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桜宮高校の体罰について考える
- 桜宮高校の体罰について考える
- 体罰をめぐる意見は分かれるものの、桜宮高校の場合、他の選択肢もあるのではないかと考える
- 社会に出ても同じように思うが、体罰の是非は意見が分かれる
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質問者が選んだベストアンサー
「個人の価値観」で許される範囲と、「共有せねばならない価値観」を、混同しているのでは?と感じます。 「教育論」的な体罰の有効性などについて、「有り・無し」は、お好きに考えて下さい。 私も「皆無では無い」とは思いますし、許される範囲はあると思ってますよ。 従い、質問者さんの考え方に、どうこう言う気も無いし、そもそも、たとえ言ったところで無意味ですからね。 「体罰はアリ」と言うのは、質問者さんの個人の価値観に帰属する範囲であって、日本は思想の自由などが認められていますので。 質問者さんが「自分はアリだと思う」は、質問者さんの中では絶対的なモノであり、他人にどうこう言われる筋合いでは有りません。 一方、行為としての体罰は、「教育論」では無く「法律論」です。 法律論に基づけば、我が国では「違反行為」でしかありません。 教育法上、体罰は認められていませんので、法律上は、街中でチンピラに殴られたのと同じく、暴行罪や傷害罪が適用される可能性がある「犯罪行為」です。 ここは「議論の余地は無い」です。 後は、それを承知で、行為面で確信犯的に「自論を貫くかどうか?」に過ぎません。 貫けば、場合によっては、戸塚宏氏の如くワッパを掛けられます。 基本はそれだけですよ。 価値観は様々で構いませんが、法律は共有すべき価値観であって、これに反した場合は処罰されます。 質問者さんが、自論を合法的に貫く術は無く、貫くには法律改正せねばなりません。 社会も基本は同じです。 確かに社会は厳しいですけど、無法地帯ではなく、やはりルールがあります。 法律内なら、如何に悪質であっても許容されますし、法律外であれば、如何に愛を持って接しても、訴えられたらアウトです。 また、自殺に対する考え方や認識が甘いと思いますよ。 一部の違反(犯罪)行為は、相手の価値観のみで決定されます。 質問者さんは、多少のパワハラなどは我慢し受け入れるタイプなんでしょうけど、それをスタンダードにすれば、違う人には訴えられる可能性があると言うことですよ。 どんな酷いパワハラを受けても、それを教育や指導などと受け止め、耐え抜く人もいますが、善意で「今日もキレイだね」とホメただけで、「セクハラだ」と騒ぐ女性もいます。 体罰や暴力・イジメなども、パワハラやセクハラと同じです。 アウトとセーフの境界は、受け手側の価値観や感受性で、一方的に決定されると言うことです。 更に、それに対しての反応や行動も、受け手側に一任されます。 どこまでも我慢する人がいる一方で、スグに騒いだり訴える人もいますし、中には学校や会社を辞めちゃった理、最悪は自殺する人もいると言うだけのことですよ。 質問者さんが「ほかの手段をとればいいだけ」と思ったところで、全く無意味です。 上述の、私が質問者さんに「言ったところで無意味」と同じですよ。 私が質問者さんの思想などを自由に変えられないのと同じで、質問者さんには、他人の思考や行動を、質問者さんがコントロールすることは出来ないですからね。 質問者さんが、「そんなコトで・・」と思う理由で、「自殺する人が存在する」だけが事実です。 いくら「自殺はするな」「ハイ判りました」などと会話しても無駄です。 それでも自殺する人は、しますから。 四六時中、監視下に置くなどすれば別ですが・・・それでも留置所だか拘置所の中で自殺しちゃった例もありましたね。 おまけに言っておきますと、自殺の厄介さは、自殺を決意した人間に対しては、強制力・抑止力が乏しい点です。 「会社を辞めよう」と思ってる人間に、「クビ!」は脅しにならないと言う理屈です。 「もし自殺したら、殺すゾ!」なんて言うオドシ文句は、笑い話ですが、人間にとって「殺すゾ!」以上のオドシ文句も余り無いワケで、殆どのオドシなどが効かない相手を説得し、納得させねばならないのです。 法律で自殺を禁じたところで、ほぼ無意味です。 実際、古今東西で、自殺を禁じる宗教律はありますが、法律は少ないんじゃないでしょうか? 「もし自殺したら、その家族は皆殺し!」みたいな法律でもを作れば、多少は抑止力が働くとは思いますが・・。 自殺は、事前に原因をピンポイントで把握して、それを確実に取り除いてやらねばならないのですが、現実に、最も近いところで、長年、日々接している「家族」が防げないのが自殺です。 如何に親身であろうが、他人の一介の教師などに、防げるハズがありません。 「ある人にとって自殺原因になり得ることを行った場合は、ある人は自殺する可能性が高く、それを防ぐことは難しいだけのコト」と言っても良いです。 「自殺」と、体罰の正否などに関する「質問者さんの考え」などとは、全く無関係ですから、教育論的な体罰論と自殺を関連付けて答えを得ようとしても、正しい答えなど得られないと思いますよ。 その前提で、一度、ご再考なされば如何でしょうか?
