「思われる」についての解説

このQ&Aのポイント
  • 「~ように思う」や「~と言われている」という表現は、話し手の意見を婉曲に表すために使われる。
  • 「~ように思われる」は、「~ように思う」と比べてより客観的であり、思わず生じた感覚を表す。
  • 「~と言われている」は客観的な事実を述べるニュアンスがあり、一般的に認識されていることを示す。
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「思われる」について(再度質問文書き直す)

 日本語を勉強中の中国人です。頭のなかのある固定観念をネイティブスピーカーの皆様に確認してみたいと思います。下記は大学で使っていた日本語教科書からの抜粋です。説明は中国語で書かれているので、日本語に訳してみました。 ___________________________ ・~ように思う(思われる) 「~ように思う」は話し手が婉曲的に自分の意見を表す時に使う。 A.この音楽はどこかで聞いたように思いますが。 B.どこかでお会いしたことがあるように思いますが。 C.これは一年生にとっては難しすぎるように思います。 「~ように思う」に近い表現として、「~ように思われる」というものがある。その感覚は「~ように思う」と比べて、より客観性があり、「思わず」生じたのである。 D.人の目から天を見ると、天が動いているように思われやすいです。 E.彼女は日本人であるように思われますが、中国人だそうです。 F.このマイクロカメラは外国から輸入されたもののように思われます。 ・~と言われている この文型は中国語の「一般的にこう認識している」、「話によると」に近い。ある公認されている事実を客観的に述べるニュアンスがある。 G.五百年ほど前の東京はたいへんさびしいところだったと言われています。 H.近ごろの日本の若者はよくマンガを読むと言われています。 I.魯迅の文章はとてもわかりにくいと言われています。 ______________________________  以上は大学の日本語教科書からの引用終わりです。「~ように思う(思われる)」と「~と言われている」は別々の教科書にある文法項目ですが、私の頭のなかで、なぜかごちゃごちゃになっており、同じようなものとまとめました。「~と言われている」の影響を受けて、「~ように思われる」も客観性がある表現だと思いました。  最近、「考えてみればこれも、~からではないかと思われる」という日本語構造を見ました。外国人の私にとって、最初は偉そうな印象を受けました。なぜなら、たんなる個人の認識を「思われる」によって人々はみんなそう思っていると話し手が勝手に決めたと思うからです。  でも、のちほど、こちらのサイトで質問したら、「思われる」は自分の弱い断定の意味があるとわかりました。  そこで考えたことなのですが、「と思われる」は人々はみんなそう思っているという意味にも取れるし、自分の弱い断定の意味にも取れるような気がします。もし、自分の弱い断定の意味として使うつもりでしたが、「一般的に人々はみんなそう思っている」ととられたら、偉そうに感じられ誤解が生じるのではないかという懸念です。つまり、外国人の私が最初に誤解したようなことが発生しました。どのようにすればこのような誤解を避けることができるのでしょうか。それとも、それは私自身が「考えてみればこれも、~からではないかと思われる」とうい構造についての認識不足なのでしょうか。  「考えてみればこれも、地球は丸いからではないかと思われる」という日本語文で、この話し手はいったい一般的な人の地球についての認識を述べたのか、それともその人自身の地球についての意見を表したのか、どのように判断するのでしょうか。  以前もこちらで質問させていただいたことがありますが、どうも自分の言いたいことをうまく伝えられないようでした。もう一度書き直しました。今回聞きたいことは伝わったのでしょうか。つたない日本語ですみませんでした。また、質問文に不自然な表現がございましたら、それも教えていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

質問者が選んだベストアンサー

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  • hakobulu
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回答No.6

まず、 >「と思われる」は人々はみんなそう思っている : という意味にはなりません。 『思われる』を「弱い断定の意味」で使う場合は、あくまで【自分が思う場合】だけです。 自分以外の人に対して使う場合は別の意味になります。 たとえば、「地球は丸いからではないか、と人々に思われる」という場合です。 これは受身の用法になります。 もうひとつの場合は、「地球は丸いからではないか、と陛下は思われる」という場合です。 これは尊敬の用法になります。 「考えてみればこれも、地球は丸いからではないかと思われる」という文の場合、「人々に」とか「陛下は」などという語が挿入されていないので、「思われる」の主語は「わたし」であることはあきらかです。 「弱い断定の意味」以外に解釈されることはありませんから大丈夫です。 「人々に思われる」と「(わたしが)思われる」を組み合わせて、 「地球は丸いからではないか、と(人々に)思われるからではないかと思われる」という文は可能です。 因みに、「思われる」は文法的には自発の用法とされていますが、日本語の意味としては「弱い断定」とお考えになるほうが妥当と思います。 「(自分の考えの)強い表明ではない」といったニュアンスでしょうね。   

