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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《永劫回帰》なる阿呆な考えについて)

永劫回帰についての批判とは?

noname#195588の回答

noname#195588
noname#195588
回答No.11

ショーペンハウアー 意志と表象としての世界  われわれが世界を超克したかの聖者たちに、自分自身の経験のなかで出会えるなどということは、もちろんめったに恵まれないことであろうが、しかし彼らについて記録された物語や、内的な真実さという印象を押されて保障ずみの芸術作品が、かの聖者たちをわれわれの眼の前に髣髴とさせてくれることと思う。そこでわれわれは本初の以上のような仕方に従って、これら聖者たちの生涯や行状を考察して、無にまつわるあの暗い印象を払いのけなければならない。この無こそあらゆる徳ならびに精進の背後に、その最終的な目標としてただよっているものであるというのに、われわれは子どもが暗闇を怖れるように、この無を怖れているのである。 あのインド人たちにしてからが、神話だとか、意味の空っぽな言葉をつかって、梵(ブラフマン)への参入と仏教徒たちの涅槃(ニルヴァーナ)への帰入とかいって、無を回避しているのであるが、われわれはこれを回避することすらしてはならないのである。― むしろわれわれはとらわれなしにこう告白しよう。意志を完全なまでになくしてしまった後に残るところのものは、まだ意志に満たされているすべての人々にとっては、いうまでもなく無である。 しかし、これを逆にして考えれば、すでに意志を否定し、意志を転換し終えている人々にとっては、これほどにも現実的にみえるこの我々の世界が、そのあらゆる太陽や銀河を含めて――無なのである。[1] [1]これこそまさしく仏教徒たちの般若波羅蜜多 Pradschna-para-mita、「一切の認識を超えた世界である」である。すなわちもはや、主観も客観も存在しない地点のことである。 [イサーク・ヤーコブ・シュレミット『大乗と般若波羅蜜多』についてを参照されたし] ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ニーチェ 道徳の系譜 禁欲主義的理想を他にしては、人間は、人間という動物は、これまで何の意味をももたなかった。地上における人間の生存には何の目標もなかった。「いったい人間は何のためにあるのか?」――これは答えのない問いであった。人間と大地のための意志が欠けていた。あらゆる大きな人間の運命の背後には、さらにおおきな<無駄だ!>というリフレーションがひびいていた。何ものかが欠けていたということと、巨大な空所が人間をとりかこんでいたということ、まさにこれこそが禁欲主義的理想の意味するものなのだ。――人間は自己自身を弁明し、説明し、肯定するすべを知らなかった。人間は自己存在の意味の問題に悩んだ。彼はそのほかにも悩んだ。人間は要するに、一個の病める動物であったのだ。 中略 いまや人間は何かを意欲することができるようになった、――何処へ向かって、何のために、何をもって意欲したかは、さしあたりどうでもよいことだ。要するに、意志そのものが救われたのである。禁欲主義的理想によって、方向を定めてもらったあの全意欲が、そもそも何を表現しているかは、とうてい覆い隠すわけに行かないところである。つまりは、人間的なものにたいするこの憎悪、それにもまして動物的なものにたいする、さらにはまた物質的なものにたいするこの憎悪、官能にたいする、また理性そのものにたいするこの嫌悪、幸福と美にたいする恐怖、あらゆる仮象から、変転から、生成から、死から、願望から、欲望そのものからさえも逃れようとするするこの欲望 ――これらすべては、あえてこれをはっきりと規定するなら、虚無への意志であり、生にたいする嫌悪であり、生のもっとも基本的な諸前提にたいする反逆であるだが、これとてもあくまでも一つの意志ではあるのだ! ・・・さて、最初に言ったことを締めくくりにもう一度言うならば、――人間は何も欲しないよりは、いっそむしろ虚無を欲する・・・。

