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身近な歴史話を教えてください(伝説OK)
- 私の先祖は「織田家」の出入り商人でした。
- 私たちの家には古文書があり、NHKの取材も受けました。
- また、私は自動車学校で直系の木曾義仲の教官に出会いました。
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私も歴史大好きです。私の場合、日本史に限りますが。世界史はカタカナばかりで苦手なんです…。 私のご先祖様は、全国的にではありませんが、結構有名な学者(身分としては武士)だったそうです。まあ誰に仕えていたのか言ってしまうとどこかすぐわかるので言ってしまいますが、熊本県です。 実は、うちの祖父の家には先祖が加藤清正からもらったという湯呑みが代々伝わっていました。しかし、私は半信半疑でした。湯呑み?って感じじゃないですか。何故湯呑み?しかも、一介の武士が藩主から贈り物なんてされるだろうかと。しかも!祖父はその湯呑みを飲み屋で知り合った酒飲み友達のおばあちゃんにあげてしまったと言い、しかも酔っていたために誰にあげたのか定かではないと言うのです。本当に加藤清正からもらった物だったら、そんなことはしないだろうと、私は余計半信半疑になりました。 祖父の家には他にも沢山、古い物がありました。でも、どれも保存状態が最悪なんです。掛け軸は破れて変色した物ばかり、数だけは何枚も。千手観音像の腕は折れて接着剤で修理。陶器の人形の首は割れて乗せてあるだけ。その他諸々。元々はちゃんとした白塗りの蔵にしまってあったのですが、蔵も相当古い物で、何年か前の大型台風で倒壊してしまいました。そのため、どうにか運び出せた物も、どれも傷物になってしまったんです。蔵には甲冑一式(よく博物館にあるように、座った状態にしてある)などもあったらしいのですが、これはダメだったようです。 すみません、脱線してしまいました。加藤清正の湯呑みについては半信半疑だった私ですが、数年前、衝撃の出来事が。熊本の歴史を紹介したパンフレットを何となく眺めていると、見覚えのあるものが写真で掲載されていました。「……ん?これって、あのお墓だよね?」あのお墓というのは、小さい頃から数回お参りに行っていた、うちのご先祖様のお墓です。竹藪を進んだ先にあり、かなりアクセスが悪く、墓地は土葬のお墓しかありません。写真の下には、「学徳で知られた○○○○○(うちのご先祖様の名前)の墓」とあり、住所も記載されていました。ビックリです。子供ながらに、ちょっと不気味だなぁなんて思っていた土葬のお墓が、パンフレットに載っているのですから。 その後間もなく、代々檀家としてお世話になっているお寺(かなり歴史のあるお寺のようです)の住職さんとお会いする機会があり、以下のような話を聞きました。 パンフレットに載っていたお墓のご先祖様は、学業を極めたことで有名で、その息子や孫も武士であり学者だったこと。 加藤清正初め、熊本の藩主の家庭教師を代々していたこと。 だから、加藤清正からもらったという湯呑みは本当に本物だったこと。 これらはお寺の方で代々作成している資料にちゃんと記載されており、間違いないとのことでした。 「本物だったのか………もったいない~!!」って感じですよね。飲み友達にあげたなんて。しかも、もらった人は信じないと思うんですよ。酔っぱらいのおじいさんからもらった湯呑みが、加藤清正からもらった物なんて。普通に使って、下手したら「あら、洗ってたら割れちゃった」なんてことも十分有り得る訳です。 見てみたかった…湯呑み。 まあ、もうどうしようもないことですが。 私は歴史の中で戦国時代が一番好きで、戦国武将もかなり興味があります。好きな武将は、伊達政宗、大谷吉継、石田三成、直江兼続、立花宗茂です。ぶっちゃけ加藤清正は特別好きではないのですが(笑)、ご先祖様が家庭教師をしていたと知ってからは、勝手に親近感を抱いてます。
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- powapowa11