awayuki_cn
質問者

お礼

>「考えてみればこれも、地球は丸いからではないかと思われる」という文の場合、「人々に」とか「陛下は」などという語が挿入されていないので、「思われる」の主語は「わたし」であることはあきらかです。 これはわかりました。 でも、もし文頭の「考えてみればこれも」という「私」を暗示する言葉がなければ、単純の「地球は丸いからではないかと思われる」なら「人々にと思われる」という意味になれるのでしょうか。「~と言われている」という文型から影響を受けたので、なれると思いました。違いますか。それともたんなるの「弱い断定なのでしょうか。

awayuki_cn
質問者

補足

 お礼と補足の場所を間違えてしまい申し訳ありません。ご丁寧に教えていただきありがとうございます。まだよくわからないので、もう少し教えていただけないでしょうかよろしくお願いいたします。

その他の回答 (15)

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.16

#14です。 > おっしゃりたい「思わず」の意味は2のような「おもいがけなく」という意味でしょうか。私はずっと1のような感じだと思っています。 : 焼き芋の例が良くなかったかもしれませんが、「おもいがけなく」という意味ではありません。 1も2も、「積極的意志は含まれていない」という点で共通している点に着目なさると良いと思います。

awayuki_cn
質問者

お礼

 了解いたしました。本当にありがとうございました。

  • hakobulu
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回答No.15

#13です。 1. >>あくまで「自然に~」「自動的に~」です。 これはなんだか機械のようですね。 機械でない人間はなぜ感情がないのでしょうか。 : 「春を色にたとえれば桃色だと思う」 この表現には、一定の【積極的意志】が含まれていると考えて良いでしょう。 こうした積極的意志が含まれない場合に自発の用法を使います。 「両親からの手紙を読むと、国のことが思い出される」の場合には、積極的意志は殆んど含まれません。 「両親からの手紙を読むと→(自然に)国のことが思い出される」という構図。 この構図(=「→部分の因果関係」)自体は、たしかに「機械的に発生する」わけですが、「思い出す」という行為自体は人間的なもの、と言えるでしょうね。 2. >自発は「ようになっている」ような感じでしょうか。客観的な場面描写でしょうか。人間の気持ちが入っていませんか。けれども、自発に参加する動詞はぜんぶ人間の感情と関係がある動詞ですね。矛盾しているように感じております。 : 「ようになっている」とは違います。 あくまで「自然に~」「自動的に~」という感じです。 ウィキでは、 『日本語の文法における自発(じはつ)とは、 動詞の表現様式で、行為・動作を人が積極的意志を持って行うのでなく、自然にあるいはひとりでに実現する現象・作用のようにいう表現である。』 のように説明されています。 この意味でも「思われる」は、淡雪さんがおっしゃるように、一般的な自発用法とは分けて考えるのが適切ではないか、と思います。 本質的には自発であることは確かですが、「思う」という行為に対して、「ひとりでに思う」という解釈は適さないでしょう。 「人間の気持ちが入っていない」というより、1でも述べましたが、「積極的意志が殆んど含まれない」という捉え方が妥当だと思います。 「彼の名前をどうしても思い出すことができない」などと言う場合は、明らかに積極的意志が関与しているでしょう。 「彼の名前をどうしても思い出されることができない」という表現はできません。 3. >なかなか自発という感覚は理解できません^^;。 : わたしの説明が下手なせいもあると思われます。^^;   

awayuki_cn
質問者

お礼

 なんとなくわかりました^^。いろいろどうもありがとうございました。今後具体的な例にあいましたら、「自発」についてまた質問させていただくかもしれません。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.14

#13です。 教科書が「思わず」という表現をした理由を説明しようとして、非常にややこしい回答をしてしまいました。 訂正ではないのですが、次のようにわかりやすく修正します。 × 「思わず」という言葉は2通りの意味解釈ができます。 ひとつは、「思わず吹き出してしまった」のように、『意識しないで~』という意味。 もうひとつは、「そうとは思わずに信用したのが間違いだった」のように、『~と思わないで』という意味。 教科書の説明文は、後者の意味で使っているとお考えになるほうが良いでしょう。 というわけで、自発自体に感情的、あるいは理性(冷静)的といった区別は含まれていません。 あくまで「自然に~」「自動的に~」です。 ○ 「思わず~」は、必ずしも、『「思わず」は自分ではなかなかとてもコントロールできない【激しい感情】』だけに限ったわけではありません。 「焼き芋を素手で摑んだら熱かったので、思わず落としてしまった」などの例もあるように、あくまで『意識しないで~』『反射的に~』といった意味です。 というわけで、自発自体に感情的、あるいは理性(冷静)的といった区別は含まれていません。 あくまで「自然に~」「自動的に~」です。   

awayuki_cn
質問者

お礼

 たびたびありがとうございます。  手元の日中辞書の用例です。 1.無意識に 思わず涙が出た。 思わず本音を吐く。 あまり滑稽なので思わず吹き出した。 思わず大きな声で叫ぶ。 思わず口走る。 思わずかっさいする。 2.おもいがけなく。 思わず失敗した。 ちょっとした不注意からおもわずこんな負傷をした。  おっしゃりたい「思わず」の意味は2のような「おもいがけなく」という意味でしょうか。私はずっと1のような感じだと思っています。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.13

