれ物であれ、意志を充たすために 従わせる事が喜びとなるはずである。 しかし、分業化&組織化による社会性の発達において、 そうした生命性も分業化され、情報を収集・分析し、計画し、 行動する過程を、異なる個体が分担するようになった。 それは蟻や蜂などの社会的昆虫でも同じで、中枢で支配し 生殖する個体と、外部で働き戦う個体に分化している。 人類は、生後の学習によって多様化し、分業化するので、 「支配されている」という優劣関係を意識してしまうが、 蟻や蜂は遺伝的に形や行動まで決められているので、 優劣もナニもなく1つの生命体を構成している事が明らか である(命まで投げ出しても全体を維持する)。 社会生命性の発達において、全体で1つの機能を果たす のであり、個体の優劣関係は実質的意味はなくなる。 中枢にいて計画し情報を発する者は、支配しているので はなく、情報処理能力に優れている“計画者”であって、 支配者ではない。 もちろん、特殊な能力であって代わりのない個体は優遇 されるが、それは社長であれ職人であれ同じである。 厚遇して守り、能力をより発揮させる事で、社会全体が 利を得るのだから。 人がそうではなく、出世を競って敗れたものが職人になり、 同じ会社員でも敗れたものが営業マンに残り、勝者が 管理職になるというのは、最初の社会性の発達において、 そうした自己の生命の社会的拡張を自覚化(助け合いと しての社会行動=愛による労働)させる労を省略し、自己 チューな意識のまま他律的に社会行動をとらせるために、 お金や出世といった“馬車馬の目の前のニンジン”で操る 方法をとったためである。 本来、助け合っている社会において、個人の意識としては、 競い合い奪い合う弱肉強食の擬似ジャングルと化している。 生命として根源的な目的(=自己存在の本質に根差した 最大の喜び)である生=その社会的展開としての労働を、 “お金をもらうためにイヤイヤ働く”ものにしてしまったのだ。 本来、社会全体の繁栄(最大限の助け合い)という同じ目的 の共有において、その成果も全ての人に共有され、実行者も 計画者のプランの実行を喜ぶべきところ、『出世競争に敗れ、 勝者に支配された結果、イヤイヤ働かされる』という正反対の モチベーションにより、苦痛(マイナス)から逃げる事による、 死人に等しい生に堕してしまっている。

NemurinekoNya
質問者

お礼

なんか、 psytexさんのために、この質問をしたような・・・。 ハチやアリの社会的、組織的な行動(?)も念頭において質問したのですが、 見透かされてしまった感が・・・(笑い)。 ☆生命として根源的な目的(=自己存在の本質に根差した 最大の喜び)である生=その社会的展開としての労働を、 “お金をもらうためにイヤイヤ働く”ものにしてしまったのだ。 ◇疎外化された《自己》とかいう奴ですね。 ☆『出世競争に敗れ、 勝者に支配された結果、イヤイヤ働かされる』という正反対の モチベーションにより、苦痛(マイナス)から逃げる事による、 死人に等しい生に堕してしまっている。 ◇勝者も、実は、死人に等しい生に堕している、ってことはないですか? 心の奥底にしまいこんでいる、疎外感、不安感などを忘れ去るために、 さらなる競争に我が身を置く、置かざるを得ない。。。 などと、この回答を読んで、ちょっぴり思いました。 回答、ありがとうございました。

回答No.6

 支配=自分の思いどうりにしたい。  これは誰もが持っている気持ちですね。  でも、大小があるようです。  大は、国家を自分の思いどうりにしたい。または、精神世界(宗教的に)を自分の思いどうりにしたい。  小は、家庭内に於いては主権を手にしていたい。それもかなわなければ、せめてペットでも飼って・・・・・、と。  質問文に「意外に」とありますが、支配されたい=自分の思いどうりにならなくてもいい、という気持ちは、依頼心という言葉に置き換えられるかと思いますが、そこには「なにかしたい事が無い」のだと思います。  「意外に」とは人は思いどうりにならなくてもいい、と云う人がいる。そしてそのような“小”が多いのでは、との問いかけになっていますね。  当たっていると思います。

NemurinekoNya
質問者

お礼

こんにちは。 ☆「意外に」とは人は思いどうりにならなくてもいい、と云う人がいる。そしてそのような“小”が多いのでは、との問いかけになっていますね。 ◇飼っているインコにすら、鋭いクチバシで血が滲むほど思い切り、指の背や手の甲を《ガブリ》されております。 インコの気紛れに翻弄されております(笑い)。 インコさまの意に沿うように、懸命に仕えておるつもりでおるのですが・・・。 回答、ありがとうございました。

