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宗教での地獄の違いとは
キリスト教と仏教での地獄とはどう違うのですか? 仏教での地獄は小さい頃に絵本とかで見た影響で、赤い炎に包まれた場所、というイメージを持っています。 キリスト教でも神様の救いを信じない者は地獄に行く、と言われていた気がします。 でも温かい光の中にある天国のイメージしかありません。 キリスト教でいう地獄とは何でしょうか。 仏教と同じ意味で使われているのですか? 誰か教えてください。 (どのカテゴリに分類したらいいかわからず、哲学に分類しました。間違っていたらすみません。)
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- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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★(No.4お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~ 回答者様の考えでは、地獄はないということですよね? 人間が何か罪を犯してしまった時、「こんな行いをしていては地獄へ堕ちてしまう」と思わせるもの。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そうですね。そうだと考えます。 おのれの心にさからって何かを――つまりわるいことを――やったというとき 《地獄》のことが頭をよぎったなら 元のわれに還る。その立ち帰りのきっかけになるように お話をつくったもの。だと考えます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ そして天国は、イコール復活ということ。 つまり死後の世界は全く存在していないということなのでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《死後》は分からないという意味です。言いかえると いまこうして話しているときの自分の意志で考えたりふるまったりすることのできる世界とは別だと思われます。よって いま生きているあいだに考えても どうにか成るものではない。それよりは いまの世界をよりよく生きること これが 大事だと考えます。 そのように《よりよく》というような思いや志があるとするなら それでも《死後》と言いますか《いま現在からのあとのこと》については 地獄と共に物語がつくられた天国については あたかもその《よき意志ないしよき心》が 復活するというようなこと。または いまのよき心が永くつづくというようなこと。これをひとは願うのではないでしょうか。 何か確乎とした証拠がなくても よきことの永くつづくことを願ってもよいのではないでしょうか。 地獄は 心ならずもその道から一たんはづれてしまったときに われに還り ふたたびそのよきことの道に立ち帰るきっかけとしてのお話であると。 どの宗教かを問わずに このような見方が 誰にとっても同じ基礎としての内容を成すものと考えています。どうでしょうか。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 的はづれの回答になりますが。 天国・浄土と地獄とは すべてタトエです。むろんいろんなイメージでも捉えられているように そのタトエは膨らませて或る種の物語にも成っています。 問題は 生きているあいだのことです。さらにしぼれば 現在という《おのれの生きる姿》――そしてこれは 動態――こそが そのつどの現在時において 大事です。いわゆる実存といったあり方・生き方になるかと考えます。 タトエとして言わば人類が持つに到ったいまの問題としては こう考えておけばよいかと思います。 天国とは 復活ということ または 不死の境地 という主題として捉えること。そしてむろん 上に述べたとおり 《現在時における実存》というあゆみに立っての問題です。 【Q:復活とは? 不死の境地とは?】 http://okwave.jp/qa/q8230457.html という質問を いまちょうど立てて やり取りをしています。 地獄とは わたしがおのれの意志を曲げて心にさからっておこなった行為に対して 自分から元のわれに立ち帰るときの反省材料のことです。そのきっかけを与えるイメージのことです。 たとえば いちばん分かりやすいのは 《底のない谷を真っ逆さまに落ちて行く自分という姿が脳裏をかすめること しかもそのとき意識をなくすことなく どこまでも落ちて行くというさま》です。 このような天国と地獄というタトエは それを死んだあとの話にすれば なお人びとにとって分かりやすいと昔は思われたのでしょう そのようなかたちが普及したようです。いまでは 屁の河童です。 なお宗教については そのオシエこそが 屁の河童です。問題は 《信じる》ことです。オシエは 《考える》ことでしかありません。つまり オシエを信じるのではありません。
