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敵は本能寺に有り!

川原 文月(@bungetsu)の回答

回答No.1

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>これって本当に言ったんですか? 後世の創作の可能性が高いですが・・・。色々な書物によると・・・。 天正10年6月1日の夕、光秀は1万3000人の手勢を率いて丹波亀山城を出陣し京に向かった。 しかし、秀吉応援のために中国地方に出陣するのであれば、丹波亀山城から本能寺は全くの逆方向であり、1万3000もの軍勢を全く無駄に往復させるという、軍事上考えられない矛盾があるとの指摘がある。 明智光秀は重臣斉藤利三等に命じ本能寺にお泊りになられる御公儀様(信長)に中国遠征における閲兵を受けるためと称して老ノ坂を下り左の洛中に全軍を3手に分けて進軍をさせた。桂川手前でおよそ1万の軍勢を残し、斉藤利三勢およそ3000を渡河させ洛中に向けた。(当代記) 家臣たちは御公儀様(信長)の命令で徳川家康を討ち取ると思っていた。(本城惣右衛門覚書) 翌2日未明、桂川を渡ったところで「敵は本能寺にあり」と宣言したという(元禄年間の「明智軍記」にある「敵は四条本能寺・二条城にあり」が初出だが、同書は信憑性が低いとされている)。 江戸時代の頼山陽の「日本外史」では、亀山城出陣の際に「信長の閲兵を受けるのだ」として桂川渡河後に信長襲撃の意図を全軍に明らかにしたとあるが、実際には一部の重臣しか知らなかったとの見解が有力である。 なお大軍であるため信忠襲撃には別隊が京へ続くもう一つの山道「明智越え」を使ったと言う説もある。 またルイス・フロイスの『日本史』や、変に従軍した光秀配下の武士が江戸時代に書いたという「本城惣右衛門覚書」によれば、下級武士たちの間には徳川家康を討つものと流布されていたことが窺い知れる。 これらを総合して考えると、桂川を渡ってから、斎藤利三勢3000の兵に本能寺に向かうことを告げたと思われます。 一説には、斎藤利三だけには光秀から「信長を討つこと」を聞かされていたとも伝えられています。 光秀にしてみれば、信長は安心しきって100人位の手勢だけで本能寺に宿泊していることの情報を得ており、3000もあれば十分勝てる・・・と判断したと思われます。 少し長文になりますが、面白い「説」をご紹介します。 「信長を討ったのは光秀ではない!」 それも、天下のNHKが2007年に「検証した」といって放映されました。 (1)光秀の居城「亀山城」からは、城下を通り、老ノ坂の峠を越え、京都に入り、桂川を渡って本能寺へ着いた。 <1>このルートは、各種の史料等で、現在は「定説」となっている。 <2>しかし、このルートであると、亀山城から本能寺までは約20Kmとなる。 <3>光秀が亀山城を発進したのが、6月1日午後8:00。 <4>本能寺の変が起きたのは6月2日午前2:00。 <5>とすると、6時間で本能寺に到着しなければならない。 <6>当時の具足(鎧や兜)は、鉄砲に対する防御で、鉄板が多く使われており、約30Kgあった。 <7>城下は、ともかくとして、老ノ坂は、だらだらとした昇り坂で、馬であれば1頭ずつが縦に並んで通れるぐらい。人であれば、3~4人が横並びでも通れた。 <8>京都に入ってからは、「桂川」を馬上または徒歩で渡った。橋ははるか上流にはあるが、そこを通るとすると、時間はさらに延びる。従って、一番早く着くには桂川を馬上または徒歩で渡るしかなかった。 <9>ところが、公家の「山科言経(やましなともつね)」の書いた「言経卿記(ともつねきょうき)」によると、6月1日は「前日から雨」。 <10>当然、桂川は増水しており、馬上であっても徒歩であっても渡ることができない。はるか上流か下流の橋を「迂回」せざるを得ない。 と、なると、6時間で本能寺に着くまで、時速3~4Kmで進軍しなくてはならない。また、老ノ坂峠にしても、「ぬかるみ」だらけで、馬上の者は別として、雑兵などはとても早足で越えることはできない。 <11>従って、光秀は「本能寺の変」には間に合っていない。 (2)では、誰が信長を殺したのか。 <1>結論から先に言うと「イエズス会の宣教師たち」であった。 <2>イエズス会の宣教師、ルイス・フロイスの記した「日本史」によると、 「信長が厠(かわや)から出て、手と顔を清めていたところを背後から弓矢を放って背中に命中させた。(中略)。直後に、信長は小姓たちを呼び、鎌のような武器(薙刀)を振り回しながら応戦していた。しかし、鉄砲隊が放った弾が左肩に命中した。信長は直後に障子の戸を閉じて、火を放ち自害した」 と、あたかも「現場」を間近で見ていたかのような記述がされている。 <3>光秀軍が襲ったのであれば、何万もの兵がうごめく中、このような「詳細」を見ることはできなかったはず。 (3)では、なぜ、イエズス会だったのか。 <1>信長は、イエズス会の布教活動を許可し、自らも南蛮製のマントや帽子を着用していたから、イエズス会と仲は良かったはず。 <2>イエズス会の「怒り」をかったのは、やはり、ルイス・フロイスの記録によると、 「信長は、かくのごとく傲慢(ごうまん)になり、世界の創造主であるデウスのみに帰すべきものを奪わんため(中略)その霊魂は地獄に葬った」 と、ある。 <3>「かくのごとく傲慢」とは・・・。 信長の居城であった安土城跡(滋賀県安土町)に残る「廟(びょう)」のてっぺんに「盆山(ぼんさん)」と呼ばれる「岩」を乗せてあり、信長は、生前より、 「この石を神と思え、わしと思え」 と、いかにも天皇をも越えて、自分ただ一人が「神」である、と、命令していた、と、言われ、これがイエズス会にとっては、神はデウスであって、信長ではない、との反感をかった。 (4)本能寺の発掘調査が物語るもの。 <1>2007.3.3の「産経新聞」の掲載記事によると、本能寺は、北は六角通。東は西洞院通。南は蛸薬師通。西は油小路通。に囲まれた120m四方と言われていたが、信長が宿泊したと思われる場所は、北東の角にある40m四方の小さな建物で、寺と言うよりも「武家住宅」あるいは「小御殿風」であった。 <2>と、なると、信長をはじめ側近の者が「雑魚寝」をしても、せいぜい40人位。 <3>これまで、100人近い兵と共に宿泊をしていた。と言う考え方は、到底無理が生じる。 <3>従って、イエズス会の宣教師たちの少人数でも攻めることができた。 (5)イエズス会のバックボーン。 <1>イエズス会は、南蛮貿易で「火薬」の原料である「硝石」を貿易しており、十分な資力があった。 <2>従って、弓矢や鉄砲などの武器を調達することは、「たやすい」ことであった。 <3>また、イエズス会の「本山」である「南蛮寺」は、本能寺から、わずか、300mしか離れていない。 (6)では、なぜ、明智光秀が罪人なのか。 <1>光秀が到着した時には、すでに、イエズス会により信長は「暗殺」されていた。本能寺も焼け落ちていた。 <2>確かに、光秀は信長を殺そうと本能寺に向かった。 <3>これにより、光秀は「謀反の罪」を着せられた。 あなたは「信じますか?」「信じませんか?」・・・。

azuki-7
質問者

お礼

ありがとうございます 私は真犯人は秀吉&朝廷だと思っています

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