#10です。 1. >お伺いしたいのですが、「自発」という感情は理性的な感情でしょうか。それとも感情的な感情でしょうか。 「思わず」という感情は、自分がコントロールできない感情的な感情だと思いますが、なぜ日本人の「自発」は冷静的な感情のように感じているのでしょうか。 : 「自発」には色々な説明があるでしょうが、その本質は「自然に発生する」あるいは「自動的に発生する」だと思います。 教科書の、『より客観性があり、「思わず」生じたのである。』は、 『より客観性があり、「自然に」生じたのである。』 『より客観性があり、「自動的に」生じたのである。』 のようにお考えになるほうがわかりやすいでしょう。 「思わず」という言葉は2通りの意味解釈ができます。 ひとつは、「思わず吹き出してしまった」のように、『意識しないで~』という意味。 もうひとつは、「そうとは思わずに信用したのが間違いだった」のように、『~と思わないで』という意味。 教科書の説明文は、後者の意味で使っているとお考えになるほうが良いでしょう。 というわけで、自発自体に感情的、あるいは理性(冷静)的といった区別は含まれていません。 あくまで「自然に~」「自動的に~」です。 2. >A.両親からの手紙を読むと、国のことが思い出されます。 なぜ「誰もが自然に思うことだろう」でしょうか。 現場で手紙を読む人は私しかいないのに、なぜ他人が私の感じがわかるのでしょうか。 : この例文は、自発の典型的な表現です。 「両親からの手紙を読むと、誰もが自然に思い出すだろうが、国のことが(自然に)思い出されます」という構図です。 「他人が私の感じがわかる」のではありません。 誰もが自然に思い出すことだからこそ自発の表現が可能になる、ということです。 淡雪さんが外国に居て、お母さんからの手紙を読むと、【自然に】国(故郷)のことを思い出すでしょう。 他の人でも同じです。 だからこそ、このような自発表現ができるわけです。 誰もが同じように感じたり、思ったりする、というシチュエーションでなければ自発表現は使えません。 「もう春が近いように感じられます」は、たとえば、 「日も少しづつ長くなったし、雪も少なくなってきたし、もう春が近いように感じられます」 という意味の文です。 「日も少しづつ長くなったし、雪も少なくなってきた」というシチュエーションでは、誰もが春が近いと感じるでしょう。 こうした因果関係があるからこそ、「春が近いと感じる」のは自然になり、自発表現をするのが自然になるわけです。 3. >ちなみに、自発の時に、「思い出される」、「感じられる」、「考えられる」、「と思われる」の形だけでしょうか。 「思い出された」とか、「思い出されている」とか、「思い出されていた」とかのように語尾の変化も可能でしょうか。 : 「思い出された」という表現は可能です。また、よく使われるでしょう。 「思い出されている」とか、「思い出されていた」という表現は、まずしないと思います。 文法的に間違いかどうか(そのようなシチュエーションが実際にあるか)という点については、よくわかりません。 4. >「思い出される」、「感じられる」、「考えられる」の自発と「と思われる」の自発と別々に考えたほうがよいのでしょうか。 それともこれらの動詞をぜんぶ一緒にして理性的な感情でしょうか。 : 鋭いご指摘!と思います。 個人的見解ですが、全く同感で、『分けるべき』でしょう。 前回までの記述の繰り返しになるかもしれませんが、「と思われる」には、「判断する」という要素が介在しているはずです。 「風の冷たさも和らぎ、春が近づいているように(自然に)感じられます」 「両親からの手紙を読むと、国のことが(自然に)思い出されます。」 このように文で「思われる」を「自然に思われる」と自発の意味に解釈するのは、実に自然でしょう。 典型的な自発用法です。 しかし、 「彼の態度は間違っていると(自然に[自動的に])思われます」 「これらのデータから考えて、地球は丸いと(自然に[自動的に])思われます」 という解釈は違和感があります。 自らの判断が明らかに介在しているので、自発というより、むしろ、「(自信の程度が)弱い断定」ぐらいに解釈するのが適切ではないか、と思います。 辞書に追加して欲しいぐらいですね。^^; 1~3で腑に落ちない点は、さらに補足なさってみてください。 他の方からも、新たな視点を提示していただけるかもしれません。 4番目の項目に関しては、新たに質問を立てられると面白いかもしれません。   