- 馬鹿 禿(@baka-hage)
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どうも、俗のボーさんと呼ばれるものです。しばらくお付き合いください。 >>キリスト教と仏教での地獄とはどう違うのですか? 質問を読みまして、内容的には「他界観としての地獄」ということですかね??仏教の方だと心の中に浄土や地獄があるとかいう思想もありますので、今回は他界観ということでお話しさせていただきます。 まず、大きな違いは「最後の審判」という思想があるかないかです。キリスト教においては『新約聖書』の中のヨハネの黙示録が代表的な最後の審判の記述ですが、ユダヤ教時代からもどうやら考えられていたことのようです。 この最後の審判について超かいつまんで説明しますと、神が「エイッ」ととりあえず世界を滅ぼして、そのあとイエス・キリストとともにすべての人が復活、「あんた天国」「あんた地獄」っていう感じで審判が下されて、それぞれがそれぞれの行先に赴くってな感じです。 ですから仏教の場合は人が亡くなったら、すぐに、または日本なんかでは四十九日かけて、六道のどこかに行くわけですが、最後の審判の思想を持つ宗教の場合しばらく死んだままで世界がとりあえず終わってから、復活して、天国と地獄に振り分けられるようです。余談ですが、キリスト教圏では復活するための肉体が必要なので、基本的には土葬で埋葬されることになっているようです。 また、最後の審判以後地獄に落ちたものはずっと地獄にいるわけですから、いわば無期刑的な地獄です。対して仏教のおける地獄は期間が決まっているので、いわば有期刑です。仏教の場合、期間が終わればまた次の輪廻に生まれ変わります。ただ、人間の五十年が、仏教における天の一日で、天の五百年が等活地獄の一日で、それが五百年続くわけですから、人間の世界の時間軸に直せば、一番軽めの等活地獄でも1兆6653億1250万年ということになります。有期刑でも長すぎますね。 >>仏教での地獄は小さい頃に絵本とかで見た影響で、赤い炎に包まれた場所、というイメージを持っています。 仏教における地獄にも諸説ありますので、一概に炎に包まれているともいえません。たぶんこのイメージは仏教を代表する等活地獄~無間地獄までの八熱地獄のイメージだと思いますが、それに対をなす八寒地獄というものもあります。まぁ、成立年代からすれば八熱地獄の方が先にできて、八寒地獄が後と考えられているようです。細かく言えば、八熱地獄に付随する増地獄・副地獄、そういった地獄から離れたところに点々と存在する弧地獄なんてのもあると、『正法念処経』や『倶舎論』あたりにはまとめられているようです。 >>キリスト教でも神様の救いを信じない者は地獄に行く、と言われていた気がします。 >>でも温かい光の中にある天国のイメージしかありません。 仏教徒としてはそういうクーリンナイメージだけが定着しているのはうらやましいですね。 天国自体もまた難しい問題で、メソポタミア神話、ギリシャ神話、北欧神話等々の天界が複雑に絡み合ってできている思想です。 中でも日本人は「死んだら天国で天使になる」なんて考えをお持ちの方も多いようですが、人間は天使になることはできません。例外的に偽典「エクノ書」にはエクノがメタトロンという天使になったことをにおわせる記述がありますが、偽典の中の記述であり、なおかつあくまで例外です。天国に行っても人間は人間でしかありません。私もボーさんという立場上葬儀に出る機会がありますが、仏式なのに弔辞等々で「天国で私たちを見守ってください」という言葉が出てきたりしますが、キリスト教的な天国ということで考えれば、天国に行けるのは最後の審判の後なので天国から見守ることはできないはずです。どちらかというと、亡くなった人が見守ってくれるというのは仏教における浄土のイメージなんですけどね、キリスト教の天国のイメージにいつの間にかすり替わっていますね。 >>キリスト教でいう地獄とは何でしょうか。 >>仏教と同じ意味で使われているのですか? はなしを地獄に戻しますが、仏教における地獄の責任者である閻魔さんは仏教的な正しさをもって人を裁くわけで、地獄の住人であったとしても仏教的な立場におります。ですから、閻魔さんはお地蔵さんの化身などという思想も生まれます。しかし、キリスト教のおける地獄の責任者は基本的にはサタンという悪魔の王様で、神とは対立する立場におり、サタンは神の化身だなどという考え方はないわけです。仏教においては地獄さえも仏教が包括しうる空間ですが、キリスト教においては地獄はキリスト教で包括することができないということになるでしょう。 まぁ、つらつら書きましたが、なんかまとまってませんね。すいません。参考にしていただければ幸いです。急ごしらえのため誤字脱字乱文はご容赦ください。 合掌南無阿弥陀佛
お礼
ご回答ありがとうございます。 地獄は、仏教では一時的なもので、キリスト教では永遠のもの、ということですか? それってつまりは、やっぱり地獄は二つあるということになるような気がします。 話がズレるような気がしますが、色んな宗教がありますけど、その宗教全てが正しいということなのでしょうか?
