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クリスチャン又宗教に詳しい方

質問です。 全部をお答えして頂かなくても結構です。 一つでも良いのでご回答下さい。 (1)貴方がクリスチャンになったきっかけは? (2)キリストは全ての者の為に十字架に架けられたという事ですが  それを本当に信用しますか? (3)キリスト教と戦争は関わりがあるのですか? (4)クリスチャンは他宗教に対してどの様でしょうか?(寛大か?) (5)キリストという個人は本当に実在してクリスチャンはそれを全て  信じて(例えば神がこの世の全てを創造した等)いるのでしょうか? (6)神(キリスト)とは宇宙の意思と解釈してはいけないのでしょうか? (大日如来は宇宙の象徴?言う事を何となく聞いた事があるのですが、 であれば神というのは一つの繋がった者と考えて良いのか?) (7)神など全く信じていなかった人が(むしろその様な人を馬鹿にしていた)クリスチャンになる事はあるのでしょうか?体験者の声が聞けたら・・・。 (8)仏教で親鸞の浄土真宗は他力本願(信じる者は救われる)と言った  教義でキリスト教に似ているといった事を聞きましたが真意は? 聞きかじりの知識もありお恥ずかしいのですが、 少しでも御教授下さい。宜しくお願いします。

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noname#100196
noname#100196
回答No.1

私も聞きかじりの知識ばかりで申し訳ないのですが、もしも参考になれば、とてもうれしいです。 (3)キリスト教と戦争はかかわりがあるのですか? 「アメリカ」=「キリスト教」、「アメリカ」=「戦争」、よって「キリスト教」=「戦争」ではありません。 ただし、アメリカは政教分離の国(人気さえあればどのような宗教の団体が政権を握ってもよい、イギリスのように国教会がないということ)です。そのため、結果的にはアメリカが戦争をする限り、キリスト教徒の多いアメリカにおける決定は「キリスト教」=「戦争」のイメージができてしまうのは仕方がありません。 今回のイラク戦争も、開戦前夜に大統領はビリー・グラハム牧師をホワイトハウスへと招待しました。アメリカにおいては、宗教的な事柄を政治家が公に大切にすること(教)は取り締まられるべき(政)問題ではないのです(分離)。政教分離の不徹底な日本で首相が神主を首相官邸に呼んだら即刻解散総選挙です。 (4)クリスチャンは他宗教に対してどの様でしょうか?(寛大か?) 他宗教については、以下のとおりです。 「宗教、あるいは創造主に対する礼拝及びその様式は、武力や暴力によってではなく、ただ理性と信念によってのみ支持されえるものである。それ故、すべて人は良心の命ずるところに従って、自由に宗教を信仰する平等の権利を有する。お互いに、ほかに対してはキリスト教的忍耐、愛情および慈悲を果たすことは全ての人の義務である。」 (ヴァジニアの権利章典 1776年) キリスト者がさまざまな隣人と関わりあい対話をする際の出発点であり土台であるものは、イエスが第一のいましめと呼ばれた次の言葉です。「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ。自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」つまり、私たちが神を愛するということは、隣人を愛することに他ならないのです。 ICU名誉評議員 ハラム C. ショーラック氏 創立50周年記念聖日礼拝にて http://subsite.icu.ac.jp/prc/bird/bird-song/63.html 「全能の神は、人の心を、自由なものとして創りたもうた。」(ヴァジニア信教自由法 1786年)が故に我々には信仰の自由があるのです。そのほかのすべての人権も神がそのように創ったから、という前提のもとに存在します。ですので、寛大なのです。逆を言ってしまうと、そういった大前提であるキリスト教の神を攻撃する人々は人権という範疇からある意味で逸脱していることにもなります。 世界人権宣言 「事務局作成の章典概要、英国の提出した章典案、米国の提出した章典条項案、フランスの提出した宣言条項案を基礎に審議」 http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/udhr/1a_001.html 本文(和文) http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/udhr/1b_001.html 「人間が専制と圧迫とに対する最後の手段として反逆に訴える」ことを世界人権宣言は認めています。法を攻撃する「専制と圧迫」は人権の敵なのです。なので、圧政を敷いている国に対しての攻撃は回避すべきですけれども、一応、可です。人権のために戦争していいんですね。本来人権とはキリスト教との巧妙に隠された取引の上に成り立つものなのであって、それを受け入れない限りは人権を本当に理解したことにはならないのではないでしょうか。その上でキリスト者になるかどうかは「自由」ですけど。この神の上に成り立つ「自由」こそがキリスト教の寛大ということなのではないでしょうか。 未熟な私に答えられるのはこのくらいです。 ひろさちや氏の「なぜ人間には宗教が必要なのか」という本が質問者様の問いに有用であるように思われるので、併せて紹介させていただきます。

