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文同士の論理関係について

 皆さんこんばんわ。今日は文同士の論理関係について質問です。初めに次の文章を読んでください。    (1)とくに、注目したいのは「~のだ」「~のである」という表現です。(2)これは日本語において   多用される表現で、(3)この文末を持つ文は重要な情報である可能性が高いのです。(4)次の   文章(『 毎日新聞』二〇〇四年六月二七日朝刊社説)では、「~のだ」には二重傍線、書き手   の主張を示すそれ以外の文末表現には傍線を引きました。(5)その文に注目して読んでくださ   い。(石黒圭,2010,pp.90-91,各文の冒頭にある番号は私がつけました)  この文章では(3)は(1)の理由になっていると解釈できます。というのも、「~のだ」「のである」の表現に注目するのはなぜかという疑問をもって読み進めたとき、(3)がその質問の答えだと感じて(3)から(1)を推論すると、(1)に説得力が出てくるからです。ところが(3)には理由を示す表現は見当たりません。  このように、文章を読んでいると論理関係(追加や逆説、因果の関係など)を明示していない場面に出くわすことは珍しくありません。   さて、ここでみなさんに質問です。  1. 情報の正確な伝達を目的とする文章において、書き手はなぜ、わざわざ論理関係が曖昧に     なるリスクを犯すのでしょうか?(「そして」や「というのも~だから」という形式を省略するのは    なぜか?)  2. 1の質問に明確に答えている本を知っていますか?もしそうなら、教えてください。

みんなの回答

回答No.3

1)示されている(石黒圭,2010,pp.90-91)は、{「~のだ」「~のである」を文末に持つ文が重要な情報である可能性が高い}ということを書いているだけのようです。その文が重要な情報である可能性があることを検証しようとして書かれた文ではなさそうです。  2)筆者は、「~のだ」「~のである」を文末に持つ文に二重傍線、それ以外の文末表現の書き手の主張を示す文に傍線を引いて、その後に何かの主張や提案をしているのでしょう。提案すること、アドバイスをすることがネライであれば、「~のだ」「~のである」を文末に持つ文が重要な情報であることを立証するようなことは、余分なことです。 3)あるプロ選手のフォームを訓練生に示して、「君はここができてない。こういうフォームをとりなさい」とアドバイスするのを横で聞いていて、フォームのアドバイスが論理的でないというのは、かなり変わった意見です。多くの場合、(そのアドバイスの内容に、論理的妥当性の言及を含んでいない)のが普通です。中学、高校の数学の教授でも、こうやると問題が解ける、正解を出せるということはいっても、どうしてそれで良いのかというような言及がないのが普通です。 4)「わざわざ論理関係が曖昧になるリスクを犯す」というよりも、「相手に余計な負担を掛けて、理解を難しくさせない」ことがネライだと思います。 効果をより多くしたければ、余計なことをまじえないのが良いと私も思います。 5)「そして」や「というのも~だから」という形式を省略するのはなぜか? 「それ故」「ゆえに」「よって」「すなわち」「しかし」「それで」「その上」「なお」「一方」などの接続詞を多用されると、煩わしいと感じることは多いです。それが気になって、肝心な理解が阻害されることもあります。接続詞がいるかどうか、どのような場合に使うかは、簡単にはいえないと思います。 複雑なものでないなら、そうした接続詞は使わない方が良い文章だと、私は思います。 示された文で、「そして」「だから」などを入れるのは好ましいとは思いません。 http://w3e.kanazawa-it.ac.jp/math/category/sankakukansuu/kahouteiri/henkan-tex.cgi?target=/math/category/sankakukansuu/kahouteiri/kahouteiri-2.html 「接続詞を減らすか増やすかは文章の種類によって決まる。芸術文なら少なめに、実用文なら多めにすることを心がければいい」という人もいますが、実用文の典型であるビジネス文書やマニュアルなどでは、接続詞はできるだけ少ない方が良いと思います。 6)「そして」は、できるだけ使わないのが良いです。読みにくい文、品のない文になるだけです。 http://読書感想文.com/article/102111502.html http://bunsyou.net/kouza1/09syoryaku.html

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.2

 1. 情報の正確な伝達を目的とする文章において、書き手はなぜ、わざわざ論理関係が曖昧に     なるリスクを犯すのでしょうか?(「そして」や「というのも~だから」という形式を省略するのは    なぜか?) : リスクを犯しているわけではなく、論理関係が文中の言葉自体に含まれている場合がしばしばあるからだと思います。 ご質問の例の場合、「~のだ」「~のである」は、「なぜならば」という暗黙の前提があってはじめて成立可能な言葉(表現)です。 「のだ」に対しては、 [連語]《準体助詞「の」+断定の助動詞「だ」》 1 理由や根拠を強調した断定の意を表す。「赤信号を無視して走るから事故を起こす―だ」 という辞書説明がなされています。 http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E3%81%AE%E3%81%A0&dtype=0&dname=0na&stype=1&pagenum=1&index=14437500 この辞書例文は、ご質問の例に対応させると、 「運転者が特に注目したいのは赤の信号です。これは走行中によく見かける信号で、この信号を無視した走行は事故につながる確率が高いのです」 といった表現になるでしょう。 (後刻明らかにされる理由や根拠から導かれる)なんらかの結論・結果が最初に示されていてこそ、はじめて「~のだ」という表現が可能になるのであって、それが示されないまま、いきなり「~のだ」と言われると違和感を覚えるはずです。 「ここは南極です。外は非常に寒いのだ!」は自然な表現です。 しかし、「外は非常に寒いのだ!」と最初に言われると違和感を覚えると思います。一方、「外は寒いです」から始めるのは問題ないでしょう。 このように「のだ」という言葉自体に【(因果関係の)理由や根拠を前提にした断定】という意味が含まれていますから、特に「というのも~だから」といった表現形式に頼らなくとも、十分に当初の目的を表現できる、ということになるのだろう、と思います。 この例に限らず、たとえばたった一文字の助詞であっても、多様な意味・ニュアンスを含んでいる場合は多いと思われます。  2. 1の質問に明確に答えている本を知っていますか?もしそうなら、教えてください。 : これは存知あげませんので、他の方のご回答に譲りたいと思います。 あくまで個人的感覚で回答させていただきました。     

  • bgm38489
  • ベストアンサー率29% (633/2168)
回答No.1

文体によるのではないでしょうか。謎解きなどで、理由などを強調したい場合は、それなりの表現を用いますが、この文章の場合、文体としては、私はこう思いますよ、に毛の生えたぐらいのものです。そんなに強調しないで、曖昧にぼかしながら、実は言いたいことをしっかりと通す、それが日本語のテクニックです。 理由を表す表現が見当たらないけれど、理由となっていると解釈できたのでしょ?それで充分です。英語でも、必ず論理関係を表す表現が必要とは限りません。 リスクを犯すというより、なくてもよいもの、無駄なものは省くといったほうがいいでしょう。

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