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元寇についての新たな真実とは?
- ウィキペディアを見て、学校で習った内容とは異なる情報に戸惑いを感じる。
- 元軍が陸地を放棄して船に引き揚げようとした際に暴風雨に遭い、壊滅したという説が疑問視されている。
- 日本の防具や武器についての記述も、実際の発掘資料とは異なる内容となっている。戦闘力も高かった可能性がある。
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元寇に関しては、かなり見直しが進んでいます。 さしあたって、新井隆重『蒙古襲来』(吉川弘文館、戦争の日本史7、2007年)を参照されることをおすすめします。 日本側は、異文化との初めての戦いで苦戦を強いられましたが、蒙古軍の博多制圧は阻止しています。激戦によって被害が少なくなかった蒙古軍も、文永の役は日本に脅しをかけるための強硬策という外交カードの意味を持っていましたから、無理はせず早々に引き上げたものです。暴風雨はその帰路でたまたま遭遇したもの。 中世の武士の戦闘の実態については、近藤好和『騎兵と歩兵の中世史』(吉川弘文館、2005年)が明らかにしています。一騎討ちに関しては、二人だけで戦える状況で発生する特殊な戦闘であることが指摘されています。大音声で名乗りをあげるというのは、味方に対する武功のアピールでもありますから、その最中にたまたまてつはうで死亡する武士がいたとしても、一騎討ちとは無関係でしょう。日本側の苦戦の要因は、一騎討ちに代表される個人戦ではなく、大なり小なりの武士団が統率されずに個々で戦闘に臨むという、当時の社会構造に起因する戦闘方法にあったものと思われます。 武具に関する戦闘で言えば、当時の武士の主力である弓射騎兵は重武装ですから、防御面では蒙古軍に引けを取りませんし、主武装の弓に関しては、これまた蒙古軍の弓を凌駕する性能を持っています。 たとえ字が書けなくとも、殺しのプロである当時の武士が、現代の我々が間抜けと思うような戦い方をしたとは思えません。現に弘安の役では、苦戦の経験を活かして厳重な防衛体制を構築しています。元寇の誤解が流布し続ける背景には、当時から続く「神風史観」がありそうですね。
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- Suisuiganman
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>中国二十四史でいい加減さで最大の悪書と酷評されてる『元史(Yuan-shih)』をまともに信じこむのはどうかしてるね せめて『集史』ぐらい使われたら? なぜ、『元史』がいい加減と言われているかの所以を知らないようなのでお答えしましょう。元史が歴史書の体裁を為さず、元代の資料をまる写しにしているが所以です。通常、歴史書の編纂に当たっては、諸資料との整合性をまとめて、歴史書としての体裁を整えるのですが、元史はこれを怠り、当時の諸資料をそのまま転載しており、そのまま、編纂を終えてしました。しかし、元史のそのような事情は、裏を返せば当時の史料を誰の手を加えることも無く、現代人がそのまま参照することかでき、当時の史料にそのまま 触れることができる、かなり価値の高い史料と言えるのです。要するに元史は、歴史書としては失敗作でありながら、元代史料集としは右にでるものがないほど貴重な史料だと言い換えることも可能でしょう。つまり歴史書としての出来と史料としての価値は別であり、史料としての価値として元史を見た場合、その史料としての価値は元の史料として最高のものだと言えるでしょう。 ちなみにあなたが、挙げた史料の『集史』ですが、元寇に関する記述は一切存在しません。なぜ、元寇に関する質問に対して、元寇の記述が一切無い集史が元史より重要と考えておられているのか、意味不明です。元寇について集史を使用したいのならば、当然のことながら元寇に関することが詳細に記述されている『元史』や『高麗史』を基本としながら、補助史料として使用すべきものでしょう。 >高麗史は李氏朝鮮時代の編纂時期やその元になった元占領下の史料が散在していたなどの理由から 生まれた、死んだ、行ったという単純な事柄はともかく 意味がわかりません。それのどこが高麗史が信用できないとなるのでしょう。『高麗史』は、現代に失われた『高麗王朝実録』を典拠にして編纂されております。『高麗王朝実録』とは、高麗王の死後毎にその直後にその事跡を高麗が国を挙げて編纂しており、それを連綿と高麗が滅亡するまで絶え間無く編纂されてきました。このような第一級史料を典拠に編纂されたのが『高麗史』であり、実際に戦闘当事国であり、その前線基地となった高麗は誰よりも兵数などに当然のことながら知っていなければ可笑しいのです。そして、その高麗が編纂した高麗王朝実録を典拠に編纂された『高麗史』は何よりも元寇の実態に近い姿を写し出す史料の一つだと言えます。
お礼
ありがとうございました。
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皆さん色々な意見があって不思議ですね、本来、事実は1つのはずなんですけど、感情移入が働いてしまうのでしょうか?まるで中国や韓国がありもしない事に難癖を付けるみたいに
- zep19
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ご質問者に失礼がかかるので もうこれ以上スレを汚したくないからこれで終わりますが 中国二十四史でいい加減さで最大の悪書と酷評されてる『元史(Yuan-shih)』をまともに信じこむのはどうかしてるね せめて『集史』ぐらい使われたら? もしくは D'Ohssonの『Histoire des Mongols , depuis Tchinguiz-Khan jusqu'a Timour bey ou Tamerlan』 のオリジナルの英訳書 第2巻が元朝史だったはずだ 自分はチャガタイ・ウルス~チャガタイ・ハン国に興味があったから上記の書はあまり関係ないが 上記の書はあらゆるモンゴル研究の書物に引用されてるから有名だ 高麗史は李氏朝鮮時代の編纂時期やその元になった元占領下の史料が散在していたなどの理由から 生まれた、死んだ、行ったという単純な事柄はともかく 数値なんてあてにならない
お礼
ありがとうございました。
- Suisuiganman
- ベストアンサー率50% (1/2)
>貧困な一般住民、ないに等しい資源等、占領してもあまりメリットのなく、助作戦にもならない日本に貴重なモンゴル本軍を出すはずがないだいたいカイドゥにカラコルム付近まで攻め込まれる事すらあったのに本軍やそれに準ずる部族の騎兵部隊を割けるわけがない (バヤンの奮戦でどうにか阻止されたが) 貧困な一般住民などあなたの勝手なレッテル貼りにしかすぎません。少なくとも、元側からみて日本が豊かだという認識が存在した史料はあります。例えば、マルコ=ポーロの『東方見聞録』によれば、「クビライ・カーンはこの島の豊かさを聞かされてこれを征服しようと思い、二人の将軍に多数の船と騎兵と歩兵をつけて派遣した」と明言しており、クビライは日本を豊かな国と認識していた可能性は高いです。マルコ=ポーロだけでなく、南宋の旧臣である鄭思肖もまた『心史』において「元賊は、その豊かさを聞き、倭の主が来臣しないのを怒り、土(南宋)の民力をつくし舟艦を用意して、往きて攻める」と述べており、大陸において日本は豊かな国というイメージがあったことが窺えます。その証拠にクビライは弘安の役の後も国内の疲弊を顧みず、幾度と無く日本遠征を計画しており、クビライが日本など眼中に無いどころか、最早日本征服が執念に取り憑かれたような状態でした。 また、実際にモンゴル兵が加わっていた史料としては、高麗が高麗軍と漢軍を減らしてモンゴル兵を増やし、蒙漢軍3万を増やすよう要請し、クビライが了承したこと、『元史』に日本から逃げ帰った于閶らの報告に日本軍がモンゴル兵と漢兵、高麗兵の捕虜を殺害し、旧南宋兵は助命したことが述べらており、捕虜の中にモンゴル兵がいたことからもモンゴル兵が派遣されていたことは疑いようがありません。 