awayuki_cn
質問者

お礼

 何度も本当にありがとうございます。補足は1についての疑問です。もう一つの質問がわきました。追加させてください^^;。自発は「ようになっている」ような感じでしょうか。客観的な場面描写でしょうか。人間の気持ちが入っていませんか。けれども、自発に参加する動詞はぜんぶ人間の感情と関係がある動詞ですね。矛盾しているように感じております。なかなか自発という感覚は理解できません^^;。

awayuki_cn
質問者

補足

>もうひとつは、「そうとは思わずに信用したのが間違いだった」のように、『~と思わないで』という意味。 教科書の説明文は、後者の意味で使っているとお考えになるほうが良いでしょう。 「思わず」は私の訳文です。 原文の説明は中国語になっています。 「思わず、覚えず」のように辞書のなかの単語(意識しないで~)としてのつもりで訳しました。 「~と思わないで」という構造のつもりで訳したわけではないと思います。 >あくまで「自然に~」「自動的に~」です。 これはなんだか機械のようですね。 機械でない人間はなぜ感情がないのでしょうか。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.12

#10です。 #7の補足拝見しました。 >自発についてですが、『動作は「思わず、覚えず」生じた』と教科書に説明してあります。 これは質問文に列挙した『その感覚は「~ように思う」と比べて、より客観性があり、「思わず」生じたのである』という「~ように思われる」という説明と重なった部分がありますね。 「自発」と「思われる」の間にやはりある絆のようなものが存在しているようですね。 : そのご認識で良いと思います。 「思われる」という場合、判断の基準となる根拠(因果関係)が、誰もがそう思うと考えられるものなので、結果的に、より客観性がある、ということになります。 つまり、自分の主観があまり強く関与していない、という捉え方で、「自然発生的にそのような考えが浮かんでくる」といったニュアンスでしょう。 しかし、繰り返しになりますが、「思われる」の場合は、少ないとはいえ、あくまで自分の判断が介在しているわけですから、他の一般的な自発用法と一緒にするのは好ましくない、と思います。 「弱い断定」あるいは「断定交じりの推測」などといった理解のほうが適切でしょう。   

awayuki_cn
質問者

お礼

 どうもありがとうございました。よく理解できました。

  • hakobulu
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回答No.11

#9です。 >私が質問文に言っている誤解とは、「地球は丸いからではないかと思われる」という文だけ見て、「地球は丸いからではないか【と私が思う】」なのか、「地球は丸いからではないかと【人々に思われる】」なのか、とても判断できないということです。 でも、「地球は丸いからではないかと(人々に)思われる」という表現は「地球は丸いからではないかと(人々に)思われている」という形でない限り、不自然な日本語だとおっしゃっているので、今後「地球は丸いからではないかと思われる」だけ見たら、「地球は丸いからではないか【と私が思う】」と理解したら無難でしょうか。 : 無難というより、それが正しい理解です。 「地球は丸いからではないかと思われる」という文の場合も因果関係が前提としてあります。 たとえば、 「水平線の向こう側は見えない。考えてみればこれも、地球は丸いからではないかと思われる」 のような例が挙げられます。 この場合、 [ 水平線の向こう側は見えない → 地球が丸いからだ]という因果関係が前提になっています。 しかし、若干気づきにくいので「考えてみれば(これも)」という句が挿入されているわけです。 しかし、これは誰もが認める因果関係であることは確かでしょう。 それで、 「水平線の向こう側が見えないのは(考えてみると、これは)地球が丸いという理由からなのだと、自然に思う(推測する)」という意味になります。 文法の専門家ではない上に説明が下手なのでご迷惑をおかけします。 それでよろしければ、遠慮なく何度でも補足なさってみてください。   

