• ベストアンサー

京都人はどこまで知っているか?

princelilacの回答

  • ベストアンサー
回答No.9

>もし会津藩が治安維持していなかったら今の京都は存在しない こう断言できる根拠はなにですか?補足してください。 会津藩が京都を舞台に歴史に登場するのは (1)京都守護職に任じられた。 (2)新選組を配下において京都の治安維持と、尊王攘夷派の取締りをした。 (3)禁門の変で孝明天皇を奪取しようとした長州藩勢から御所を守り抜いた。 以上の三点ですが、維新後まもなく新政府軍に降伏しました。朝敵とみなされた会津藩の幕末の功績が、京都の発展として今も残っているとは思えません。後学のため、仮説が正しいと思えるように理由をつけて補足してください。

goldman63
質問者

お礼

当時、わが国が不測の事態に陥ることになっていた時に、一歩手前で回避された、それがあなたの言っている禁門の政変です、当時前後して、長州は何としても孝明天皇を拉致、あわよくば殺害しようとしていた、そう!国家の転覆です、これが実際に起きていたら現在の日本はありませんよ、当然、ノータリンな徳川慶喜などは用無しとして、すぐ殺されていたでしょう、あとは推して知るべし!政変後、孝明天皇は松平容保に御しんかん、感謝の書文を渡しています、いかに孝明天皇が松平容保<会津藩>を頼りにしていたかが分かるというもの、後の薩摩、長州達に天皇家が断絶させられていたら恐らく、大東亜戦争など交えなくても早くからアメリカに国を乗っ取られている事でしょう、それと会津藩の功績は優秀な人材を輩出する事により京都のみならず、全国に多大な功績を残しています、ちなみに同志社大学の創立者は新島譲、新島八重子<旧姓山本>、山川兄弟の山川健次郎は東京大学の総長を二度務めています、秋月悌次郎は熊本大学の創立に貢献して確か二度、三度と学長を務め小泉八雲から<神様のような人だ>と、言わしめた、とりあえずこんなとこですかな。

関連するQ&A

  • 新撰組について

    京都守護職を拝命した松平容保は、新選組をつかい倒幕志士をかたっぱしから切り捨てるという暴挙に出ています。この中には脱藩浪士や長州藩士だけではなく、れっきとした他藩の藩士も含まれています。 当時の常識で言えば松平容保に他藩の藩士に対する切り捨て御免の権利はなく、他藩の藩士はいったん捕縛し該当藩に引き渡すか老中に伺いを立て処分をするまでが妥当かと思います。 さてこの暴走は松平容保の暴走なのでしょうか?それとも慶喜の指示による行為でしょうか?

  • 松平容保について

    松平容保について 意見を聞きたいです (1)松平容保は、家臣たちが反対したのに京都守護職についた。東北の藩が、わざわざ京都に行き、莫大なお金がかかり、武士たちも必要になって、藩が貧乏になるのは分かっているのに、藩主なのに、なぜ断らなかったのか? (2)容保は、当時京都の町に吹き荒れていた天誅の嵐を食い止め、とても過激な行動をしていた長州藩を京都から追い出したりして公家や孝明天皇からは絶大な信頼を得ていたと思う。信頼を得るために、京都守護職についたのか? (3)孝明天皇が死んでから、倒幕の動きになる長州藩を中心に敵視され、でも将軍家に格別な忠誠心を持っていて最後まで抵抗し続けたわけを知りたい。(家訓以外で) (4)容保は、時代の流れを読めていなかったという見方もできるが、主君をとても真っ直ぐに思っている人だとおもう。 (5)この人は、幕府をどう思っていたのか? (6)この人は、何がしたかったのか? いろいろな人の意見聞きたいです。よろしくお願いします。

  • 松平容保はなぜ自らの命を引換にしなかったのですか?

    大河ドラマ「八重の桜」を楽しんで観ています。 ドラマの松平容保は、家臣思いで、聡明な殿様として描かれています。 ドラマが真実だと思っているわけではありませんが・・・。 松平容保は、なぜ恭順和睦の条件に自らの命を代償にしなかったのでしょうか? 戦国時代の敗戦処理では、城主の切腹が和睦の条件だったりしますよね。 会津藩は重臣のひとりが城主の肩代わりで死んでいます。 容保の会津戦争後の行動を調べると、戦争責任は感じているように思えるのですが・・・。 どなたか教えていただけないでしょうか。 よろしくお願いいたします。

  • 『葵の紋』を使用できた松平家は、会津と越前以外に?