もっと言えば、船で馬を積んで遠征した例としては、十字軍もあります。十字軍は大量の馬を海上輸送していることから、馬の海上輸送が無理だという論も成り立ちません。 さらに元軍の当初の目標は博多と目と鼻の先にある太宰府の占領にあり、長駆して鎌倉まで攻め登るわけではありません。なぜなら、太宰府を占領して補充用の馬を利用しながら、長駆しようにも間には関門海峡が存在するからです。太宰府を占領すれば、九州に奥魯を設置し、本州上陸に備えるつもりだったと思われます。 >動物の腱を材料に作っている合成弓と和弓を一緒にするなど訳がわからない 一緒にしてはいません。和弓と蒙古弓は全く別物です。ただし、あなたの妄想である蒙古弓は和弓より三倍も飛び、威力も貧弱という嘘を指摘したにすぎません。サンスクトン.ホープ教授の実験結果により、射程距離に両者に差はありませんが、元寇においては元軍の射程の方が長かったかもしれません。なぜなら、実戦用の和弓は、防御力の高い大鎧を想定しなければならず、鏃を重くするなどしなくてはならかったからです。そのため、蒙古軍の矢の威力が弱いので毒を塗っていたという八幡愚童訓という日本側の史料がある一方、元側の史料『汎海小録』では、和弓の威力の強力さを指摘する一方、遠くには届かないという記述があるのでしょう。 >しかも遊牧民の馬は和製馬と違い遠駆けに慣らされているし、品種改良もされている 流鏑馬や犬追物で日々訓練されていた日本馬が戦場で役に立たないわけがありません。そもそも、元軍は太宰府まで長駆するほどの段階に至る前に撃退されており、東路軍の東征都元帥洪茶丘は馬を乗り捨てて逃げ回る有様でした。 >第三回日本遠征に使用予定の船は第三回ベトナム遠征に振り向けられた 日本なんてどう考えても占領しても意味がないし カイドゥの扇動で満州の東方三王家も反フビライの反乱を起こすからそれどころでなくなった 嘘を言ってはいけません。日本遠征が中止になったのでベトナムに軍が派遣されたのです。また、東方三王家の反乱も日本遠征が中止になった翌年のことであり、日本遠征中止とは無関係です。 なぜ、中止になったかは『元史』劉宣伝に詳しく書かれており、劉宣は隋が高句麗に遠征し、たびたび敗北した例を引用し、日本侵攻の困難性について「たとえ風に遇わず、彼の国の岸に至っても、倭国は地広く、人が多い。彼の兵は四集し、我が軍に後援はない。 万が一戦闘が不利となり、救兵を発しようと思っても、ただちに海を飛んで渡ることはできない」と述べ、日本遠征がかつての日本遠征以上に困難であることを述べて、中止を訴えました。それに対して、クビライは「日本は孤遠の島夷なり。重ねて民力を困するを以て、日本を征するをやむ」と述べ、明確に日本遠征を中止しました。この報せを受けた江浙の軍民の歓声は雷のようであったとされます。 この翌年に起こったのが東方三王家だったのです。 そしてクビライが次に目を向けたのがベトナムです。『元史』日本伝によると、日本遠征を中止したクビライは「日本は今までに我が国をかつて侵略したことはない。今は交趾が我が国の辺境を犯している。日本のことは置いておき、専ら交趾を事とするがよい」と述べ、ベトナムに遠征しました。つまり、日本のことはどうでもいいから、日本遠征用の軍船をベトナムに差し向けたのでは無く、日本遠征は難しいと判断したために、日本遠征より難易度の低いベトナムに遠征したにすぎないことがわかります。 >日本の武士と当時の世界における日本の立ち位置を過大評価し過ぎるのは注意した方がよいと思いますね 海洋を越える兵力の内かなりの割合は直接戦闘に関わらない船員が含まれていることも考えるべき 日本の武士の立ち位置を和弓が蒙古弓の3分の一しか飛距離が無いや日本遠征用の軍を日本ごときに使うのは もったいないから、ベトナムに遠征したなど史実とは異なる妄言を用いて、不当に評価するのは止めた方がいいです。 水夫は当然、除外しています。水夫の数は高麗史に記述されているとおりであり、それを差し引いても、モンゴル帝国が 南宋以外の国派遣した軍の規模は、元寇は最大規模の遠征だったのです。