keukegen
質問者

お礼

詳しい回答ありがとうございます。 私はクリスチャンではありませんが (4)に対する回答に何かほっとしました。 ひろさちや氏の「なぜ人間には宗教が必要なのか」 目次を見ると私の疑問に対する答えが多く書いてある様 です。今度読んでみたいと思います。

その他の回答 (4)

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.5

信者じゃないですが、、、 2) これバビロニアの人々の罪を背負って死んで蘇るタンムズさんが元ネタですね。 ユダヤ教は動物に罪を肩代わりしてもらうという風習があり、バビロニアもそういう風習があった。 で、キリスト教は動物じゃなく、人間に肩代わりして罪をリセットした。 いわゆる人身御供ってやつです。 こえぇぇぇ~ 3) 直接は関係ないですが、間接的に関係があるんじゃないか と。 例えば、金銀財宝が取れるアフリカを植民地にすれば、自由に採掘できると考えた場合、まず 宣教師を派遣して、敵陣視察。 その後 軍隊を送り込む。 「でかしたぞ」と宣教師はランクアップ。 今では違うそうですが、イエズス会は、昔 バチカンの諜報・戦闘部隊だったようです。 戦闘にも秀でた頭脳明晰なエリート。いわゆる今のCIAみたいなもの。 日本にもやってきましたね。 で、日本は守りきれないとなり、鎖国に入ったという歴史がある。 軍隊で攻め込まれる前にからくも鎖国して、日本の国体を守ったわけです。 無傷じゃなく かなりダメージを与えられましたが。 4) なわけないです。 キリスト教は沢山の悪魔を生み出しましたが、生み出したというより、各地で神として崇拝されているのを、悪魔だと塗り替えて教えていったんです。 だからキリスト教が言う悪魔って、その土地を古代より守ってきた神様が正体。 これのどこが寛大でしょうか? 5)キリストってのは、救世主っていう意味だったと思います。 で、ユダヤ教には救世主って言葉は無い。 メシアをキリストってギリシャ語に翻訳したわけですが、メシアってのは、油を注がれた者って意味で、油を注がれた者ってのは、、、、、 えっとですね、聖別されたって意味ですが、インド方面では、聖別された者は、チンコに油を塗られていたんです。儀式で。 で、女神の地上の体現者と聖婚をする際に、選ばれたその人がチンコに油を塗られていたわけです。 ユダヤ教になると、チンコではなく頭になったんです。 で、これは聖職者限定だったのですが、ダビデは聖職者ではないが、種無しのパンを食べたことで、(この意味よくわかりませんが)メシアとなり、バト・シェバの夫を殺して奪い取って、2人の間に生まれた子供の1人がソロモン。 ダビデは例外的なメシア。 で、ユダヤ教ではイエスがメシアだと認めていません。 儀式をやっていないので、メシアとして聖別されていないし。 いや、マリアがとことこやってきて、あまたに油を塗った事件がある? 確かに。。。。 でもそれ、至聖所でやる儀式であって(恐らく神の婚礼の間で)、神殿でやっていたら祭司達は当然知っていたはずです。 そして祭司たちは、イエスがメシアとなったことを覚えているので、イエスはメシアじゃないと否定しなかったはず。 今もユダヤ教はイエスはメシアだとしていない。 だって事実 そういうことは無かったから神に誓ったものを誓っていないと嘘言うわけにもいかず、イエスはメシアじゃないと言っているのは、イエスが聖別の儀式を受けていないからじゃないか と。 ユダヤの隅々まで知り尽くしていたヨセフスがイエスのことをちらっと触れているとされるが、後世の加筆だそうで、ヨセフスは同時代のヤコブについては記録しているが、何故イエスを知らなかったのか? 謎ですね。 ですが、キリスト教信者になるとき、それら全てを現実に起こったことだと信じることを誓います と宣誓しないとなれないわけです。 信じたい程度なのか、どうかは 嘘発見器にかけないとわかりません。 