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- hakka77
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質問者さんのように、受ける側の学生にも、 ある程度のきつい指導を求める状況があるのは確かです。 競技をしてるものとして、教師も生徒も「勝ちたい」という思いは同じですからね。 ただし、教師と生徒という関係、 部活動というものと目的意識の共有によって出来上がっている、特殊な状況という理解が必要です。 極論でいうと、単純にこの先生だけが悪いとはならないかもしれません。 ただ、社会に出ても同じですか?そんなことないですよね。 普通に傷害事件です。 もしくはパワハラやDVなどで訴えられる話です。 あと、暴力だけじゃないんですよね。 たとえば、グランドを10周走らせる。 遅かったので、50周走らせた。 さらに遅かったので、100周走らせた。 10周なら指導でも、100周とか死んじゃいますよね。 きつい指導と体罰のきちんとした線引きが問題になっているのです。 体罰が間違っているということは、間違いないのです。 それと、質問者様のおっしゃっていることは、 亡くなった生徒さんの選択が間違いだったと言っています。 それはそうかもしれませんね。 でも、体罰が間違っていないという理由にはなっていないと思います。 部活動は学校の教育活動の一部です。 塾や戸塚ヨットスクールならまだしも、 教育現場で「体罰が嫌ならやめたらいい」そういう理論にはなりえません。
- jacta
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まず最初にいいたいのは、どんな事情があるにせよ、自殺するのが一番悪いということです。 これは法律上の話とかではなく、人の道に反しているという意味です。 体罰の是非については、状況もありますし、程度もあるので一概にはいえません。 大手マスコミの報道は、捏造・偏向が常態化していますし、警察の発表もあてになりません。学校の主張はなおさら信用に価しません。 ですので、外野で「ああだ、こうだ」と騒いでみても仕方がありません。
- localtombi
- ベストアンサー率24% (2911/11790)
要は、生徒が自殺したから体罰悪となっているだけで、もし自殺などしなかったら強豪校に押し上げた教師は英雄視されていたでしょう。 元々体罰が悪かったら、自殺などする前に(たとえ強豪校になっても)誰かしらから意見が出て自粛したはずです。 何もいえない雰囲気は、実績がそれに付いてきたから言えないのであって、そこには体罰があってビシビシ叱咤してきたからここまできたという意識がどこかに働いていた証拠です。 体罰と言っていますが、こういう方法ですごいチームが出来上がった事実を全く無視しています。 社会に報道するなら、両面を出して判断を仰ぐべきかと思います。
- E-1077
- ベストアンサー率25% (3258/12620)
間違っていると思います。 一個人である「生徒」に対して、大義名分があったにせよ、「体罰」でなくてはならない理由はありません。 他に方法があるはずです。 感情に負けているのは教師の方です。 確かに、体罰に耐えてまでも得られる物があったと思う人もいますし、私もそう思いますが、でも一方でそう思わないと自己否定になるのでやっていられない・・・というのはあります。 体への直接的な暴力と言葉の暴力と、どちらもいけない事です。 「注意」や「技術向上のためのアドバイス」とは違うと思います。 部活を辞めるって「スポーツ推薦」などで入学していた場合はかなり難しいですよ。 スポーツクラスなどは特にそうです。 怪我でもしないかぎり、精神的にきつい・・・というだけでは逃げ道がないのが実情です。 巧くやっていても「キャプテンだから・・・・殴られる」状況だったわけで、今回は彼自身の問題では無いようですよ? それでも「容認」しますか・・・・。 まあ、私が親なら死ぬ前に「学校辞めていいよ」というでしょうけれど。殴られてまで通学する必要はない!とはっきり止めるかも・・・・。できれば止めたいな。 体罰が嫌って・・・・。好きな人っています? 「許容」は出来ても「殴って貰いたいから行く」ひとはごくまれであって、マゾだと思いますが・・・・。
- ponta1971