- dropyork
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仏教のカラーを持った人なら、その彩の地獄に行きます。 キリスト教のカラーを持った人なら、その彩の地獄に行きます。 土着信仰のカラーを持った人なら、その彩の地獄に行きます。 気質に合ったその彩の地獄に行きます。 地獄に行く人は、その喜びを持って、至るのです。 天国に行く人は、その喜びを持って、至るのです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 地獄は亡くなるまでにその人が信仰していた宗教で違ってくる、ということでしょうか。 …ではこの世に地獄は、存在している宗教の数だけあるのですか?
イメージの一例としてご覧ください。 ヒエロニムス・ボスの「快楽の園」の右側。 http://www.salvastyle.com/menu_renaissance/bosch.html かつて天国にいた堕天使ルシファ(サタンと同一視する見解も)の 統治する冥界のことだそうですが、要は最終的にこの世で 虐げられている無辜の人々が死後救われてパラダイスに 行けるよ、という裁きの日に、天国行きのチケットがもらえなかった 宗教的悪人の受け皿として考え出されたようですね。 仏教や、土着宗教、アニミズムなどが純粋に自然という存在や その根っこにある不可思議な性質など、超越した存在への 畏敬の念が基礎にあるのに対して、キリスト教は「侵略」という 極めて人間臭いキーワードで読み解く方がすんなり腑に落ちる ことが多いように思います。 地獄と言う観念もまた、他の国を攻める言い訳として、自軍の 規律を引き締め、容赦なく敵を殲滅するように思想改造するために むしろ、洗脳目的として組み込まれた意図が透けて見えます。 要は、我に従わぬものは、悪として女子供老人に至るまで 悲惨極まりない死の恐怖と苦痛を与えよう、という恐怖政治の論理 そのものです。 恐らく、ですが、そこに描かれる様々な人体に加えられる残虐非道な 責苦の全ては、実際に人間に対して行われたことなのでしょう。 切る、裂く、突く、抉る、焼く、煮る。 子を親の前で、親を子の前で。 簡単に絶命させずに少しでも苦痛を長引かせる様々な拷問技法。 ありとあらゆる非道な振る舞いは、単なる想像ではないはずです。 何故なら、戦に明け暮れたヨーロッパでは、全て勝者は神の名の 元に為された正義だ、と教会で王様以下主要な幹部が神の許しを請う 儀式を行い、それら全てを「赦される」とした教皇達もまた、神の心から もっとも遠い者達の飽くなき権力闘争で就いた地位に他ならないからです。 全ての罪は、神様に赦しを乞えば赦される。 残虐行為の事後報告に対して請求した「赦し」は、やがて これから行う非道な行いに対する「許し」へと変容して行ったのでしょう。 地獄も天国も含めて、キリスト教は実に人間社会そのものです。 それは、哲学的な宗教と言うよりも、支配者のもっとも強力な、都合の良い 「正義」として機能する、途方もない暴力装置であるという側面を、どんな 綺麗ごとで隠しても、無くすことは出来ないでしょうね。 地獄は、この世界にあります。 あまねく、世界の隅々にまで、地獄は実在しています。 多分、仏教の地獄と共通している部分も多いのですが、 地獄とは、この世のノンフィクションダイジェストの一形態に 違いなかろうと、私は思うのです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 あの世にではなく、この世に地獄は存在しているということですか。 確かによく聞く拷問と、地獄で与えられるとされる刑は似ているような気がします。 うーん…哲学って難しいです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 回答者様の考えでは、地獄はないということですよね? 人間が何か罪を犯してしまった時、「こんな行いをしていては地獄へ堕ちてしまう」と思わせるもの。 そして天国は、イコール復活ということ。 つまり死後の世界は全く存在していないということなのでしょうか。