そして信者である以上「疑っている」など死んでも言えない。 ですが、アメリカの信者の90%は天地創造の部分は作り話だと思っているそうです。 6) プラトンは全くの善をイデアとし、そのイデアを認識できる人に従うのをよしとした。 プラトンは、全くの義人の証明として、その人から一切の善を奪い取り(名誉だとか財産とか)、鞭を打ち磔刑に処し、槍で突いても、その人が最後まで義人であったら、その人は義人だったという義人の証明の理論を打ち立てた。 プラトンは宗教を作ろうとしたのではなく、ポリスのあり方、人民の統治の仕方を模索し、『国家』に書いたわけです。 この支配者の支配の仕方の思想がローマ皇帝に受け入れられ、利用されたわけです。 で、人々に「皇帝が」というより「神が」って言った方が効果があると知ったコンスタンティヌス1世は、キリスト教をうまく利用し、治世を図った。 で、キリスト教は、人々が図書館で本を読むことを禁じ、聖書だけ読みなさいと命令したので、人々は、それがイエスがいたとされるより何百年も前の、哲学者の思想だと知ることはできなかった。 現実に起こったことだと思ったわけです。 で、キリスト教はプラトン思想だ というのは前から言われています。 だけど、何故プラトン思想なのかわかりやすく説明する人がいないので、今もって、クリスチャンは、自分達の信じていたものが、架空の物語だとは知らないんです。 例え知ったとしても、もう後戻りできないところまで来ている。 絶対だと言い張り それが架空の物語であると知った時、勇気無きものは、当初通り言い張るしかない。 夢を見続けていたいわけです。 夢から冷めるのが怖いから。 夢の終わりは死じゃない。 現実の始まり。 7) パウロを思い浮かべますが、あれは一過性のもので、結局ナザレ派の思想を乗っ取って、自分の思想をイエスの教えだってしたわけでしょ? 信者の多くは福音書の方を読まずに、パウロの文章を熱心に読む。 パウロの文章を解説書として読むわけです。 8) 確かにキリスト教は、全てを神に託しなさいとしているが、実際問題託しているとは到底思えない。 聖書通りの人生を歩んだ人はいなかったと思いますが、福音書に近い思想をした人はいたんじゃないか と思います。 その人は足がなえた人を歩けるようにした。 この意味は、身体障害者を健常者にしたという意味じゃない。 口だけ達者で口で言うことをちっとも実践しない祭司を批判したのだと思います。 高台に登って偉そうに説教垂れるだけで、自分の足で弱者のもとに訪れ、助けるということをしない人を、足が萎えた人だと言っていたのではないか と。 マザー・テレサは、そういう教会の体制を批判し、教会の外に出るというと、教会は出てもいいが、一切助けないと言った。 つまり教会に自分が救われることばかり考え、立て篭もっている聖職者は足が萎えた人。 そういう人をイエスは批判していたわけです。 神に救いを求める多くの人に「神の意思次第です あなたの信仰心次第です」と言って手を貸さない聖職者。 誰も助けてくれない世界なら、それは自力でやって力尽きて餓死するしかない。 神がやってくれないからその人が餓死したのは神のせいだ とするのもありかもしれない。 でも、ラザロの一件を持ち出しているイエスはどうなるのか。 信仰心があったラザロが というより、助けが必要な人の存在を知りながら、無視した金持ちに対する批判ですよね。 教会に立て篭もる信者に対する批判でもあるわけです。 「神よ 助けてください」と祈っている信者に対する痛烈なイエスの批判でもあるわけです。 パウロ教は自力救済です。 イエス作家の思想は、自分が他人によって助けられる側ではなく、自分は他人を助け起こす側 という思想ですよね。 だから、パウロ教の思想とイエス作家の思想は違うんですね。 その事に気づかない信者は、パウロという偶像にひざまづいて祈る。 それが自らを蝕んでいる癌のようなものだとも知らずに。