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これは、質問者さんが体罰を見てきただけで、されていないから言えることだと思います。 実際に、数十発も殴られ続け、口から血を流し顔が腫れてもそのようなことをいえますか? また、桜宮の場合、体育科では部活に必ず入らなくてはならず、他の部活に移動も難しいそうです。 退部=退学となる状況ではやめたらいいだけの話とはならないでしょう。 体罰はいやで二軍に落とされた場合、顧問がそう認めるわけが無いので表向きは実力が無いので落とされたとなるでしょう。 そうなれば大学等で有力なクラブでプレーすることはほぼ不可能となります。 このような状況で、自分に指導力が無いから生贄を一人作り、暴力を振るいまくることで他の生徒も恐怖で縛りつけた卑劣な人間が顧問をしていたということです。 体罰はあってもいいとは思いますが、体罰と暴行は別物だと思っています。 体罰は、ほかの人に殴るなどの暴力を振るったり、万引きなどの犯罪を犯し、口で言っても改善しない場合にはありだと思います。 なんでもかんでも、自分の言うことを丸呑みさせるために殴る蹴るは暴力であり、指導ではありません。 質問者さんの場合、自分に非が無いのに殴られたらどう思うか、もう一度考えてみたらどうでしょうか。 スポーツや勉強でうまくできないとかわからないというのは非があることにはなりません。 指導者はうまくできるように、分かるように教えることができてこそ指導者と呼べるのではないでしょうか。
- usagidoshi7gatu
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私は体罰は間違っていると思います。 体罰以上に効果的な指導方法は沢山あるからです。 人は、中庸・ちょうど良いバランスの中でしか成長しません。 ですから、体罰を行っても人は成長しません。 >桜宮の場合であったらバスケがやりたいのであれば、Bチームでもいいと思います。 >プロになりたいのであれば、大学でも出場が可能だと思います。 >体罰がいやならうまくなればいいだけの話だと思うのです。 >要は生徒側は何も考えず、ただただ体罰がいやだから自殺したように思えます。何か一つの目標には多くのルートがあるので>すからほかの手段をとればいいだけと思いました。 せめて、ニュースを詳しく読んでから質問を書きませんか? ==== 両親によると、生徒は自殺5日前の12月18日、口から血を流して帰宅した。練習試合の際に顧問から10回ほど顔をたたかれたという。異変に気付いた母親(44)が声をかけると、生徒は主将を務めることや体罰への悩みを打ち明けた。しかし、生徒は「部員の信頼を失うので、『キャプテンを辞めたい』とは言い出せない」などと漏らしたという。 翌19日の練習試合の応援に駆け付けた母親に対し、顧問は「キャプテンを辞めさせようと思っている」と声をかけ、生徒から悩みを聞いていた母親は「すぐに辞めさせてもらってもかまいません」と答えたという。 しかし、主将交代はないまま22日の練習試合を迎えた。 帰宅した生徒は「試合に負けたよ」と話したが、なぜか表情は明るかった。心配した母親が体罰の有無を何度も尋ねると、「やっぱり今日もだいぶやられた。試合中も含め30~40回殴られた」と明かした。 ==== 本人や親御さんは、体罰に耐えきれず辞めようとしていたのです。 そこをまた、追い詰めるように体罰を加えたのであれば、追い詰めて殺してしまったのと同じです。 人を追い詰めて、自殺してしまうような体罰を肯定するのは、酷く不適切な意見だと思います。
犯罪である以上、正当化されない。
- borg121
- ベストアンサー率6% (363/5466)
唇が切れて、顔が腫れ上がっていたらしいですが!
リーダーとして他の生徒の信頼も受け、責任感を持ち、同時に相応のプレッシャーにも苛まれる。 辞めたいと言った時の周りの評価はどうか、信頼はどうなるのか、ここで逃げてしまっていいのか。 恐怖、迷い。 体罰がなくたって、「嫌だから部活やめます」なんてリーダーを任されるような人物が言えるでしょうか。 ・ただただ体罰がいやだから 30発、40発殴られるのが体罰ですか…。顔の形が変わって親が気づくくらいの暴力が体罰ですか…。 私はすでに虐待に思えるんですけど。
- kamobedanjoh
- ベストアンサー率27% (1021/3686)
体罰を正当化しようとする 君の頭が間違っている。
お礼
そうですね。 いろいろと最近考えることが多くてこのような質問をしてしまいました。申し訳ございません。 key00001さんがおっしゃられるように「個人の価値観」で許される範囲と、「共有せねばならない価値観」もう少し深く考えて見ることにします。 大津のいじめ問題、今回のバスケの体罰問題は私は強豪校ならば日常茶飯事では中と思っていましたし、友人の多くは同じような意見だったので、何故こんなに騒いでいるのだろうと感じており、質問することにしました。 私事ですがこれから就職活動が始まり、非常に大きな覚悟を持ちながら望んでいます。プロアスリートと呼ばれる人たちになるためには高校の頃からもうすでにこのような感覚を持ちながら生活し、練習に励んでいると思っていましたし、そのようなプレッシャーの中では、生徒同士のいじめも生まれるし、その生徒たちを束ねるためには行き過ぎた体罰も必要ではないかと考えていました。 「個人の価値観」で許される範囲と、「共有せねばならない価値観」もう少し深く考えて見ることにします。