お礼
ありがとうございました。
- zep19
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チンギス・ハンのいた時代のモンゴル本軍の総兵力が12万9000 今の内モンゴルを含んだモンゴル人の総人口を多民族の人口との比較を考えれば 貧困な一般住民、ないに等しい資源等、占領してもあまりメリットのなく、助作戦にもならない日本に貴重なモンゴル本軍を出すはずがない だいたいカイドゥにカラコルム付近まで攻め込まれる事すらあったのに本軍やそれに準ずる部族の騎兵部隊を割けるわけがない (バヤンの奮戦でどうにか阻止されたが) 中世までの遊牧民国家で歩兵になるのは戦争捕虜、占領地やあるいは拉致してきて強制的に農耕させている農耕民が普通 人口の少ないモンゴル人やそれに準ずる地位のバルラス族等モンゴル系遊牧民やキプチャク族等テュルク系遊牧民が歩兵になるわけがない 動物の腱を材料に作っている合成弓と和弓を一緒にするなど訳がわからない 遊牧民の騎馬部隊はいくら馬を持っていると知っているのか理解不能だ 遊牧民騎馬部隊は当然の如く乗り潰しを見越して1騎あたり数頭の馬をストックして後方軍に若い兵に率いさせている 馬を潰したら直ぐに乗り換えるだけでなく、損耗した兵力を後方軍の若い兵で補充するためだ そんな騎兵が大量の補充馬や馬用の糧食とともにいきなり船に乗り込むことはまずないと見ていい しかも遊牧民の馬は和製馬と違い遠駆けに慣らされているし、品種改良もされている ましてや鎌倉武士のような重装備なんかしてやしない 戦国武士は騎馬から降りて戦ったというが、まぁ当然の事でしょう また去勢を知らないとどうなるかは それで苦労したローマや十字軍の記録でわかる 第三回日本遠征に使用予定の船は第三回ベトナム遠征に振り向けられた 日本なんてどう考えても占領しても意味がないし カイドゥの扇動で満州の東方三王家も反フビライの反乱を起こすからそれどころでなくなった ウリャンハダイは言っておくとモンゲ・ハン時代にフビライとともに双璧とされた将軍ですが 日本の武士と当時の世界における日本の立ち位置を過大評価し過ぎるのは注意した方がよいと思いますね 海洋を越える兵力の内かなりの割合は直接戦闘に関わらない船員が含まれていることも考えるべき ただでさえ史料の兵力では兵站がもたないだろうに それに本格的騎兵を載せたら更に兵站は絶望的に厳しくなるのは必定だ
お礼
ありがとうございました。
- Suisuiganman
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>まず当時の日本の鎌倉武士の兵装で戦闘に勝てる可能性はないですね まず、実際に戦闘に勝ってるんですが‥。兵装でいえば、薄い革鎧の元兵と大鎧の鎌倉武士が衝突すれば 圧倒的に元兵は不利です。 >日本の騎馬武者の主武器は長弓ですが モンゴル軍が当時使用していた合成弓の射程の三分の一程度で、しかも貫通力ははるかに劣る また発射速度は非常に遅い 何か勘違いされておられていますが、和弓も合成弓です。さらに言えば、射程が3分の一など無根拠な意味不明な ことをおっしゃっていますが、サンスクトン.ホープ教授のモンゴル軍と和弓の射程の比較では、飛距離に 差は無く、全く同じ飛距離でした。 http://www.kjclub.com/jp/exchange/photo/read.php?tname=exc_board_53&uid=4797&fid=4797&thread=1000000&idx=1&page=10&number=3693 >元寇にはモンゴル人はほとんど参加していないのでモンゴル軍の武器を高麗兵に供与していたらですが) さて、あなたの情報は何から何まであなたの妄想ばかりですね。 文永の役では、蒙古.漢軍が25000人で高麗兵は8000人です。 『高麗史』 巻一百四 列伝十七 金方慶「以蒙漢軍二萬五千、我軍(高麗軍)八千、梢工引海水手六千七百、戦艦九百餘艘、留合浦、以待女真軍、女真後期、乃發船」 また、弘安の役では、高麗は元に三万のモンゴル兵と漢人を要請し、高麗軍の負担を減らすよう要請し、受け入れられています。 