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補足です。 江村専斎先生ではありません。ご先祖様は儒学者だったようです。 本当に、湯呑みは残念です。湯呑みに限らず、セロテープで補修してある掛け軸といい、接着剤で修理してある千手観音像といい…。首が割れて乗せてあるだけの陶器の人形も、もしかしたら値打ちがある物かもしれないんです。というのも、数年前何でも鑑定団をテレビで見ていた時、瓜二つの物が登場して、200万円と鑑定されたんです。「首さえ折れていなければ~…しかもうちのは汚い…」ガクッとなりました(笑)。セロテープも、人形の首が割れたのも、全て祖父の仕業です(笑)。 戦国武将については、本当にみんな魅力的ですよね。伊達政宗は、あの才能と度胸が好きです。大谷吉継は、名将かつ義に生きたところ。石田三成は、インテリで人望がなかったと言われていますが、民からは慕われ、とても友人思いだったところ。直江兼続は、出世より義を選んだ生き方。立花宗茂は、その男前な行動。 加藤清正、けして嫌いではありませんよ(笑)。熊本城を見ると、「さすが清正」と思いますし、清正グッズを見かけると、「あら、うちの教え子のグッズがある(うちの教え子ではなく、ご先祖の教え子なんですけどね(笑))」なんて親近感を抱きます。 軍師ですか、いいですね~。知略に長けた格好いいイメージがあります。来年の大河ドラマは、黒田官兵衛ですね。私もとても楽しみにしています。 大分県に、黒田官兵衛が築城した中津城というお城があるのですが、本当に格好いいお城で惚れ惚れします。黒塗りの天守閣が、渋くて格好いい。 でもこの中津城、最後の城主だった奥平家の子孫が所有していたのですが、維持費が莫大らしく、3億円で売りに出されたんですよね。中津市は値切って値切って、奥平家は1億5000万円まで下げたのですが、中津市が1億3900万円しか出せないと言ったので、交渉決裂。結局奥平家がインターネットで買い主を募り、埼玉県にある(株)千雅という会社が買い取ったそうです。 中津市…値切って値切ってそこまで下げてくれたんだから、あと1100万円出せないのかと思いますが、税金ですからね。難しかったんでしょうね。 でも、今でも一般公開されてますから、安心です。大切に守っていってほしいものです。
お礼
>ご先祖様は儒学者だったようです。 ズバリ、どなたですか?とお聞きしたいところですが、地元の名士でいらっしゃるでしょうから、 (たとえ状態が悪くても)貴重な品目当てにドロボーが入るといけませんので、差し控えます。 割れた品は、腕のよい掛け接ぎ職人さんになんとかしてもらえないでしょうか? セロテープはあんまりですね(笑)ウチの破損品は紙類の水没(蔵の雨漏り)です。 水没屏風はタダ同然で骨董屋に引き取ってもらいましたが、掛け軸は補修したものもあります。 但し補修には結構お金がかかりますし、表装を変えると売り値が下がるそうです←値段の話ばっかり(笑) >石田三成は、インテリで人望がなかったと言われていますが、民からは慕われ、とても友人思いだったところ 文官なので、体育会系武者とは合わなかったでしょうが、経世の才があって民からは慕われたと思います。 私は、小西行長(商人出身)・安国寺恵瓊も大谷形部とともに好きな武将です。 >熊本城を見ると、「さすが清正」 藤堂高虎と並ぶ築城の名手ですもんね。伊賀上野城(藤堂高虎)の石垣は見応えがありますよ。 伊賀上野城は西からの攻撃(大阪の秀頼)に家康が備えたものですが、 大阪の陣で決着がついてしまったため、なんだか中途半端な感じで、築城が終わっています。 天守閣は再建ですが、近くに松尾芭蕉の生誕の地もあり、伊賀上野は一日楽しめます。 名古屋城の天守閣も再建ですが、石垣マニア(私)なら楽しいです。 名古屋城の石垣の石を切り出した日間賀島は蛸が美味しいです(観光案内になってしまいました)。 >大分県に、黒田官兵衛が築城した中津城というお城があるのですが 中津城の落札?の経緯はテレビのニュースで拝見しました。何事も懐事情が関係しますね。 愛知県にある国宝犬山城も、小規模ですが、とても美しいお城です(別名白帝城)。 織田広近がこの地に砦を築き、城郭にしたのが織田信康(信長の叔父さん)だそうですが、 10年くらい前までは、最期の城主の成瀬家が個人所有しておられました。 現在は財団法人に譲り渡されています。城の維持なんて想像するだに大変そうですね。 再度のご回答ありがとうございました。大好きな歴史談義ができてとても楽しかったです。
- reflector