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.5

俺は支配されることも、支配することも欲さない。 というのは答えになるかな? せやけど、支配されることが楽チンということはあると思うよ。怠惰な生き方やけど。

NemurinekoNya
質問者

お礼

こんにちは。 ☆俺は支配されることも、支配することも欲さない。 というのは答えになるかな? ◇はい、立派な回答だと思います。 わたしも、支配すること、支配されることを望みません。 ☆せやけど、支配されることが楽チンということはあると思うよ。怠惰な生き方やけど。 ◇同感です。 回答、ありがとうございました。

noname#195146
noname#195146
回答No.4

>Sがご主人様なのか、Mがご主人様なのか、  その組み合わせなら双方が合意の場合になりますが、それならば表面上の役割はSが主人であり、Mは従う者になります。ただ、どのような主人であるかといえば、従う者の要求に最大限応えるような主人です。  自己の利益の最大化だけを求めないことはもちろん、場合によっては、自己の利益を度外視して、従う者の利益を最大化します。主人役が極めて不快という、極端な場合もあり得ないわけではありません。従う者を演じているパートナーの言うがままに、主人役を務めることもあり得ます。 >支配⇔被支配を考えるのに、いい問題だと思うのですが・・・。  おそらくそうではありません。支配-被支配の形式を借りた遊び、あるいは劇、コントです。あるいは、性に関する本能、快楽を中心としているため、支配-被支配そのものを志向してはいないとも言えます。 P.S.  動物実験では大脳新皮質の機能を抑制すると、生殖行動が鈍化することが知られています。これはオスに顕著に現われ、多くの動物では複数のオスが競争、闘争してメスを獲得することと照らし合わせると、オスの性行動には思考が深くかかわることをうかがわせます。対して、メスの新皮質を機能抑制しても、それほど性行動の変化に見られません。多分に本能的であることを暗示しています。  ヒトで同じようになるかどうかは、そのような人体実験は不可能であるため、はっきり肯定的に言えるわけではありませんが、ストレートでない性行動が女性より男性に現れやすいことと、無関係ではなさそうです。サディスト-マゾヒストのパートナー関係も、男性が主導的なようでも、その実は女性に気に入られようとする行動である場合が多い可能性もあります。  これに対して、男性がサディストとして、女性の意思を無視するような性犯罪行為を行うのは、同じような性行動に見えても、その実は反社会的な人格を起因とする行動であると考えられます。サディスト-マゾヒスト関係が円満に成立している場合とは、峻別して考えるべきなのかもしれません。

NemurinekoNya
質問者

お礼

回答、ありがとうございます。 ☆その組み合わせなら双方が合意の場合になりますが、それならば表面上の役割はSが主人であり、Mは従う者になります。 ◇だと思います。 一種のロールプレイングなのでしょう。 と同時に、相手を自己の快楽追求の道具、手段としているのでしょう。 もし、これが統治機構にも当てはまるのだとしたら、 ヒトラーと当時のドイツ国民の関係はどうなるのか? などと考えてもいます。 ヒトラーやナチスを生贄として差しだすことによって、自己の犯罪性から目を背けているのでは・・・ な~んてね。

回答No.3

 こんばんは。  《主と奴》あるいは《王と臣下》の話と同じなのではないのですか?  つまり どっちもどっちという答えですけれど。  どちらか一方がその《支配‐被支配の関係》から抜け出しても もうその時点で 関係は成り立たなくなる。  熟しませんが。

NemurinekoNya
質問者

お礼

こんにちは。 ☆《主と奴》あるいは《王と臣下》の話と同じなのではないのですか? ◇はい。 と同時に、 相依性、相待性のみならず、知らず知らずのうちに、  《主》が《従》に、  《従》が《主》に 変化している、ということもあるのだと思います。 支配しているつもりが、支配されていた。。。 で、 《支配⇔被支配》とは何なのであろう。。。 回答、ありがとうございました。

noname#195146
noname#195146
回答No.2

>これでファッションの流行などを説明できるのか。。。  それは先の回答中に書いたつもりでしたが、伝わらなくて申し訳ありません。それに言及したのは以下です。 >快と感じることを、特に必要がなくても行います。遊びにも取り入れます。 >ヒトラーと当時のドイツ国民  それは、支配-被支配よりはヒトが持つ模倣の習性のほうが大きいかと思います。もちろん、その二つに限定してしまえるものではありません。 >あれこれ余計なことをいちいち考えずにすむので、奴隷になることを、人は、心の奥底で望んでいるのではないか。  自分ではできない場合、他人に託します。その際、協力することも、当然ながらあります。  例えば、日本も採用している議会制民主主義も、多数が少数に権限を託しています。それについて、国民の大多数が奴隷となることを望んでそうしているかどうか、にわかには結論できません。  なお、快を求めて、不必要なのに支配を受ける、支配することこともあることは、先述した通りです。それは当然ながらいろいろな場面であり、性行為に持ち込まれることすらあるのは、衆知の通りです。 P.S.  極端な場合は、反社会的な人格として治療の対象になることもあるほど、こうした社会性に基づく性向に反する個人もいます。ある程度であれば、職業によっては優れた資質となることも、一部については知られており、そうした傾向を持つ個人も社会維持にとっては不可欠であるように思われます。