蒙古.漢兵30000人に高麗兵は9970人です。江南軍を足せば高麗軍の割合はわずかに15分の1程度にすぎません。 『元史』世祖本紀八、至元十七年八月戊戌の条「戊戌、高麗王王睶来朝、且言将益兵三万征日本。」『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王六年 八月乙未(二十六日)の条「二減麗漢軍、使闍里帖木兒、益發蒙軍以進三勿加洪茶丘職任、待其成功賞之、且令闍里帖木兒與臣、管征東省事、四少國軍官、皆賜陴面、五漢地濱海之人、幷充梢工水手、六遣按察使、廉問百姓疾苦、七臣躬至合浦、閲送軍馬、帝曰、已領所奏」 >当時の日本には騎兵用の馬上槍が存在していません(現れるのは南北朝時代) その上、蹄鉄もなく、去勢もしていない体高120~130cmのポニーに騎乗弓兵にも関わらず総重量90kgの武者が乗るですから 馬は自己防衛的に早く走らないだろうからギャロップすらできない (世界的に騎乗弓兵は軽装) モンゴル軍にも蹄鉄はありませんし、馬上槍も存在しません。さらに言えば、モンゴル馬と日本馬はほぼ同じ体格であり、早さより力強さがあるのが特徴です。あなたも見たことがあると思いますが、モンゴル馬はあの朝青龍すら乗せて走り回ることが可能でした。 >ベトナムの陳興道のように海岸に杭を打ち込み、満潮時に元軍の大船を引き込み 干潮になって杭で身動きの取れなくなった元船を焼き討ちするなどの策略も取らずに勝てるでしょうか 実際に勝ってますね。元軍は志賀島に上陸し、日本軍と陸戦におよび正面から 戦いましたが、元軍は大敗し東路軍の東征都元帥茶丘は日本兵の追撃を受けて危うく討ち死に仕掛けたことが高麗史に確認されます。 >対日には連隊長クラスの無名中規模部隊指揮官や 南宋の降将が遠征軍の指揮をしていました (もっとも当時の元の主敵は中央アジアのアリク・ブケやカイドゥという強敵でモンゴル本軍をはじめ主力部隊を対峙させてました) 元軍のうち、三別抄の乱において唯一渡海作戦を実施し、成功させたヒンドゥや洪茶丘など渡海作戦のスペシャリストが動員されたのが元寇です。また、世界最大の水運国家の南宋の水軍力をフルに動員したのも元寇でした。 また、参加したモンゴル人将の一例を挙げましょう。 ナンギャダイこそ、多大なる戦績により昇進し、この家の地位を高めた人物といえる。 世祖クビライの時代の彼の履歴は次のとおりである。彼は若くから父マチュとともに従軍したが、 父の死後、「都元帥府の経歴」となった。この後、襄陽攻撃にアジュにしたがって参加していることから 都元帥アジュの麾下にいたことがわかる。襄陽戦の功で「漢軍千戸」となり、バヤンの南宋遠征に従う。 そして南宋朝廷への使者となり賈似道との交渉にあたり、さらに臨安の無血開城に活躍する。 バヤンの命により宋の玉璽をクビライに齎らし、帰途には南宋の君臣をクビライのもとに送れとの 密命を伝えた。この際に安撫司ダルガチとなり、ブジェク家のアラカン、董文炳とともに浙江・福建平定を 担当した。至元十五年以前に「蒙古軍副都万戸」、江東宣慰使となり、さらに江東按察使に昇進した。 ふたたび江東宣慰使となった際も以前どおり「万戸」であったという。至十八年に「都元帥」として 第二次日本遠征軍を率いたが、”未だ至らずして還った”という。この「都元帥」は日本遠征に伴う 一時的なものであったらしい。日本遠征失敗後、「もと管したる出役軍」とボロミルなる人物の軍団と 合体して、「万戸」として健康に駐屯した。その後一時雲南行省平章政事として金歯、緬国の征討に むかうが病のため召喚され、南京等路宣慰使、河南道宣慰使を歴任する。至元末年には ”父の職を襲って”、「蒙古都万戸」となっていたこと、「探馬赤軍」が彼の管轄下にいたことが確認できる。 「元代華北のモンゴル軍団長の家系」堤一昭 日本遠征に無名の武将が派遣されたのではなく、日本遠征に失敗したので将としての評価を現在まで伝えられなかったに すぎないことがわかります >退路が海しかないにも関わらず、日本の捕らえた捕虜は僅か 一方ベトナムでは将軍ウダイをはじめ大量の捕虜を得ています 元寇の弘安の役の捕虜は2.3万も出ています。