keukegen
質問者

お礼

不勉強なので内容が消化出来ないところはお許し下さい。 (3)に対して、イエズス会は諜報・戦闘部隊と言う事は 初めて知りました。(実は有名な事なのかな) だから日本は鎖国したのですか。とすると過去のキリシタン 弾圧に少し同情的だった私の意見が覆る事になりそうです。 (4)はやはりキリスト教は他宗教を邪教扱いと言う事でしょうか。 (7)に対して >パウロ教の思想とイエス作家の思想は違うんですね。 ここは気になりました。パウロが自分の思想に変えたという事で しょうか。 長文の回答ありがとうございます。

keukegen
質問者

補足

皆様詳しいそして真摯な回答ありがとうございます。 キリスト教について自分なりに少し勉強してみよう という気持ちになりました。 本当にありがとうございます。

noname#61990
noname#61990
回答No.4

2)人類は遙か昔に神に抹殺されていたはずです。しかしキリストが神に「待った」を唱えた為に、今私たちは生かされています。それは現在のみならず、さらに今後起こる未来を、人類に知らせる為でもありました。これらはすべて聖書に書かれ、その予言はすべて的中しています。100の予言の99まで当てっていたら、人類に残された残り1つの預言も信じる価値はあります。 5)キリストが実在した証拠とされる物が数多く残されていますし、聖書は色々な場所で書かれ、関係ない人々が著者なのに内容は共通しています。 6)神はエネルギー体です。生物全ての活動力は神のエネルギーによります。 7)宇宙から地球を見た飛行士が「そこに神を見た」と牧師になった事例がありました。宇宙や地球、地上の生物、自然、人体など深く考えると、どうしても神にたどり着きます。知識のある人ならば理解できるはずです。 医学生が初めて人体解剖を行った時「これは必ず設計者が居る!」と感じたそうです。

keukegen
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 (2)対する回答で聖書に全て書かれその予言は全て的中している とありましたが、そうなのでしょうか。聖書は殆ど見たことがないので 分かりませんが、興味深く思いました。 (5)キリストは実在したという証拠があるのですね。 どの様な物でしょうか。 (6)神はエネルギー体という考えは何となく納得出来ます。 全て突き詰めて考えれば神の存在を感じる事が出来るのでしょうか。

  • Taka_Suby
  • ベストアンサー率38% (13/34)
回答No.3

(1)寂しさを癒すため・・・。彼らの笑顔は母親のように優しく、また同い年の友達のように明るかったです・・・。 (2)そうですね、「神の子羊」として生贄に・・・、ということですが、それは認めます。クリスチャンだけのためではないものと。 (3)かなりあるでしょう。よくわかりませんが、宗派論争や異宗教論争、いろいろありますけど、戦争を反対しているクリスチャンも多数いたはずです。(あくまで「はず」です。 (4)正直言います。「NO」です。異教を「邪教」にとるぐらいです。 (5)キリストはただの人間だった・・・、というオチがついてるのなら十分ありえます。天地創造云々に関しては微妙、三位一体であったとしても彼が・・・、ということは聖書を100回読んでも微妙に思えます。 (6)宇宙というのは間違っているかと。「人間という種族に対する意思」とお考えになられた方が適切かと思われます。 (7)かなりありますよ。肉親を失った悲しみを癒すために教会の人に訊いたところ、死んだその人はイエスを信じていなかったので残念ながら地獄に言ってしまったと言われ、怒り、反キリスト勢力に入った人間が、話を聞いていくうちにクリスチャンになって逆に伝道に命をかけるようになったという話は無限にあります。 (8)すべて基本は同じだと思います。「信仰」というものの基本を説く言葉が「信じる者は救われる」、要は「まずは信じろ」という訳です。 元クリスチャンかつ、神学校受験に失敗して今は無宗教のDJ志望になった私から言わせていただきますが、周囲で聞くキリスト教精神と実際クリスチャンになった際に学ぶキリスト教は大分違います。 テレビや学校の話などは「世の話」として暗黙の了解で話せないことになります。(もっとも、キリスト教に関わる話でしたらむしろ話すべきですが・・・) 「神なんかいない、俺は信じないぞー!!」と叫ぶ人が会社・学校でいた。という話はできても会社で何かあったとかそういうのは「世の話」となり話すことは基本できないとお考えください。 「世から乖離した場所」というのが教会、神様イエス様聖霊様を信じ、牧師の教えを聞き、コミュニケーションをとるかつクリスチャンにとって充実した日を送れるスタイルですね。

keukegen
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 (4)に対して 見解が違うのでしょうか。 しかしTaka_Subyさんはクリスチャンであった様なので事実でしょうか。 (6)の回答に対しては納得しました。。 「人間という種族に対する意思」という考えは良いですね。 (8)の回答に対しては全て基本は同じと言う意見に何か安心 する思いです。 元クリスチャンと言う事は現在はクリスチャンではないのでしょうか? 棄教したのでしょうか。 深く詮索する気はないですが気になりました。