NemurinekoNya
質問者

お礼

再回答、ありがとうございます。 ☆それは先の回答中に書いたつもりでしたが、伝わらなくて申し訳ありません。それに言及したのは以下です。 ◇いえ、意地悪く、すこし重箱突きをしただけです。 この点について、どのようなお考えを持っていらっしゃるのか、正確に知りたかったもので。。。 ☆ なお、快を求めて、不必要なのに支配を受ける、支配することこともあることは、先述した通りです。それは当然ながらいろいろな場面であり、性行為に持ち込まれることすらあるのは、衆知の通りです。 ◇誰か、SMについての回答を寄せてくれませんかね~。 Sがご主人様なのか、Mがご主人様なのか、 支配⇔被支配を考えるのに、いい問題だと思うのですが・・・。

noname#195146
noname#195146
回答No.1

 必要が無ければどちらも望みません。複数が協力して何かを行うとき、仮に権限を委譲するだけです。  ただ、大なり小なり社会が成立し、かつその社会に充分な力がないとき、権限を委譲された権力者は近親に権限を委譲する傾向が生まれます。最も起こりやすいのは歴史を振り返っても分かるように、権力者の兄弟姉妹や子になります。  指導者に足る資質を与えるには教育が不可欠ですが、社会のリソースが不足であれば全メンバーを教育することができず、自分の身の回りで間近に見ており、協力や代行で経験的に教育を受けた者に権限を委譲せざるを得なくなるからです。  権限の委譲がスムーズに行われないと、社会不安や騒乱が生じる為、それが習慣、つまり世襲などになってきます。適切な者に権限が委譲されれば社会がうまく運営され、不適切な者が権力を握れば、やはり歴史が示す通りです。  こうしたことは、人間が社会を形成して生き残る本能を持つためと思われます。おおむね、秩序は生存に有利で快、混乱は生存に不利で不快となります。本来は不快である懲罰、はなはだしきは死ですが、自己の行為や存在が社会にとって害であると認識すると、むしろ進んで懲罰受ける傾向も出てきます。罰を加える方も快となることがしばしばです。  人間は知能が発達したためか、快と感じることを、特に必要がなくても行います。遊びにも取り入れます。そのため、必要もないのに支配-被支配の構造を作ったり、理由や必要のない懲罰も行われます。よくある罰ゲームなども、それに該当するものが含まれるでしょう。  そうしたことがある一方、自分の判断で最適・最善を判断して行うことも、やはり本能的な行為です。社会の構成員全員の教育・訓練レベルが高く、かつあまり個々のメンバーで量的な差異がない場合、リーダーのいない秩序状態が生まれることもしばしばあります。支配を嫌い、対等・平等を求めるのも、やはり自然な傾向です。  経済学の個人のモデル化では、自己の利益を最大化するという仮定が置かれることがあり、それがうまく機能して現実を説明できることがある反面、種々の心理実験では、自分に期待できる利益よりも、他のメンバーの利益を増す行動が頻繁に見られます。特に同じメンバーで実験を繰り返すと、そうした傾向が強まります。  支配、被支配、自律、利益最大化、相互扶助等々といった、互いに相反する面もある要素を、矛盾がそれぞれのメリットを妨げないよう、うまくバランスさせているのがヒトという種族であるようです。

NemurinekoNya
質問者

お礼

回答、ありがとうございます。 回答で書いていらっしゃる内容は理解できるのですけれども、 これでファッションの流行などを説明できるのか。。。 ファッションという感性的な部分ですら、 人は容易にその価値判断基準を他者に委ね、それに隷属する人も多いようです。 ヒトラーと当時のドイツ国民などなど、 実は、大多数の人は他者に支配されることを望んでいるのではないか? と思わせる事例は多数あります。 あれこれ余計なことをいちいち考えずにすむので、 奴隷になることを、 人は、心の奥底で望んでいるのではないか。 意外に奴隷の状態は心地よいものなのかもしれない、などとちょっと思ったりしています。

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    何の罪も無い人が、悲惨な事件や事故に巻き込まれる不条理はあとを絶ちません。世の中には数多くの宗教があります。そして、その数だけ神が存在します。人間を遥かに超越した力を持っている神が、地球上には数多く存在しているのに、なぜ、悲しい出来事が無くならないのですか? 「人生の苦労は、神から与えられた試練だ。」 「不運な目に遭う人は、神を信じていないからだ。」 「実は神には、そんなに大した能力はない。」 上記以外で、出来るだけ短文でお答え下さい。

  • ニーチェの「永遠回帰」とは?