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随分早い反応だな~と驚いています。 >その儀式とは、国王婦人と挑戦者の嫁が合図と共に階段状ピラミッドを駆け上り、最初に頂上に辿り着いた方の旦那が国王になる方法です。 これは公平性を保つ為に行われた儀式。地上高約250m。 「次の国王を選ぶための」と説明した方がいいでしょう。 ニニギの時に階段状ピラミッドを土砂で埋めましたので、国王選別する儀式が行えなかった為、これ以降に血縁者が国王(天皇)になりました。実話です。 通説しか知らない人達は、アマテラスの子孫がニニギと勘違いしています。 宮内庁らが消し炭にした竹内文書に記述されていたと思われます。
お礼
>通説しか知らない人達は、アマテラスの子孫がニニギと勘違いしています。 >宮内庁らが消し炭にした竹内文書に記述されていたと思われます。 私も不勉強で通説しか知らないタイプなので、 詳しいお話についていけず申し訳ありません。 再度のご回答ありがとうございました。
- reflector
- ベストアンサー率7% (37/491)
富士高天原王朝の実話。 次期国王候補が産まれ育つ聖域があります。 場所は、某県某市某神社の裏手にあるところです。 シンボルは、鶴と亀の遺跡です。現在崩落しており、見た目は違う形状になっています。 そこに出産間近の各族長夫妻が訪れ、子供を出産、ある年頃まで親子で過ごし、現地の人に預けて個々の部族へ帰ります。 ここで育った者が伴侶(国王になるのには嫁を選ぶ事から始まる)を選び、国王になる儀式を行います。 その儀式とは、国王婦人と挑戦者の嫁が合図と共に階段状ピラミッドを駆け上り、最初に頂上に辿り着いた方の旦那が国王になる方法です。 ----- ここまでは、普通の話です。 ----- しかし、大山祇神夫妻は、2回目の聖地への巡礼の途中に木花咲耶姫を群馬県藤岡市の富士浅間神社(当時は丘があるだけの森の中)で陣をはり、この地で女の子を産んでしまいました。 数年後、聖域に入り姉(石長姫命)らに託され、聖地を後に帰りました。 これ以降、木花咲耶姫は聖地で嫌われました。 姉(石長姫命)は、妹(木花咲耶姫)を守るため、自分を犠牲にさらさせ自作自演で暴れ、富士高天原王朝を離れてしまいました。 姉(石長姫命)を大室山ピラミッドの猿田彦へ預けました。 猿田彦は、推定年齢約60歳だたと記憶しています。 石長姫は、天仁仁杵身光天津日嗣天日天皇(ニニギ)と婚姻していたようです。 石長姫の眠る貴船神社に残された短歌には、ニニギへの思いが刻銘に詰っています。 1026年頃、和泉式部が都から貴船に訪れ、短歌を翻訳して京都で公開したのは云うまでにない。 貴船神社が石長姫の墓地です。 沢のほたる 和泉式部集 http://www005.upp.so-net.ne.jp/kirihime/utayomi/izumi_uta01.html なお、藤原不比等の元に、タイムマシンを強奪したコリアンが訪れ、日本史を改変しました。 藤原家の失態です。 そして、藤原家は機会を待ちながら、一族の者をタレントとして働かせ軍資金を稼ぎ、クーデターを起こそうとしています。 ニセ天皇家を排除するための行動・・・・。
お礼
古代史の世界ですね。ロマンがあります。 私は大学進学の際、奈良県の大学に進学して古代史を研究するのが夢でしたが、 諸事情で地元の大学に留まりました。今でも古代史の話は大好きです。 夢のあるお話をありがとうございました。 >その儀式とは、国王婦人と挑戦者の嫁が合図と共に階段状ピラミッドを駆け上り、最初に頂上に辿り着いた方の旦那が国王になる方法です。 これは何を目的に競ったんでしょう? 頂上に早く辿りついた方が、神に近いってことですかね? まさか単なる脚力勝負じゃないですよね(笑)
- あずき なな(@azuki-7)
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法螺という文章で思い出しましたが 私のご先祖は織田家の法螺吹きだったそうです(嘘付きという意味ではありませんよ) 桶狭間の戦いの時に出陣の法螺貝を吹いたのは我がご先祖様なのだとか ちなみにこの話はホラではありません
お礼
あはは。真の法螺吹きですね!法螺を鳴らすのって難しそうです。 桶狭間の前に、法螺がヘロヘロでは士気が上がりませんから、ご先祖様、お上手だったんでしょうね。 私は歴史好きなので、桶狭間にも時々出かけます。でも特に何もありませんね(笑) 尾張地方には織田家の重臣だった方のご子孫が、今も繁栄しておられますよね。 ○○家の子孫は名古屋市営地下鉄の延長に尽力した(自宅近くに駅がほしかったから)と聞いたことがあります。 実際、○○家一族のお住まいのあたりまで地下鉄は延長し、駅も近くにできました。 ○○家云々はデマかもしれませんが(笑) ご回答ありがとうございました。
