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なまじ才能があると不幸になる
老子荘子を読んでいると「なまじ才能があると人に酷使されて不幸になる」というテーマが 繰り返し現れますが、これはなぜなのでしょうか? また現代日本の世情に照らし合わせて、みなさんこのテーマをどう思われますか?
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それを不幸と感じるのであれば、それは道から外れているからです。 どういうときに人が労苦を感じ、不幸となるか。 老荘思想では、一般社会で不幸とされることが多い、才能のあるなしや 人に使われること自体を、そもそも大したことではないと考えます。 老荘思想における不幸とはすなわち、道から外れることであって、 損得を理とし、損を不幸とする考え方とは基準点がそもそも違うのです。 では道とは何か。老荘思想を突き詰めると体系化しちゃいかんことになるので、 あくまで解釈のための入り口として、簡単な言葉にまとめると 「執着しない」ということが大前提になります。 執着しないとどうなるか。幸福の定義が変更されるのです。 気を専らにしても赤子のように柔かである。 様々な事柄に明るく通じていて、その上で無知であることを目指す。 何かを成しても、それを自らのよるべとしない。 才能を隠し、無名であることを旨とする。 為して恃まず、賢を見さんと欲せず。 これらこそが無上のこととなり、 逆に、人の世で幸福とされるようなこと、地位や役割を得て、 あるいはひとつの楽しみに没頭するようなことは 人生を縛るものとなり、それこそが老荘思想における不幸となるのです。 もし、才能がある人間が酷使される(そしてそれを不幸と感じている)のだとしたら、 それは何故でしょうか。 それは地位(あるいは居場所)に執着しているためです。 不幸とは才能によってもたらされることではなく、 その位置に居続けることによっておきているのです。 現代風に言うと、本当に才能が少しでもあるのであれば、 ブラック企業はとっとと辞めて、転職なり起業なりすれば?ということですかねー。
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- cubetaro
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神の手を持つという脳外科のドクターが、60歳過ぎてもろくに寝ないで働いて、病院で仮眠を取り、ゴハンはカップラーメンでした。 生死をさまよっている患者が山のように待っていますから、休むワケにもいかず…という所でしょうか。 デザイナーとかでもそうですが、出来る人の所に仕事が集中しますので、断りきれないとオーバーワークになって自分が倒れてしまう…という所でしょうか。 それが幸せというヒトもあるので何とも言えませんが。。。
お礼
私が見たのは、ビル・ゲイツが机の下の寝袋で寝ながらコードを書いてるやつで (さすがに今はそんな生活してないでしょうが)、悲惨な生活してるんだなぁ・・・と感じました。 頑張るのはいいですが、身体壊したら元も子もないですよね
- lv4u
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例えば、努力と才能で「英語がとても上手くて、同時通訳もおまかせ!」っていう方がいたとして、その才能が注目されて、英語力を生かすような仕事をまかされたとします。 本人は嬉しいでしょうけど、それは「専門職」としてのポジションです。代わりとなる人材を得ることも可能。 いくら努力しても、それは専門家たちの世界での話であり、その努力によって、企業の中で、役員とか社長などにはなれない。 まあ、「(英語の)専門家」であったことで満足している人ならいいですけど、それ以上を狙っていた人が専門職で終わってしまうなら、その人にとっては「不幸」と感じるのではないでしょうか?老子や荘子はそういうことを言いたかったのではないかと思います。
お礼
専門職と総合職という視点は面白いと思いました。 回答ありがとうございます。
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お礼
回答ありがとうございます。 老荘の考え方がよくわかりました。この考えがのちに禅宗南宗と混じり合って、 日本にも伝わってきたのが感じられました。