どこがわずかなのでしょう? 『元史』 巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國「七日日本人来戦、盡死。余二三萬為其虜去」 さらに言えば、 ベトナムは一次侵攻では、首都を破壊された上に朝貢を余儀無くされています。さらに陳興道が活躍した と持て囃される第三次ベトナム侵攻では、元軍が派遣した兵船はわずかに500艘にすぎませんでした。なぜなら、その前に 弘安の役において4400の元軍の船団が日本で敗れてしまったからです。 >また日本側の記述で日本側の武士が数十騎と記載されていれば1騎に付き数名の徒の兵が付くから実兵力は300~350程度いることになります彼我の兵力差はさほどないと見ていい) 残念ながら、そう単純ではありません。例えば、竹崎季長は5騎で参陣していますが、徒兵はついていません。 また、対馬には応永の外寇で17000人の兵が上陸しています。400人程度でしか上陸できないなど、あなたの 願望にしかすぎません。
お礼
ありがとうございました。
- zep19
- ベストアンサー率45% (138/306)
まず当時の日本の鎌倉武士の兵装で戦闘に勝てる可能性はないですね 日本の騎馬武者の主武器は長弓ですが モンゴル軍が当時使用していた合成弓の射程の三分の一程度で、しかも貫通力ははるかに劣る また発射速度は非常に遅い (元寇にはモンゴル人はほとんど参加していないのでモンゴル軍の武器を高麗兵に供与していたらですが) 当時の日本には騎兵用の馬上槍が存在していません(現れるのは南北朝時代) その上、蹄鉄もなく、去勢もしていない体高120~130cmのポニーに騎乗弓兵にも関わらず総重量90kgの武者が乗るですから 馬は自己防衛的に早く走らないだろうからギャロップすらできない (世界的に騎乗弓兵は軽装) ベトナムの陳興道のように海岸に杭を打ち込み、満潮時に元軍の大船を引き込み 干潮になって杭で身動きの取れなくなった元船を焼き討ちするなどの策略も取らずに勝てるでしょうか 対ベトナムにはウリャンハダイやフビライの子トゴンなど高名な将軍が指揮しましたが 対日には連隊長クラスの無名中規模部隊指揮官や 南宋の降将が遠征軍の指揮をしていました (もっとも当時の元の主敵は中央アジアのアリク・ブケやカイドゥという強敵でモンゴル本軍をはじめ主力部隊を対峙させてました) 退路が海しかないにも関わらず、日本の捕らえた捕虜は僅か 一方ベトナムでは将軍ウダイをはじめ大量の捕虜を得ています 対馬や壱岐では実際、在地の日本軍は殲滅されています よく敵が多数だったからという方がいますが 対馬や壱岐の砂浜がほとんど狭い地勢から見て港湾を占領して長い時間かけて揚陸しない限り大兵力なぞ上陸できません (また日本側の記述で日本側の武士が数十騎と記載されていれば1騎に付き数名の徒の兵が付くから実兵力は300~350程度いることになります 彼我の兵力差はさほどないと見ていい) また狭い博多湾に大小多数の船舶がいる状態で小舟を操り音がしないよう甲冑脱ぎ太刀が主武器の半裸の武者が 音もなく忍び寄り船に乗り込むなぞ現実味がない話です まぁもっとも騎馬から降り徒歩で戦うことを卑しいとする遊牧民モンゴル人がほとんどおらず 士気の低い高麗兵と元の中央政府が処分したかった大量の農具を持ち屯田目的の棄民同様の南宋の老兵の元軍なら もしかしてはあるかも知れませんが 長文失礼致しました
お礼
ありがとうございました。
補足