- PENPENMAKKY
- ベストアンサー率17% (344/1984)
私の曽々祖父は坂本龍馬をよく知ってましたよ(捕縛命令出した人物の一人なんで) 松平容保、西郷隆盛とも交流があったようです 新選組もよく知ってたようです 現在の菩提寺は新選組(←ファンには申し訳無いが曽々祖父からすればただの手下です)が京都で最後に滞在した寺なんで… 顛末は、切腹の上で御家断絶でしたが…
お礼
今、大河で旬の人物のお名前が続々と出てきますね。ワクワクします。 >顛末は、切腹の上で御家断絶でしたが… あれれ。曽々祖父さまがですか?我家は商家なので、生死にかかわるような話はなく、 お気楽ですが、武家の方は、勝てば官軍ですが、敗者側になるとお辛いですね。 我家はどうやって勝者側に取り入ろうか、または先読みして誰が勝ちそうか見定めるのに 必死だったようです。そうやって細々と父の代の途中まで商売を続けてきましたが、 日本そのものが負けてしまった先の大戦後、しばらくして店を畳みました。 第八師団がなくなってしまったので。 父は若い頃に養子に選ばれただけあって、割と温和な気質でしたので、 商売をやめて(やめることで祖父と一悶着ありましたが)人に使われる側になっても、 問題なく順応できましたが、祖父あたりだと難しかったかもしれません。 私に至っては、そもそもが勤め人ですので、へいこらするのは得意です(笑) 曽々祖父の代(幕末)だと思いますが、旦那道楽で書画骨董を集めていました。 それで、幕末の志士の方の書などが少し残っています。無料で滞在し、お礼に一筆寄贈されたようです。 書は季節感がないので(私がちゃんと読めないのでわかっていないだけかもしれませんが)、 茶席で使いまわしがきいて重宝です(主旨を定めていない時点で亭主としてダメダメだと思います)。 また、田原藩と取引があったため、渡辺崋山の息子の小崋さんの書画もあります。 (小崋さんはお父上ほど書画は巧みではありません。親不孝者の私が、売り払おうとして、 価格鑑定に出しましたが、崋山さんと比べると極端に値が安かったので保存してあります)。 でも、一番数が多いのは頼山陽の書です。佃煮にするほどあります。 なぜかというと家の近くに頼山陽の愛人宅があり、頼山陽さんは足繁く通っていらしたからです。 頼山陽さんはあちこちでこの手の書を乱造しておられ、やはり鑑定価格は安いです(笑)
補足
補足です。 頼山陽さんは「学問好きの庶民にどうしても教えてくれって頼まれちゃってさ~」のノリで 我家にお越しになり、夜な夜な愛人宅へ出向かれていたようです。 実際は、頼山陽さんが曽々祖父にへいこらして「家族には黙っててね。愛人へのお土産も見繕って☆」と頼み、 お礼にお得意の漢詩を書きまくられたそうです。曽々祖父は「また漢詩か・・・」とうんざりしたかも(笑) 曽々祖父は日本画が趣味で自分でも描きましたので「絵画系の人に来てほしい」と思ったかもしれません。 祖父あたりまでは逗留された方から日本画を熱心に習っていましたが、父や私は全く興味がなく、 私の美術の成績はずっと3でした。字も下手くそです(父は養子修業をしたので字は上手かったです)。
- at9_am
- ベストアンサー率40% (1540/3760)
お気楽、というほどでもありませんが。 北海道には明治維新で敗北した側の人が結構多くいたりします。有名なのは伊達市で、伊達政宗の子孫である仙台伊達藩の人が移住して開拓した街です。片倉小十郎の子孫の方も住んでいますし、伊達時代村という観光名所も作りました。 他にも、台風で村が全壊して再興が大変→北海道に作り直そう、で作った新十津川村なんてものもあります。 北海道に渡った人の経緯を見ると、全般に割と悲惨ですね。 まぁ、一旗組も多かったわけですが。 少し関係ありませんが。 世界遺産になった知床に知床五湖という湖があります。当初、そのうちの二つで魚を養殖するつもりだったらしいですが、商売にならなくて辞めたのだそうです。 戦前くらいまではその二つにしかいなかったようですが、戦後しばらくして、五湖全てにこの魚が繁殖するようになりました。 地殻変動で湖の底で繋がったなどという説が流れていましたが、実際は「近所の子供が釣る→他の湖に放流」というのが真相でありました。 その放流をした犯人がいうのだから間違いありません、というのを10年位前に行った時のガイドが、ウソかマコトか言っていました。
お礼