    家紋に『葵の紋』を使用できた松平家は会津藩と越前藩以外にありますか? 家紋に『葵の紋』を使用できた松平家は会津藩と越前藩以外にあるかどうかを教えてください。 もしあれば、それは何藩なのかを教えてください。

  • 会津藩について

    会津藩ってよく悲劇だの、義、会津魂や徳川家に最後まで忠誠だっただと会津藩って美化されすぎていませんか? 戊辰戦争での会津戦争って初めは 「会津藩は恭順していたけど、新政府軍から無理やり攻められたから仕方なく戦った」というのを聞いたのでそれを調べもせずに信じてたのですが、いろいろ調べると実際は会津藩側にも問題が ありますよね。朝命に従い軽装して京へ行こうとする慶喜に対して興奮する会津藩、桑名藩、旧幕府軍が薩摩を成敗することを慶喜に求めて、抑えられなくなった慶喜が攻撃を許可して会津藩、桑名藩、旧幕府軍は武装して京へ進軍。新政府軍の薩摩に説得されて薩摩に寝返る藩もいたために、旧幕府側は敗北。 旧幕府に味方した藩や慶喜は朝敵に。ただしすぐに恭順すれば、寛大な処置で済むように告げると桑名藩や旧幕府に味方した藩は恭順、大阪城にいた慶喜も完全恭順を決めて、開戦責任について謝罪、家名を残して欲しい、会津藩や桑名藩含めた家臣を許して欲しいと謝罪。しかし、会津藩だけは自分たちは無罪だと主張。容保は当時、慶喜と一緒に大阪城に逃げていたとはいえ、会津藩の藩主として責任を問われて出頭命令を新政府軍が出すも それに応じず。新政府軍は会津討伐を決定するも、今からでも謝罪すれば、寛大な処置もあり得ると会津藩に求めたものの、会津藩は謝罪拒否の返事を出す。 会津藩は天皇に対して恭順を示すも、新政府軍の権威は認めていませんでしたし、裏では不審な行動ばかりをとっていて、他の藩に嘆願運動を頼んでおきながらも自分たちは戦争のために庄内藩と同盟を結んでいます。最終的には会津藩が新政府軍の占領地を奇襲したことで会津戦争が始まってます。会津藩側にも降伏派はいましたが、会津藩の抗戦派に藩主の命だと嘘を言われ多くが切腹しています。 当時の会津藩には降伏の文字はなかったというのもはっきりわかっています。戊辰戦争研究家も会津藩側の書類には一切謝罪 や恭順の文字がなかったと言っています。 池田屋事件についても志士側の京都の火の海計画である「祇園祭の前の風の強い日を狙って御所に火を放ち・・・」というのも これは今の研究では新選組による陰謀の可能性が高い事が わかっています。 新選組の行動の辻褄が合わないようです。また志士側の 持ち物にもそのような道具はなく、木戸の日記にも 仲間を救出するためとあります。 京都の観光サイトだと京都に長年住んでいる人からしたら 祇園祭の前に強い風が吹く事がありえないことくらいわかるから 無謀な計画。新選組による陰謀だと言っています。 そもそもこの京都の火の海計画って信憑性自体がかなり低いものなんですが、なぜかこれが真実かのように広まっていますよね。新選組は計画を阻止したなんて言われていますが。 2020年に大学講師が新選組が村に分宿「生活に迷惑」 という内容である豪農日記を分析しています。 2013年には会津藩と庄内藩が幕府から防衛のためと言われて譲渡された蝦夷地を担保にしてドイツから軍資金を得ようとしていたのが明らかになっています。北海道新聞にも大きく掲載されました。これって孝明天皇を裏切る行為とも言えますよね。容保は鳥羽の戦が始まった後に、藩主を辞職しているので、容保が関わっているのか、容保が辞めた後に会津藩が勝手にドイツと交渉をしたのかはわかりませんが。脱藩した水戸藩士を使って略奪行為をしたり、戦争のために町民から財産の没収したり、農民に対しては米も奪っています。 容保がいない会津藩は好き勝手やって暴走してるようにも見えます。 あれだけ新政府軍から埋葬を禁止されただのと言われていたのに2016年に会津若松市で戦後の一週間後に政府の命令で埋葬された証拠が出てきています。福島県郡山出身の歴史家の野口さんが言うにはそもそも埋葬が禁止されたとか長い間放置されたなんていう証拠は ないみたいです。小説やエッセーで使われるようになってそれが 広まっちゃったとか。 皆さんはどう思われますか? 別に会津藩自体が嫌いなわけではないです。

  • 今日の「土方歳三 最期の一日」で

    土方歳三の回想シーンで、会津藩主松平容保と斎藤一と土方歳三で近藤勇の墓標?を立てていましたが、やはりあれは演出?なのでしょうか。それとも実際にあるのでしょうか。見ていて、おや?と思ったので・・・ 細かいことですが、よろしくお願いします。

  • 徳川家と長州の因縁。

    今更ながら 去年の大河ドラマ「新選組!」についての 質問です。 ドラマの中で 長州藩士久坂玄瑞が「徳川幕府ができて200年余恨みこそあれど、恩に感じたことは一度もない!!」と言っていましたし、 八月十八日の政変の時に 会津藩主松平容保が 「数百年の時は経てまた戦うことになるとはな」 と言っていました。 長州と徳川家の間では昔から因縁のようなものが あったのでしょうか?? 長州が倒幕に向かった流れもそこからきたのか、、、 わかりません。 どなたか教えて頂ければ嬉しいです!!

