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鎖国の通告

hekiyuの回答

  • hekiyu
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回答No.4

江戸幕府は、海外との貿易を統制し、キリスト教を禁止するという対外政策を進めました。 長崎をはじめ、薩摩・対馬・松前の「4つの窓口」を通して海外交流がおこなわれました。 だから鎖国というのは正確ではありません。 この「鎖国」という言葉ですが、1690年から2年間長崎出島に赴任した ドイツ人医師ケンペルが、著書『日本誌』のなかで、 「日本は国を閉ざした状態」と表現しました。 その著作のオランダ語版を、江戸後期の1801年、長崎通詞であった志筑忠雄が 「鎖国論」として和訳しました。 こうして江戸時代の日本は国を閉ざした「鎖国」だ、 という認識が江戸時代の後期に生まれ、 広まっていったのです。 このように、日本政府が正式に鎖国という言葉を使ったことは ありません。 だから伝えるようなことはしません。 また、中国や朝鮮とは貿易をしていました。 長崎には、唐人屋敷が設けられており、そこを通して 貿易をしていました。 朝鮮とは対馬藩が貿易の仲介をやっていました。 朝鮮の釜山には倭館が設けられ、500人の日本人が 朝鮮との交易の仕事をやっていました。 尚、将軍の代が変わると、朝鮮から通信使がきて挨拶 するのが習わしでした。 幕府が正式に交易をしていたのは朝鮮だけです。 ポルトガルなどへの通告は、妻子を追放し船長に 二度と来るな、という形で行っています。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >ポルトガルなどへの通告は、妻子を追放し船長に二度と来るな、 >という形で行っています。 質問文が拙かったですが、私の知りたいのはこの一点です。 「妻子を追放し船長に二度と来るな」と言えば、当時のことですから、それで通告(命令と言った方がよいかも知れませんが)したことになると解釈しています。 妻子を追放した例、船長に二度と来るなと言った事例を知りたく、質問しました。

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