筑波大学体育科学系助教授・森俊男氏によると和弓と蒙古弓を比較した場合、日本の弓の方が射程距離、威力は優っているとしている。 まず、矢の比較だが、和弓と蒙古弓とも矢の長さは80~90cmとほぼ同じ長さである。しかし、日本の矢は竹製の矢柄を材料として、それを火で焼き、まっすぐに矯めると同時に矢柄の硬度を高め、竹の肉厚が均一になるよう削って作られている。そのため、矢の重量や重心位置が一定となる。また、「箆張り(のばり)」といわれる、矢の中央部を押した時の反発力が、蒙古軍の使用する矢よりも強い。できあがった矢柄に鷲・鷹類の羽が三枚付けられ、鉄製の鏃を矢先に差し込んで戦闘用の矢(征矢)となる。一方、蒙古弓の矢は日本の矢のような複雑な製作過程は無く、矢は木を削って作られた。矢の飛行を安定させるため、飛行中に矢が回転するように三枚の羽が付けられている。矢を同じように発射した場合、使用する矢の重量、重心位置、箆張りなどの規格が均一でなければ、矢の着点や飛行状態は異なってくる。着点は命中と密接な関係があり、その飛行状態は矢が命中した際の威力の大小に関係する。これらの理由により、森俊男氏は日本の矢の方が性能は良かったと指摘している。 次に弦の比較であるが、日本の弦は麻を材料とし、それを縒り合わせて松脂(まつやに)をしみ込ませ、絹糸を全体に巻き締めて、その上に漆を塗って作られている。現在、通常使用されている弦の重さは二匁(7.5g)くらいである。糸を巻いて漆を塗り、重さが三倍になったとしても22.3gである。一方、蒙古弓の弦は動物の皮を使用し、重さは46gと日本の弦の2倍以上の重さがあった。したがって、矢が発射され弦が復元する過程では、弦の重さや空気抵抗などから、同じ強さの弓だとしても、矢の速度に差が生じるため、日本の弦の方が性能が優っているとしている。 鏃及び矢柄の重量は発射される矢の飛行速度に大きく関係するが、両軍の使用する矢の重量はほとんど差はなかった。矢の速射性に関しても、引く矢の長さが同じため、運動量も同じであり、差はなかったものとみられる。以上の点から射程距離、威力に関しては和弓が若干優位であったと森俊男氏は結論付けている 鎌倉から発掘された馬の骨から推定して、当時の体高は平均で129cmで、モンゴルで発掘された馬と大差 ないとされる、しかしながら武士は完全武装で25~40kgになったので、軽量武装の蒙古兵のほうが動き は機敏であっただろう
- shirouuda
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今日、一騎打ちは否定されています。教科書にはタイムラグがありますが、数年先には書き換わっているでしょう。 竹崎季長の件も、後の時代の書き足しがあったようですし。 初期の武士についてですが、 「初期の武士は武装農民」という在地領主論は古く、国司の軍事貴族とその私兵が武士になったという国衙軍制論、都の武く芸者である官人が武士という職能武士論などが今日の主流です。 平安時代には、幼い頃から武芸を仕込まれた軍事貴族や官人が一騎打ちを行っていたかもしれませんが、平安時代末期の源平合戦の頃には、軍の主力は農民兵となっており、武芸も作法も無い集団戦を行っています。源義経だけではなく、平家もです。 もちろん、それは元寇の頃もです。 ただし、 「やーやー我こそは」「勇者の子孫の我が、朝敵を討つ」などは 戦国時代に「言戦」などと呼ばれていたし、 現代のアメリカ軍も行ってますよ。 大統領は、テレビを使って 「民主主義のために戦う。神のご加護を。」 そもそも、「戦争は政治の継続」「戦闘は外交の手段」ですから、 戦闘に言葉の戦いが先行するのは当たり前なのです。
お礼
ありがとうございました。
- あずき なな(@azuki-7)
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元寇のときに台風が直撃したというのはどうやら事実らしいです ちなみに九州には防人がいました 元寇とて容易には上陸できなかったはずです(恐らく海対陸で1戦交えたでしょう) 日本の武器のほうが優れていたとは思えません モンゴル軍は「てつはう」いわゆる鉄砲の原型のようなものを使い 日本軍は見たこともない武器に苦戦 事実 その攻撃で北条時宗の弟が死んでいます 当時の戦いは一騎打ちでしたよ ただモンゴルは団体戦で 日本が「やーやーわれこそは」と名乗ってるうちに攻撃されてしまいます 笑 竹崎季長の日記に明るいですね いくら日本が戦いなれてても 相手は最新の武器と戦法できました 通じるはずは無いと思いませんか?