  • nacam
  • ベストアンサー率36% (1238/3398)
回答No.2

1.私はキリスト教徒ではありません。 2.ひとによりけりです。 ただし、「全ての者」ところの解釈を変えれば、そう考える人は増えるでしょう。 3.基本的には関係ありませんが、政治に利用される事はよくありました。 神道が、日本の帝国主義に利用され、侵略戦争の道具とされたように。 4.基本的には寛大ですが、個人として寛大でない人もいます。 5.ひとそれぞれです。 日本人で神道の信者で、イザナギの命とイザナミの命が、矛をかき回して日本を創ったと信じている人もいるかもしれません。 それと同じレベルです。 6.いけません。 キリスト教において、神とキリストは別物です。 「神(キリスト)」という考え方自体が誤っています。 7.キリスト教を公認したコンスタンティヌス大帝は、当初ミトラ教の信者だったはずです。 正式にキリスト教徒となったのは死の直前ですが、ローマ帝国を統一した後は、実質的にキリスト教徒として動いています。 8.言った人に聞いてください。

keukegen
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 (5)に対する回答は「なるほど」と思いました。 (6)に対する回答はキリスト教において神=キリスト ではないのですか・・・。 私は今までキリスト教に興味がなく全く の無知ですから参考になりました。

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    キリスト教の方は、他宗教は一切信用しないのですか?聖書の中には、キリスト教は永遠に唯一絶対の存在である、偶像崇拝はいけない、というような内容が記されている箇所がありますが、キリスト教の方には、キリスト教以外の宗教を受け入れる、認めるということは難しいのでしょうか? 私の彼はアメリカ人でクリスチャンです。私のほうはもともと我が家が別の宗教をしており、小さい頃からその中で育ってきました。しかし、「神様はひとつ。全ての宗教の源はひとつ」という教えがあるので、私はキリスト教も仏教も全ては天地創造の唯一神からのものであると信じています。しかし、クリスチャンの彼には私のような考えが納得いかないようで、ちょっときついことを言われてしまいヘコんでしまいました。今はほとんどメールでのやりとりなのですが、その中で「クリスチャンにならないのなら一緒に歩いてはいけない」と。すごくショックでした。私は別の宗教をしているけれども、他の宗教から学ぶべきものもいっぱいあると思っています。そしてイエス様も信じているし、聖書だって読むし、教会にだって何度か行ったことがあります。しかし、彼は私が別のことをやっているというのに納得がいかないようです。仏教など他にもほんとの教えがいろいろあるだなんて信用ならないようです。私は私の教わっていること、思っていることを一生懸命に伝えましたが、まだ彼からの返事を待っている状態で、いったいどんな反応が返ってくるのかと、不安な気持ちでいっぱいです。クリスチャンの方から見れば、わたしみたいな考えかたは納得いかないもんなのですかね?