  • 幕末 京都守護職 会津藩の服装や情報

    急遽京都守護職(会津藩)の情報が必要になり、 自分でも調べてはいるのですがあまり詳しい情報に巡りあえず困っています。 特に当時の会津藩の服装などが分かる方、もしくは色や服などの詳細が書いてあるサイト様がありましたら是非とも教えていただきたいです。 因みにウィキなどは参考にしましたがもっともっと内部的に詳しい情報や 当時の会津藩士が着ていた服装などが分かると助かります。 私自身、着物や歴史に疎く、本当に困っています。 (衣装を揃えなければいけないのですが、出来れば忠実に再現したいと思っています。) よろしくお願い致します。

  • 戊辰戦争で負けた大名は何故死なずに済んだんですか

    会津藩の松平容保を始め、仙台藩主も米沢藩主も領地を没収されるも 最終的に江戸で普通に暮らしてますよね・・・・ 1.何で新政府は賊軍の藩主全員を打ち首にしなかったんですか? 2.室町時代後半から江戸時代までは負けそうになった時、相手に首を  獲られる前に自害して城に火を放ったりした様ですが、幕末では謹  慎生活や降伏で終わり普通に生活してるんですか

  • 坂本龍馬暗殺事件の犯人について

     長文ですが、坂本竜馬暗殺について質問させてください。  私は歴史については素人ですが、興味があっていろいろ勉強している者です。特に幕末の坂本竜馬暗殺事件の犯人について興味があるのですが、私個人としてはやはり会津藩が黒幕で、松平容保が見回り組に指示して実行させたと思うのです。他にも紀州藩説や薩摩藩説、新撰組説などがありますが、以下の理由で違うと思います。 (1)紀州藩説  いろは丸との衝突事件で後藤象二郎や坂本竜馬との交渉で8万両もの賠償金を払わされた腹いせとの説ですが、大金には違いないものの、所詮個人の金ではなく藩の金なので暗殺するほどの強い理由があるとは思えない。記録を見ても紀州藩としては早く金を払って一件落着したい向きがあり、いろは丸事件をほじくり返すようなことはしないはず。 (2)薩摩藩説  武力倒幕派の薩摩としては穏便に解決したい坂本竜馬の存在が邪魔になって暗殺したとの説ですが、確かに坂本竜馬が邪魔だったとしても西郷隆盛と龍馬は個人的に親しい関係にあり、「殺してしまえ」とまではいかなかったと思う。それに薩摩藩は寺田屋事件の時にいち早く龍馬の救出に出向いており、薩摩藩と龍馬の関係は悪くなかったはず。 (3)新撰組説  暗殺の時に伊予言葉で「こなくそ」と言っており、伊予出身者が新撰組にいるからという理由と、新撰組行きつけの料理屋(瓢亭)の下駄が現場に片方残されていたという理由ですが、新撰組という殺しのプロフェッショナル集団が、そんな間抜けな証拠を残すはずがなく、これは新撰組の仕業にしようとした意図がみえみえだと思います。  少なくとも実行犯が京都見回り組だと仮定すると、やはりその直属の上部組織である会津藩がテロリストとして認識していた危険人物の坂本竜馬暗殺の指示をしたと考えるのが一番自然だと思います。そもそも新撰組の芹沢鴨暗殺を命令したのも松平容保であり、邪魔者は排除しようとした思考回路があったのではと思います。  それと決定的なのは、黒幕が紀州藩にしろ薩摩藩にしろ、見回り組が会津藩以外の藩の命令など聞くわけがないと思います。紀州や薩摩が黒幕だとしたら見回り組に暗殺を依頼したわけで、そんな依頼など断っていたはずです。「そう思うならそちらで勝手にやってくれ」と回答していたはずで、「はいそうですか」と簡単に請け負うはずがないのです。  あくまで私個人の見解なので専門家の方たちにはいろんな意見があると思いますが、私の考え方は方向性が間違っているでしょうか。龍馬暗殺の真相は新しい史料でも出てこないかぎり永遠の謎だと思いますが、私の考え方への意見をいただければ幸いです。よろしくお願いします。