お礼
ありがとうございました。
補足
『八幡愚童訓』に記されているように、多くの書籍で元軍の集団戦法の前に一騎打ち戦法を用いる日本軍は敗退したと書かれている。しかし、『八幡愚童訓』は後世に記された宗教書であり、八幡神の神徳によって元軍を破ったことを強調しており、そのために日本軍が戦闘で一騎討ちなど稚劣な戦闘法で敗北したかのような記述になっているとの見解がある。一騎討ちに関しても、『蒙古襲来絵詞』絵五に描かれているように日本の武士たちが騎兵を密集した一団となって集団で戦闘が行われている様子が描かれており、また、平安後期から鎌倉時代にかけて武士に関する文献で一騎打ちの記述があるのは、『今昔物語集』の源充と平良文との騎射による一騎打ちの場面と『前九年合戦絵巻』の一騎打ち直前の絵のみである。このように、特別な場合を除いて一騎打ちは行われておらず、一騎打ちは日本の武士の通常の戦闘方法ではない。 また、元朝の官吏・王惲は、武士の特徴をその記事『汎海小録』において「兵杖には弓刀甲あり、しかして戈矛無し。騎兵は結束す。殊に精甲は往往黄金を以って之を為り、珠琲をめぐらした者甚々多し、刀は長くて極めて犀なるものを製り、洞物に銃し、過。但だ、弓は木を以って之を為り、矢は長しと雖えども、遠くあたわず。人は則ち勇敢にして、死をみることを畏れずと記しており、武士が騎兵を結束させて集団で戦っていたことを指摘している。 『元史』においても、日本の特性について「たとえ風に遇わず、彼の国の岸に至っても、倭国は地広く、人が多い。彼の兵は四集し、我が軍に後援はない。 万が一戦闘が不利となり、救兵を発しようと思っても、ただちに海を飛んで渡ることはできないとあり、一騎打ち戦法ではなく、日本が大軍を擁しており、上陸した場合四方から元軍に攻撃を仕掛けてくることを元朝政府が警戒している様子が記されている。 2001年、鷹島海底から「てつはう」の実物が2つほど発見され、引き揚げられた。一つは半球状、もう一つは直径4cmの孔が空いた直径14cmの素焼物の容器で重さは約4kgあった。なお、この「てつはう」には鉄錆の痕跡もあったことから、鉄片を容器の中に入れ、爆発時に鉄片が周囲に撒き散り殺傷力を増したとも考えられる。 山形欣哉氏によると、「てつはう」の使用方法や戦場でどれだけ効果があったかは不明な点が多いとしている。理由としては、「てつはう」は約4kgもあり、手投げする場合、腕力があるものでも2、30mしか飛ばす事ができず、射程の長い長弓を主力武器とする武士団との戦闘では近づくまでに不利となる点を挙げている。 「てつはう」をより遠くに飛ばす手段として、投石機がある。しかし、山形欣哉氏は投石器を使用する場合、多くの人数を必要とし連続発射ができないなどの問題点もあったとしている。例えば、後の明王朝の時代ではあるが、「砲」と呼ばれる投石機は、一番軽い1.2kgの弾を80m飛ばすのに41人(1人は指揮官)も要した。したがって、組立式にし日本に上陸して組み立てたとしても、連続発射はできなかったものとみられ、投石機を使用したとしても「てつはう」が有効に機能したとは考えられず、投石器目指して武士団が突進した場合、対抗手段がないとしている
お礼
ありがとうございました。