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元寇
なぜ、遊牧民であるフビライが危険な海を越えてまで、日本に攻めてきたのか疑問に感じていました。 IFなのですが、マルコポーロが元に仕えていなかったら、あるいはフビライが東方見聞録を目にしていなかったら、「元寇」はなかったでしょうか???
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マルコポーロも東方見聞録も関係ないです。 卑弥呼の時代に魏に使者などを送ったりしたから日本(倭国)は当然知っていたし元史によると、フビライ・ハンに仕えていた高麗人(朝鮮人)の趙彜(ちょうい)が日本への使節派遣を促し、高麗の世子椹(後の忠烈王)がフビライに盛んに東征(日本侵攻)を勧めたという記録が残っています。 それにアジア圏を征服して属国にしてきたので当然、海を越えてくることは考えていたと思いますよ。
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- tzd78886
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それだけの魅力があったということなのでしょうね。平泉の中尊寺金色堂や宇治の平等院鳳凰堂などが大袈裟に伝わっていた可能性も高いです。マルコポーロの「東方見聞録」以前の問題として、簡単に行けないところには余計に想像力が膨らまされて現実以上に過大な期待を持つものなのです。後にヨーロッパ諸国から新大陸へたくさんの移民が渡ったのもそのいい例ですし、日本でも北海道や満州、南米に夢を持った多くの人たちが渡っています。
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ありがとうございました。 大袈裟に伝わっていた可能性も高いです。……もともと東方見聞録自体が大げさだったのではないでしょうか???それで、この大げさがなかったら、「元寇はなかったか???」というくだらないIFでした。 現実以上に過大な期待……確かにこれがなければ、なかなか身を投じる気持ちにはなれないかもしれませんね。ただフビライの気持ちや置かれていた状況とは異なると思うし、北海道の開拓については、果たして「期待があったのか」という疑問さえも持っています。むしろ「やむを得ず」という状況のほうが強かったのではないかと。笑
- eroero4649
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もともとは元が「我々が中国の正当王朝である。臣下となれ」と居丈高にやってきたのです。まーかなり上から目線でした。そりゃまさに南宋も滅亡寸前(後に滅亡)に追いやっていたイケイケの時期でしたからね。 だけど当時の幕府と朝廷は国際情勢に疎く、元(蒙古)という国をよう知らんかったのです。おまけに南宋と交流があって「え?中国王朝いうたら宋(南宋)とちゃうの?」と南宋がもう滅亡寸前であるとは知らなかったのです。 だから幕府(&朝廷)の返答は「はー?元?知らねーなー。聞いたことねえよ」というものだったのです。 上から目線でプレッシャーをかけたら、同じような態度の返事が返ってきたのでまあクビライとしてはメンツを潰されたというのはありますね。また文字通りに東洋世界を統一せんとばかりに勢いがあった元からすれば、東の端の聞いたこともないような小国なんて簡単に踏みつぶせるという思惑もあったと思います。 元寇の真実がどうであったのかは、近年の研究で昭和の頃の通説は覆りつつあります。かつては「日本が負けそうだったけど、神風が吹いて助かった」というのが有力でしたが、近年は「元軍は北九州に上陸拠点を築くこともままならず、そこに神風の追い打ちがきて撤退した」が真相ではないかといわれています。 少なくとも二度目の元寇(弘安の役)は、元にとっても高麗にとっても気が進まない侵攻であったようです。また弘安の役は「大量に手に入れた南宋軍捕虜の処分先」としても利用された側面がありました。
お礼
ありがとうございました。ご回答の趣旨はこれまでに読んできたもので理解していますし、異論はありません。 ただ、私の疑問は、 「もともとは元が「我々が中国の正当王朝である。臣下となれ」と居丈高にやってきたのです。まーかなり上から目線でした。そりゃまさに南宋も滅亡寸前(後に滅亡)に追いやっていたイケイケの時期でしたからね。」とか「上から目線でプレッシャーをかけたら、同じような態度の返事が返ってきたのでまあクビライとしてはメンツを潰されたというのはありますね。」 ということ以前の問題として、フビライはなぜ日本を攻めることを思い立ったのだろうか???という疑問です。単に、「時の勢い」や「メンツ」だけで、あるいは「領土の拡張」というだけで日本に攻めて来たのか???という疑問でした。私には、どうしてもそうは思えず、 それでやはりフビライには「黄金の国ジパング」ということが強く念頭にあったという前提のもとに、上記のような質問になったのです。この前提が崩れてしまえば質問は成り立ちません。
お礼
ありがとうございました。