    ニーチェはスイスの保養地、シルスマーリアの近郊の山々を散策している時、突然、人類と地上を遥か超える3000フィート!と叫んで「永遠回帰の思想」を懐胎した、と、「悦ばしき知識」の中で言っています。 「永遠回帰の思想」はニーチェにとって、キリスト教の「福音」に代わる、新しい「福音」でした。 どういう意味で、それが「福音」なのかといえば、古代ギリシャ以来の哲学と形而上学に代わって、自分の「力への意志」が、これからの哲学でなければならない、と言ったものでした。 ニーチェは言っています、存在に対して生成の優位を唱えること、それが「力への意志」であると。 存在に対して生成の優位を唱えることは、アリストテレスの目的論と、キリスト教の終末論に対して、古代ギリシャの円環的な時間の考えを対抗させること。 直線的な時間の考えに対して、円環的な時間の考えを対抗させること。 時間が直線的と言ったのは、キリスト教とその終末論です。 最後の審判に向かって、時間は直線的に進行する、という。 アリストテレスの目的論も、有機体をモデルに、歴史には、その目的がある、という。 ニーチェは、このアリストテレスとキリスト教の「目的論」を否定するために「永遠回帰」の思想を唱えました。 すでに、ニーチェの前のショーペンハウワーは、世界の根源は「生きんとする意志」で、「生きんとする意志」は目的を持たない、盲目である、と言っていました。 だから人間が救われるためには、この「生きんとする意志」を否定しなければならない、と言っていました。 ニーチェはショーペンハウワーの思想を受け継ぎましたが、ショーペンハウワーとは違い、逆に意志を肯定すべきだと言いました。 それはこれまでの、最高価値であったキリスト教の価値観、人類は終末に向かって、最後の審判で人々が天国に迎えられるために、人生は意味のあるものでなければならないと言ったことへの否定でもありました。 ニーチェはそのようなキリスト教の価値観を「ニヒリズム」と言って、断罪します。 それは存在を優位に考える思想であり、それは「ニヒリズム」である、と。 (この場合「ニヒリズム」とは日本で「虚無主義」と訳しているのとは逆の「存在主義」という意味で) ニーチェはキリスト教のみならず、古代ギリシャ以来の哲学と形而上学は「ニヒリズム」であり、西洋の哲学の歴史は「ニヒリズムの歴史」であり、キリスト教は「ニヒリズムの宗教」と言って断罪します。 彼らは、存在だけを論じ、無を無視してきた、それが西洋の哲学の歴史であり、キリスト教なのだ、と。 この「存在を無視する」というのが「ニヒリズム」です。 事実、西欧世界に仏教の「無の思想」が知られたのは、19世紀の半ばでした。 それを知って西欧の人々はびっくりし、そして畏怖しました。 「なんと、東洋には無を唱える宗教がある!」というわけです。 ニーチェは「神は死んだ」と宣言しましたが、それは文字通り、神、すなわち超越的な存在がいなくなったということと同時に、西欧の哲学と形而上学の歴史が終わったことを宣言するものでした。 天に超越的な存在としての神があり、地上に私たちの世界がある、そして天の世界こそ、ホンモノの世界であり、地上の世界はニセモノの世界とキリスト教は言ってきましたが、その「二元論」、有と無の対立を否定し、生成の世界を対抗させなければならない、とニーチェは言います。 ニーチェの「同一物の永遠回帰」を、無が回帰する、無意味が繰り返す、と解釈する人がいますが、それは誤解です。 「存在に対して生成へ!」を唱えるものです。 直線的な時間に、円環的な時間を対置することです。 直線的な時間はキリスト教の終末論と、アリストテレスの目的論につながり、歴史の「進歩発展」につながりますが、ニーチェの円環的な時間は生成ですから、目的を持ちません。 そして「力への意志」は目的を持たず、その強化と増大を目的とします。 目的よりも「力へ!」です。 それこそが、ニーチェにとって、「永遠回帰」の思想が、新しい「福音」であるゆえんです。 どうですか?