bragelonne
質問者

お礼

 かざみどりさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  この投稿No.11では 引用された文章に即して質問者の応答をしるしてまいります。そのあと さらにやり取りする場があるようですから そこで何がしかまとまった議論ができればと考えます。  ショーペンハウエルは読んでいないので困っていますが 文章に即して考えます。  (1) ▲ 世界を超克したかの聖者たち  ☆ 《世界を超克した》――こんな内容をよく勝手に書くなあと思います。これ以前の文脈には説明がありましょうか。  つまり  ▲ 聖者  ☆ は 自明ではないという物言いです。  (2) ▲ 彼らについて記録された物語や、内的な真実さという印象を押されて保障ずみの芸術作品が、かの聖者たちをわれわれの眼の前に髣髴とさせてくれることと思う。  ☆ おそらくこのことは 《髣髴とさせてくれることと思う》の《思う》に力点がおかれているのでしょう。真偽のほどは 自明ではありません。  あるいは仮りに多くの人びとがそれぞれにおいて あの聖者やこの聖者は 《内的な真実さにおいて世界を――つまりその世俗としての無常もしくは虚無を――克服した》と思ったとしても その中身は依然としてどうなのか。果たして互いに共通の理解であるのか。それは 分かったものではない。と考えます。  往々にして その種の催眠効果にしか過ぎないということがあり得ると考えます。  (3) ▲ これら聖者たちの生涯や行状を考察して、無にまつわるあの暗い印象を払いのけなければならない。  ☆ だとすれば 上のふたつの事項は まえがきだったのかも知れません。  ただし   ○(3-1) 《世界の超克》は 聖者たちの生涯においては 《無にまつわる暗い印象》がただよっている。  と言ったことになる。そのことのほうが へんだ。上の(2)で 聖者たちについての人びとの理解は 互いに共通であり得るか? と問うたことが 何だったのかとがっかりする。  (4) ▲ この無こそあらゆる徳ならびに精進の背後に、その最終的な目標としてただよっているものであるというのに、われわれは子どもが暗闇を怖れるように、この無を怖れているのである。  ☆ えっ? 何だって?   ○(4-1) 聖者たちが世界を超克したその状態においては 《最終的な目的として 無が ただよっている》とは 何のことか?  ○(4-2) 世界を超克した聖者たちの最終の状態には 《無》がただよっているが われわれはこの無を《暗闇を怖れるように》は 怖れる必要がない。むしろ 目指すべきである。  と言っているのだろうか?   (5) すなわち ショーペンハウエルは言う。   ▲ あのインド人たちにしてからが、神話だとか、意味の空っぽな言葉をつかって、梵(ブラフマン)への参入と仏教徒たちの涅槃(ニルヴァーナ)への帰入とかいって、無を回避しているのであるが、われわれはこれを回避することすらしてはならないのである。―  ☆ 何ですって? 《意味の空っぽな言葉を使って》というところは愛嬌として放っておくとして:  ○(5-1) 梵我一如なる状態としての《世界の超克》は 《無を回避している》と言う。それは どういうことか?   ○(5-2) ニルワーナに到ることは 一方で《灰身滅智》ならば そのまま《死》であり《無を回避せず 無に帰する》ことである。他方で 《死》は言葉のアヤだとすれば そのニルワーナにおいて生きることが目的であろうから それが《無を回避している》ということなのか?   ○(5-3) ショーペンハウエルの言う《無》とは 何か?  (6) ▲ 意志を完全なまでになくしてしまった後に残るところのものは、まだ意志に満たされているすべての人々にとっては、いうまでもなく無である。  ☆ ん? ショーペンハウエルくん だいじょうぶか?    ○(6-1) 《意志を完全なまでになくしてしまう》って? ばっかぢゃなかろうか。勝手にしろ。その《後に残るもの》だって? あるわけないぢゃん。  ○(6-2) 《まだ意志に満たされているすべての人々にとっては、いうまでもなく無である》のではなく そうではなく それは狂気というものだ。  (7) ▲ しかし、これを逆にして考えれば、すでに意志を否定し、意志を転換し終えている人々にとっては、これほどにも現実的にみえるこの我々の世界が、そのあらゆる太陽や銀河を含めて――無なのである。  ☆ ええっ?    ○(7-1) 《意志を否定する》ことと《意志を完全なまでになくしてしまう》こととは 別である。後者は 死を死ぬことである。または 完全な狂気の状態である。  ○(7-2) 《意志を転換する》とは どういうことか? ばかやろう! できっこない。そんなことで《世界を超克する》ことが出来るか。出来るというのなら その実際を見せたまえ。  ○(7-3) 《これほどにも現実的にみえるこの我々の世界が、そのあらゆる太陽や銀河を含めて――無なのである》――だから 《無》とは何なんだ? 《意志を否定せず 意志を無くそうとせず 意志を転換してもいない人間にとって 現実の世界が 無常であるなどということは いろはのいである。一般市民をなめてんのか?》  (8)▲ これこそまさしく仏教徒たちの般若波羅蜜多 Pradschna-para-mita、「一切の認識を超えた世界」である。すなわちもはや、主観も客観も存在しない地点のことである。  ☆ こんなものは ただの口先だけ。想像してあそんでいればいいさ。もしそれを実現したと言うのなら みんなに自分の姿でしめせばよいぢゃないか。そうした人間がいままでにいたか?  口先だけだってことは 誰もが知っている。でも 《聖者》さんたちに遠慮して ごもっともですとか ご立派ですとか 言葉では言えないけれどとうとい内容があるように思うとか 《そのえらいブッダさんの姿が髣髴として見える》とか 催眠術にかかってのごとくおべんちゃらを垂れている。のみ。  ニーチェについては 補足欄に移ります。  それにしても これが ショーペンハウエルか。