awayuki_cn
質問者

お礼

 ありがとうございました。理解できました^^。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.10

#7です。 >あげて下さった例の「と思われる」は「誰もが自然に思うことだろう」という意味になっているようですが、教科書の例はぜんぶ一人称の例です。 : すみません、ちょっと説明のしかたが下手でしたね。 「低気圧が接近しており、明日は雪になるものと思われる」は、意味としては、あくまで、 「低気圧が接近しているのだから、明日は雪になると、わたしは自然にそう思う(推測する)」です。 『誰もがそう思うほど、この因果関係 [ 低気圧→雪 ] が明白なので、わたしも自然発生的にそのように思う』というのが【自発の構図】です。 >いまは「思われる」は「弱い断定」(つまり弱い「思う」の意味)として使うのはもう理解できました。 しかし、これは自発という文法現象に属するという皆様のご見解にはまだ理解できません。 そして、なぜ弱い「思う」になるのかも理由がよくわかりません。 : 「風の冷たさも和らぎ、春が近づいているように思われます」と淡雪さんが言う場合を考えてみます。 ここで着目していただきたいのは、 [ 風の冷たさが和らぐ → 春が近づく]という因果関係です。 この因果関係は誰もが理解できるほど明白に存在していると言って良いでしょう。 淡雪さんは、「風の冷たさが和らいだ」という理由で、「春が近づいている」と思ったわけです。 とても難しいことを調べた結果として、そのように思ったわけではありません。 つまり、明白な因果関係があるので、自然に、「春が近づいている」と思ったのです。 これが自発の構図です。 「風の冷たさも和らぎ、春が近づいているように感じられます」の場合は、自然に感じられる、という感覚ですから、自発用法そのものと言って良いでしょう。 「思われる」の場合も構造としては自発です。 しかし、「思」という言葉を使う以上、あくまで自分の判断が介在していると捉えるほうが、ニュアンスとしては自然です。 判断が介在しているという意味で「断定」または「推測」です。 ただ、[ 風の冷たさが和らぐ → 春が近づく]は明白な因果関係ですが、目の前で絶対的に確定している事実ではありませんから、強く断定することはできません。 その意味で「弱い断定」または「自信の持てない断定」です。     

awayuki_cn
質問者

お礼

何度もご丁寧に教えていただき誠にありがとうございました。 お伺いしたいのですが、「自発」という感情は理性的な感情でしょうか。それとも感情的な感情でしょうか。 「思わず」という感情は、自分がコントロールできない感情的な感情だと思いますが、なぜ日本人の「自発」は冷静的な感情のように感じているのでしょうか。 「思わず」についての辞書の例文をご覧になってください。 1.思わず吹き出してしまった。 2.思わずかっとなって相手を殴ってしまった。 「思わず」は自分ではなかなかとてもコントロールできない激しい感情だと思います。 激しい感情だからこそ、次の動作(吹き出す、殴る)になってしまいました。 理性的な感情だと普通次の行動には移さないでしょう。 しかし、「と思われる」は弱い断定を表すとおっしゃっています。 とても激しい自発の感情であるのに、なぜ弱い断定になるのでしょうか。 ここはちょっと混乱中ですね。 ちなみに、自発の時に、「思い出される」、「感じられる」、「考えられる」、「と思われる」の形だけでしょうか。 「思い出された」とか、「思い出されている」とか、「思い出されていた」とかのように語尾の変化も可能でしょうか。 「思い出される」、「感じられる」、「考えられる」の自発と「と思われる」の自発と別々に考えたほうがよいのでしょうか。 それともこれらの動詞をぜんぶ一緒にして理性的な感情でしょうか。 なかなか納得できません。 No.7のお礼に下記の例もあります。 A.両親からの手紙を読むと、国のことが思い出されます。 なぜ「誰もが自然に思うことだろう」でしょうか。 現場で手紙を読む人は私しかいないのに、なぜ他人が私の感じがわかるのでしょうか。 何度もお手数をおかけして申し訳ありませんが、ご指導のほどをよろしくお願いいたします。

awayuki_cn
質問者

補足

No.7の補足をご覧になってください。 自発についての教科書の肝心な説明を見過ごしてしまいました。 そちらで補足いたしました。 この回答からのお返事はまた明日させていただきますので、よろしくお願い申し上げます。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.9

#6です。 >でも、もし文頭の「考えてみればこれも」という「私」を暗示する言葉がなければ、単純の「地球は丸いからではないかと思われる」なら「人々にと思われる」という意味になれるのでしょうか。「~と言われている」という文型から影響を受けたので、なれると思いました。違いますか。それともたんなるの「弱い断定なのでしょうか。 : 「地球は丸いからではないかと思われる」が「人々に~と思われる」という意味になることもできます。ただ、 「地球は丸いからではないかと(人々に)思われている」のような表現のほうが自然です。 いずれにせよ、これらは前述しましたように「受身」の用法です。 『思われる』を「弱い断定の意味」で使う場合は、あくまで【自分が思う場合だけ】です。 「人々に~と思われる」という構文自体が受身です。 「面白いと思われる=(わたしは)面白いと思う」という意味になりますが、 「人々に面白いと思われる=人々は面白いと思う」という意味にはなりません。 つまり、この文は「人々によって面白いと思われる」という受身の意味にしかならないのです。 「~と思われる」は、#2さんがおっしゃるように、自発・受身・可能・尊敬などの意味を表わすことができます。しかし、 「~と言われている」は受身の用法しかありません。 「~と思われている」の場合も受身の用法にしかなりません。   