>北海道には明治維新で敗北した側の人が結構多くいたりします。 伊達藩士の末裔がお住まいとは知りませんでした。片倉小十郎も伊達藩士ですよね。 私は維新敗残者=本州の北端とのイメージがありました。旧会津藩士→斗南藩みたいな。 >北海道に渡った人の経緯を見ると、全般に割と悲惨ですね。 >まぁ、一旗組も多かったわけですが。 私は一旗組が成功した土地との印象がありましたが、厳しい風土ですから、 悲惨な運命を辿った方も実際は数多いんでしょうね。 >その放流をした犯人がいうのだから間違いありません、というのを10年位前に行った時のガイドが、ウソかマコトか言っていました。 「大山鳴動して鼠一匹」的な感想を持ちましたが、この使い方合ってるでしょうか? なんだか笑える話ですね。 中部地方に住んでいると、自分の周辺のことばかりに興味が行きがちですが、 近代史に目を向けることも大事ですね。ご回答ありがとうございました。
- tomban
- ベストアンサー率26% (2616/9771)
質問を拝見して、少しびっくりしてしまいました。 私は群馬県の住人なのですが、こちらの「甘楽町」というところには「楽山園」という庭園があります。 http://www.town.kanra.gunma.jp/kyouiku/bunkazai/map/20120330191558.html 築園したのは、織田信長の次男である「織田信雄」です。 楽山園のある小幡には、先に徳川の縁戚である「奥平氏」が入りましたが、その後に織田家が藩主となりました。 群馬と織田信長は全然関係がないイメージもありますけど、実はこういった繋がりがあるのです。 「織田家七代の墓」というのも、近くにあります。 また、やはり「渋川市」には「木曽三社神社」という場所もあります。 http://guntabi.web.fc2.com/sibukawa/kiso.html 木曾義仲の家臣が勧請したもの、とのことです。 また、太田市には「世良田東照宮」があり、この地が「徳川の祖である」という説もあるそうです。 また、世良田東照宮と日光東照宮、久能山東照宮と「富士山」は一直線上に並んでいるのだそうですね。 これを「不死の道」(ふじのみち)と言うのだそうですが。 個人的にも愛知県出身の友人が二人おります。 私の父方の遠い祖先も、愛知の出身という説があります。 なんだか不思議ですね。
お礼
>群馬と織田信長は全然関係がないイメージもありますけど、実はこういった繋がりがあるのです。 >「織田家七代の墓」というのも、近くにあります。 全く知りませんでした! しかし天下統一を目指していたのですから、息子や主だった家臣を東海地方以外に派遣するのは、 当然ですよね。私ども東海地方の人間は「秀吉」はご当地の人物だと信じて疑いませんが、 (名古屋市中村区の生まれで、太閤通りの地名も残っています)、 大阪の方は大阪に縁の深い歴史上の人物との位置づけですね(大阪城があるので当然です)。 >木曾義仲の家臣が勧請したもの、とのことです。 そういう縁もあるのですね。不思議です。 ちなみに木曾先生の体型はずんぐりむっくり、ヘアスタイルは「落ち武者」風でした(笑) 大河ドラマとかだと義仲はかっこいい系の俳優さんが演じるので、少し夢破れてしまって・・・。 25年以上前の話です。木曾先生、許してくださいね。 >太田市には「世良田東照宮」があり、この地が「徳川の祖である」 三河の人と揉めそうですね(笑)私は奥平郷が徳川家の祖だと思っていました。 名古屋祭りで、信長・秀吉・家康は、毎年、セットで仮装パレードしますが、 尾張(信長・秀吉)と三河(家康)は、かなり気風が違い、方言も尾張訛と三河訛は、全く違います。 境川を挟んで、尾張と三河に分かれます。境川ってまんまですね(笑) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%83%E5%B7%9D_(%E5%A2%83%E5%B7%9D%E6%B0%B4%E7%B3%BB%E3%83%BB%E6%84%9B%E7%9F%A5%E7%9C%8C) 知らない歴史をたくさん教えていただき、ありがとうございました。
- PopoAmin
- ベストアンサー率50% (70/138)
これは全く有名人のお話ではありませんが、 私の曾祖母は黒船と異人さんを見たそうです。 それも開港場ではなく 瀬戸内海に浮かぶちっぽけな島です。 沖に黒船が錨をおろしたのを見て 女子供は皆、山へ逃げたのですが その曾祖母は怖いもの見たさに 台所のカマドの陰に隠れていたんだそうです。 そうしたら異人さんが曾祖母の家に入ってきて 曾祖母の祖父と何やら話をしていたというんです。 もしかして密輸だったのかな?