  • クリスチャンとの結婚

    こんにちは。 初めて投稿させて頂きます。 私は29歳の女性で、35歳のイギリス人男性とお付き合いしております。 出会って1年、恋人としてお付き合いをして約5ヶ月ほどです。 私はノンクリスチャン(典型的な日本人ですが実家に仏壇があり、仏教の文化を尊重します)、彼は2年ほど前にクリスチャンになったそうです。 彼は5年ほど前に生命に危険があるほどの病気にかかり、奇跡的に救われ、神様に第2の人生を与えてもらったと信じ、日々感謝しながらお祈りしているようです。 私個人的に、キリスト教への偏見はありません。 海外に住んでいた事もあり、西洋の文化、宗教に関して云々いうこともありませんし、何よりその信じ方、考え方を支えとして生きていく生き方をとても尊敬します。 でも特に自分の中で、イエスキリストを信じ、その考えだけを尊重し、生きていこうという思いはありません。自分は今迄何かお祝い事があると、神社やお寺に行って手を合わせてきましたし、身内のお葬式も全て仏式です。クリスチャンの価値観ですと、これが「まだ神様を受け入れていない」ということになるそうですが。 彼と結婚の話が出てきました。 それまで彼は「時期がくれば君にもクリスチャンになってほしい」と言われてきましたが、先日クリスチャンにならなくても、クリスチャンになるという努力をしない人とは結婚できない、と言われました。 同じ価値観、信仰、神様を持つことが彼にとって私という人間を受け入れることよりも大事なようです。 私がクリスチャンになるように前向きに考え、いつの日か、クリスチャンになることが出来れば、それが彼を幸せにするのであれば、そういう努力はしていこうと思っていました。 来年の2月に一緒に住み始めるとうことで話が動いていました。 キリスト教の考えでは、結婚する前に、性行為や同棲は認められないといいます。(ちなみに私たちは性行為はあります。。。。)しかし、彼は一緒に住むということが私を幸せにするのであれば、そこは彼も妥協してくれると言ってくれ、物件探しをしました。 新居も見つかり契約を交わした少し後に、やはりクリスチャンでない君、神様を受け入れていない君とは一緒に住めない、でも結婚はしたい。と言われました。 クリスチャンという考えを前向きに受け入れようとしていた矢先の出来事で、私のその努力は全く評価、認識されていないと思うととても悲しい気持ちになります。 私という人間や中身よりも、彼は私がクリスチャンである、ないということが基準で結婚を判断していると考えてしまいますが、私は間違っていますか? 私が少しでもクリスチャンの考えに対してももっとオープンになる(聖書を読むとか、教会に頻繁に顔を出すとか)まで、私とは一緒になれないと言います。 彼の事をとても愛しています。愛しているからこそ、彼の望むことはしてあげたいと思う。けれど、クリスチャンになる、ならないは、誰他の為ではなく、自分自身の為だと理解しています。 だから明日すぐなれるわけではないし、もしかしたら、5年も10年もかかってしまうかもしれない。 愛する人との結婚が、私が持ち備えていないものの有無で判断されている。自分自信を否定されているような気分さえしてしまいます。 どのような気持ちでこの問題に向かっていったらいいでしょうか。 彼に、私に足りないものはなんでしょうか。 よろしくお願い致します。

  • 自力聖道門と他力易行道とは 次元が違う。

     こうです。   信じる: 他力(絶対他力)   考える: 自力聖道門(時にラッキーな易行道)  その上でまづふたつの文章を見てください。  ▲ 〔親鸞:自然法爾(じねんほうに)章〕~~~~~~~    自然といふは    《自》はおのづからといふ。行者のはからひにあらず。    《然》といふは しからしむといふことばなり。    しからしむといふは行者のはからひにあらず     如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。        * 爾(に・じ):しかり。そうである。  ■ (道元:現成公案) ~~~~~~~~~~    自己を運びて万法を修証するを迷とす。    万法進みて自己を修証するは悟りなり。    ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち《如来》を持ち出すのは いわゆる――広く取ってください――有神論です。  道元の言う《万法(森羅万象 またそこに見られるという法則)》のさらにその背後になおアミターバ・ブッダと呼ぶ神を想定しているのが 親鸞であるのではないでしょうか。  つまり道元は いわゆる無神論です。  ところが その《無い神》をけっきょく 親鸞のアミターバ・タターガタ(阿弥陀如来)と同じ位置に立てていると帰結されるかのように 道元も《自然法爾》だと言っています。道元が 言っているのです。  つまり そう言っているも同然です。なぜなら 《自己が修証される》のは 《万法が向こうからすすんでやって来るゆえに》だと言っているからです。《おのづから》であり 《行者のはからひにあらず》と言い切っているからです。    つまり 一般に神とわれとの関係――これが《信仰》のはずですが――については 無神論の道元のほうも 決して《自力》ではなく《絶対他力》なのです。そう言ってよいでしょう。  自己の能力と努力は 経験的なことがらについては大いにまじめにおこなうのですが こと信仰にかんしては あちらからのおとづれを俟って成り立つと言っています。        親鸞・・・・・・・・・・・・道元  _______________________  信じる: 他力(絶対他力)  他力   :《はからひ無き》  考える: 自力         自力   :意志行為である。  こうでしょう。どうでしょうか?