awayuki_cn
質問者

お礼

度々ありがとうございます。 >「地球は丸いからではないかと思われる」が「人々に~と思われる」という意味になることもできます。ただ、 「地球は丸いからではないかと(人々に)思われている」のような表現のほうが自然です。 私が質問文に言っている誤解とは、「地球は丸いからではないかと思われる」という文だけ見て、「地球は丸いからではないか【と私が思う】」なのか、「地球は丸いからではないかと【人々に思われる】」なのか、とても判断できないということです。 でも、「地球は丸いからではないかと(人々に)思われる」という表現は「地球は丸いからではないかと(人々に)思われている」という形でない限り、不自然な日本語だとおっしゃっているので、今後「地球は丸いからではないかと思われる」だけ見たら、「地球は丸いからではないか【と私が思う】」と理解したら無難でしょうか。 何度もしつこく質問させていただいて申し訳ありませんが、どうしても知りたいので、よろしくお願いいたします。

  • thegenus
  • ベストアンサー率49% (330/673)
回答No.8

正しい知識のための質問サイトです。他の閲覧者に影響します。コミュニケーションを目的にしている人は質問者を見て回答を変えますから要注意です。 質問サイト過去スレBA「地球は丸いと思うからではないかと思われる」が「人々がそう思う」の意味になりますか?全くなりませんよ。万人が閲覧するBAですが。 今回も人を見て「弱い断定」にお追従しています。学問サイトに似つかわしくない動機不純です。 なんで「思う」や「思われる」が「断定」の意味になるのですか?思われるは自発的に思うです。断定ではありませんよ。少しでも思ったら弱い断定ですか?詐欺に気を付けましょうね。 軽薄者や詐欺師の手口は甘いのです。詐欺師は自己陶酔の傾向があり自分の考えに甘いです。地球は丸いと思うのどこがみんなの考えになるのですかね。甘い方を信じていたら騙されますよね。甘く閉じたグループは優しげに腐敗します。その馴れ合いで成長などするはずもありません。いざというとき本当に救ってくれる人は、人を見たりしない、芯のある個人主義者です。 一事が万事です。学問的関心や文芸に興味がないと悪びれもせず宣言している人が学問カテの回答者では大矛盾ですが詐欺師は平気なのです。自分の動機に矛盾していなからです。芯のない人らです。浮わついた投稿行為者です。 今後も動機不純は続くでしょうし正解を歪める参加者でしょう。 理解しがたいとおっしゃられる自発の感覚とは、極論すれば無責任思考です。発言者になりたくないのです。発言者は責任者になります。代弁者になりたいのです。たとえ自分の考えでも。また同時に自分の考えを言うのは菊と刀的にも不道徳にされています。 みんなそう思っているかを調べてもいないのに卑怯にもみんなの名を借りて発言する集団根性・イジメ根性です。卑怯者は一人で言動しないのですね。そういう長年の習慣から日本人は自分が考えているそれさえも他人事のようにあいまいに認識するのです。あいまいは金(一番)なのです。 自分の思考なのに、私はそういう人じゃないのかなの感覚はあるでしょ。それに近いものがあります。 主語を決めなければ構文できない母語であったのなら、こんな思考の民族にはならなかったでしょう。淡雪さんも注意あそばせ。 この国の人々は、英語に触れた時、英語の潔さに感動を覚えるのではないかと思われます。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.7

#6ですが、若干補足させていただきます。 お示しになっているように、「自発」の意味としては、 「そうしようとは思わないのに、自然にそうなること / 自然に起ること / 自然にまたはひとりでに実現すること」 といった説明がよく見られるでしょう。 「低気圧が接近しており、明日は雪になるものと思われる」 「そろそろ10時になりますので、首脳会談はまもなく始まるものと思われます」 という2つの例で考えてみましょう。 これらは、 「低気圧が接近しているのだから、明日は雪になると、誰もが自然に思うことだろう」 「会談開始の時間は10時と発表されているのだから、首脳会談はまもなく始まるはずだと、自然に、誰もが思うことだろう」 というニュアンスになります。 ご質問の、 「考えてみればこれも、地球は丸いからではないかと思われる」 という文の場合、たとえば、 「水平線の向こう側にある陸地が見ることはできない。考えてみればこれも、地球は丸いからではないかと思われる」 のような状況が想定できます。 つまり、 「水平線の向こう側にある陸地がえないのだから、(そのことを考えてみれば、)地球は丸いからではないかと、誰もが自然に思うことだろう」 といったニュアンスです。 以上が、「自発」の意味に関する補足です。 しかし、わたしは「弱い断定」とするのが妥当だ、と前回述べました。 それはなぜかというと、 『誰もが思うことだろう。しかし、他の人と同様に、わたしもそう思う』 という自己主張のニュアンスが、かなり強い表現だと思うからです。 しかし、他の人の考えや感じ方を想定している点で、自分独自の見解にもとづき、自信をもって強く断定しているわけではない。 この意味で「弱い断定」と言ってもよいのではないだろうか、ということです。 腑に落ちない点は、さらに補足なさってみてください。   