お礼
>曾祖母の祖父と何やら話をしていたというんです。 なんと、ご先祖様は外国語が話せた?!それとも異人さんが日本語を覚えたんでしょうか? 万一、密貿易ならどちらも頑張って、言いたいことは伝えたでしょうね。 瀬戸内海の小島に何が隠されていたんでしょうか。とても気になります。 我家は軍需商人でしたので(第二次世界大戦後、商売は畳みました)、 実は、もうちょっとどす黒い伝説もありますが、ここでは差し控えます(笑) >その曾祖母は怖いもの見たさに >台所のカマドの陰に隠れていたんだそうです。 昔からお転婆女子っていたんですねぇ。 すごくかわいい女の子の姿が浮かびます。 楽しいお話しをありがとうございました。
お礼
>「本物だったのか………もったいない~!!」 もったいない!実物があれば「お宝鑑定団in熊本」に出られますよ。スタジオに呼ばれるかもしれません。 もしかしてご先祖様は、江村専斎先生ですか?(それとも違う方でしょうか?) 江村先生なら医師なので、治療のお礼に拝領なさった可能性がありますね。 >どれも保存状態が最悪なんです。 ウチもそうです。空襲を恐れて疎開させたんですが、疎開先での保管が杜撰だったようです。 数年前、我が家のリフォーム代の足しに・・・と、先祖不幸者の私が、何点か処分しました。 商家だったので、借金のカタに受け取った「円山応挙」「谷文兆」などがあり、眉唾だと思いつつ 鑑定に出したところ、何点かは本物でした。でも保存状態が悪いだの何だのと買い叩かれました。 デフレで茶席の需要が減り、和室すらない家も多いので、掛け軸の買い手が少ないとか。 確かに我が家も茶会を開く機会は激減しました(もう盆正月と法要の時くらいです)。 掛け軸は、いっそ博物館に寄贈しようか迷いましたが、お金が欲しかったので売りました(笑) >好きな武将は、伊達政宗、大谷吉継、石田三成、直江兼続、立花宗茂です。ぶっちゃけ加藤清正は特別好きではないのですが(笑)、ご先祖様が家庭教師をしていたと知ってからは、勝手に親近感を抱いてます。 清正公は尾張出身の武将ですよ~。名古屋城には清正石もあります。愛してあげてください(笑) しかし、大谷吉継、石田三成がお好きだと、清正公はお好みでないのも頷けます。 私も大谷吉継ファンで、首塚に詣でたことがあります(関ヶ原の近くにあります)。 私は軍師系の武将が好きで、竹中半兵衛・黒田官兵衛に惹かれます。 後は、もうストレートに信長・秀吉・家康ファンです。大事な取引先ですから(笑) 信長公の将来性に掛けて、清洲から名古屋に移り住んだ(清洲越え)ご先祖様に言わせると、 秀吉・家康は「ぽっと出」だそうです(秀吉公にいたってはサル呼ばわりです)。 家康公が天下を取ってから、清洲に残っていた商人を名古屋に呼び寄せました(清洲越し)。 この時に移り住んだ商人は「後追い」だそうです。 祖父の代まではこんな感じでプライドが高く(商人なのに)、結構嫌な感じでした(笑) 父(治水権を持つ名主の三男)と母(名主の二女)はそんな家に夫婦養子に入り苦労したようです。 「士農工商だと名主(農民)の方が上!」とか言って、こっそり夫婦で憂さを晴らしていました。 農民も商人も、五十歩百歩だと思います(笑)つか、農民を持ち上げて一揆を封じただけですし。