awayuki_cn
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 「自発」という文法はうまく身につけていないと思います。 大学時代に使っていた教科書でもう一度調べてみました。 日本語に訳してみます。 ご参考になさってください。 ___________ 中国語の「思わず」にふさわしい。 自発になれる動詞はほとんど感情と関係がある動詞である。 A.両親からの手紙を読むと、国のことが思い出されます。 B.もう春が近づいていたように感じられます。 C.わたしもそんなふうに考えられます。 __________ でも、婉曲的な意味になるのは触れておりません。 「思われる」の例もあげられませんでした。 あげて下さった例の「と思われる」は「誰もが自然に思うことだろう」という意味になっているようですが、教科書の例はぜんぶ一人称の例です。 いまは「思われる」は「弱い断定」(つまり弱い「思う」の意味)として使うのはもう理解できました。 しかし、これは自発という文法現象に属するという皆様のご見解にはまだ理解できません。 そして、なぜ弱い「思う」になるのかも理由がよくわかりません。 もう一度ご教授をお願いいたします。

awayuki_cn
質問者

補足

申し訳ありませんが、教科書のなかの一箇所肝心なところを見過ごしてしまいました。補足いたします^^;。 自発についてですが、『動作は「思わず、覚えず」生じた』と教科書に説明してあります。 これは質問文に列挙した『その感覚は「~ように思う」と比べて、より客観性があり、「思わず」生じたのである』という「~ように思われる」という説明と重なった部分がありますね。 「自発」と「思われる」の間にやはりある絆のようなものが存在しているようですね。

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     日本語を勉強中の中国人です。英語カテで経験者の方が多いと思うので、こちらで聞かせていただきます。日本語ブログと中国語版ブログを並行して文章を書き始めました。そこで困っていることがあります。それは、どのブログを先に書くのかということです。  中国語は母国語で日本語よりずっと自信があります。最初は中国語ブログで中国語文章を書きました。それは自分の意味を十分表現できる文章になりました。しかし、その中国語文章を日本語に訳すと、なんだか出来上がった日本語の文章はとても不自然な表現が多いと思います。こういうことは、イコール話をするときに、まず中国語に変換してそれから日本語に変換するというルートですね。しかし、実際外国語を話すときに、直接外国語で考えて話すのだと思います。いちいち母国語経由はしないと思います。  ということで、まず日本語で考えて日本語ブログを書いてその次に中国語に訳して中国語ブログに載せたほうがよいのでしょうか。しかし、これも欠点があります。日本語は中国語より下手で、自分のなかで本当に表現したい意味はまだそれなりのレベルの日本語の表現を身に着けておりません。  私の言っていること、理解していただけないでしょうか。つまり、自分の頭のなかで一番最初にまずある意味ができています。その意味を母国語の中国語で表現するのか、それとも外国語の日本語で表現するのかということです。  どうすればよいのでしょうか。一番最初にどの言語で考えて文章を書いたほうがよろしいでしょうか。同じ悩みを持っておられる方、いらっしゃいますか。  また、質問文に不自然な表現がございましたら、それも教えていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

  • どうしても上手に書けない文があります。(驚くと喜ぶ)

     日本語を勉強中の中国人です。ある作家のある文(sentenceの意味)を読んで、「こんなすばらしい表現もあるんだ! 」と驚いた同時に、「こんなすばらしい表現に巡り会えてとても嬉しいな」と喜んだという意味の文を日記に書きたいのですが、どうしても上手に書けません。私が書いた文はどう見ても冷たい翻訳機械が作ったような感じで、困っております。書き方を教えていただけないでしょうか。よろしくお願いします。 1.その表現が目に止まり、驚いたとともに喜んだ。 2.その表現を目にして、驚いた同時に喜んだ感銘を受けた。 3.その表現が与えてくれる驚きと喜びを忘れられない。 4.そのようなすばらしい表現を前にして、私は驚いたかつ喜んだ。  また、質問文に不自然な日本語がありましたら、ご指摘いただければありがたく思います。よろしくお願いいたします。

  • ほほほ。 という表現。

    いつもこちらの皆様にはお世話になっています。 わたしは、今まで中国の方の書いた日本語の文章を幾つか見てきました。 例えば笑うときの表現として、「ほほほ。」という表現を使う方がいました。 意味はわかるのですが、あまり自然な日本語ではないと思いました。これを中国語に訳すとすると、なんと言いたいのでしょうか、「呵呵」のような意味でしょうか?「哈哈」は大笑いのときに使われるとどこかのサイトでみました。ですから、これを「ははは。」と対応していて、「呵呵」の表現を「ほほほ。」と言い換えていると考えればよいでしょうか? あるいは、日本語の教科書とかに載っている表現なんでしょうか? よろしくお願いします。

  • 「からではないかと思う」と「からだと思われる」

     日本語を勉強中の中国人です。下記の二つの構造では、どちらが断定的な意味が強いのでしょうか。 1.考えてみればこれも、~からではないかと思う。 2.考えてみればこれも、~からだと思われる。  また、質問文に不自然な表現がございましたら、それも教えていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

  • 「反日教育」の定義(中国人よりの質問)(再度)

     日本語を勉強中の中国人です。日本語が未熟なため、前回は質問の意図が正しく伝わらない質問文になっていました。 http://okwave.jp/qa/q8000896.html?pg=1&is …  せっかく回答を書いてくださったのですが、締め切ってしまい申し訳ありませんでした。質問文を書き直しました。日本の皆様、もう一度お願い申し上げます。  中国人が中国で小さいときから受けた教育は「反日教育」であるような意味の日本語を読みました。私は中国で教育を受けたものですが、そうではないと思います。  お伺いしたいのですが、「反日教育」はどのように定義されているのか、教えていただけないでしょうか。それを参考にさせていただきながら、小さいときから中国で受けてきた教育をもう一度見直し、それは「反日教育」であるかどうか自分のこころに聞いてみたいと思います。率直な意見を歓迎いたします。  また、質問文に不自然な表現がございましたら、それも教えていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

  • 長文の分析

     日本語を勉強中の中国人です。日本人著者の本を読んでおります。意味がわからない言葉があるので、教えていただけないでしょうか。  「地球という限りある規模の遊星に住む人びとは、みずからをサバイバルさせていくためには、地球自体をサバイバルさせていくほかはないところにしだいに追い込まれていることに、ようやく気づいたところだ。」  特に、「地球自体をサバイバルさせていくほかはないところにしだいに追い込まれている」という箇所の構造がよくわかりません。「追い込まれている」はどこにかかるのでしょうか。なぜ「追い込んでいる」ではなく、「追い込まれている」なのでしょうか。その受け身の感覚がよく理解できません。「ほかはない」を「しかない」と理解してよろしいでしょうか。  また、質問文に不自然な表現がありましたら、それも教えていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

  • 中国及び中国語に詳しい人に質問です。

    中国及び中国語に興味があります。以下質問です。 1.北京の一般住民と上海の一般住民は会話で意思疎通が可能ですか? 2.テレビは北京と上海では同一言語ですか? 3.日本では外国のどんな辺鄙な地名でも英語読みをカタカナ化することで表現できますが、中国語では全て漢字で表現するのですか?もしそうなら発音にバラツキが出ませんか? 4.中国の大学の教科書は中国語ですか?それとも英語ですか? 以上です。

  • 「似つかわしい」と「ふさわしい」の違い(再度)

     日本語を勉強中の中国人です。本日、「似つかわしい」という新しい日本語単語を習得しましたが、その語感はいまひとつよくわかりません。「ふさわしい」という言葉は知っております。お伺いしたいのですが、「似つかわしい」と「ふさわしい」の違いは何でしょうか。「いかにもハンブルグに似つかわしい黒ずんだビル」のなかの「似つかわしい」を「ふさわしい」に変えたら、ニュアンスが変わるでしょうか。一回質問させていただきましたが、よく理解できませんでした。 http://okwave.jp/qa/q8036444.html  「似つかわしい」は自分では積極的に使えない表現です。もう少し例文をいただけないでしょうか。  下記は中村明の「日本語の語感の辞典」からの引用です。「この感覚はあっている、ここはちょっと違ってあっていない」のようなご意見をいただけないでしょうか。 ________________ ・ふさわしい 釣り合いや適性や能力などの点で条件にぴったり合っている意で、会話にも文章にも広く使われる日常の和語。 地位に~人 役に~俳優 自分に~相手 場に~服装 「似つかわしい」に比べ、外から客観的に判断している感じが強い。 ・似つかわしい 好みや性格などの点でよく合っている意で、会話にも文章にも使われる、いくぶん古風な感じのある和語。 自分に~仕事を探す そのポストに~人物 比較的客観的な感じの「ふさわしい」に比べ、この語はそう判断する主体を意識させやすい感じがある。 ____________________  また、質問文に不自然な表現がありましたら、それも教えていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。