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄からつづきます。  ニーチェ  (9) ▼ 道徳  ☆ というのは ニーチェにあっては 決して《倫理規範》のことではないようです。    ○ (ヰキぺ:君主道徳と奴隷道徳) ~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%9B%E4%B8%BB-%E5%A5%B4%E9%9A%B7%E9%81%93%E5%BE%B3  君主道徳では行為が「良」と「悪」に分けられるのに対し、「奴隷道徳」では行為が「善」と「悪」に分けられる。  君主道徳の主な特徴は自己肯定、傲慢、主動であるのに対し、奴隷道徳は自己否定、謙遜、慈悲である。  ~~~~~~~~~~~  ☆ というように言って 善悪を判断する《奴隷の道徳》は 倫理のあり方を考え規範としても捉えようとしていると思われますが 《君主の道徳》は《そのように行動した》というその結果をなるべく一般化した概念で捉えただけのもののようです。《成功した》なら《良》 《失敗》なら《悪》という程度のものらしい。  (10) ▲ 禁欲主義的理想  ☆ 《理想》というなら 倫理的な内容をそこに思っているでしょうね。たとえば《思いやり・助け合い・なさけをかける》など。  その《理想》が 《禁欲主義》によって達成される・または目指されるということでしょうか?  ○(10-1) 倫理的な理想――たとえば《愛・慈悲》――が どうして《禁欲主義》によって実現されると思うのか? おかしい。自分の欲望も相手の欲望も活かすように思いやる。あるいは 自分の欲望はほんの少しおのれの余裕に応じて控え相手にゆづる。この倫理的行為において 何で禁欲主義が要るのか? ばかばかしくてやってられません。  (11) ▲ 禁欲主義的理想を他にしては、人間は、人間という動物は、これまで何の意味をももたなかった。  ☆ ふつうに世の中に生きる・人びとと共に生きる このふつうの生活世界にどうして《欲望の禁止》が必要なのか? それは勝手に出家すればよいだけだ。出家したなら その禁欲が守れるとでも思っているのか? 禁欲主義的理想を持たない人間は 人間ではないだと? ばかばかしい議論だ。  (12) ▲ 「いったい人間は何のためにあるのか?」――これは答えのない問いであった。  ☆ 手前が阿呆で 知らないだけ。無根拠において――自然法爾において―― おのれをウンウンと推して社会生活としてよしと思うところを生きるのである。  (13) ▲ 人間と大地のための意志が欠けていた。あらゆる大きな人間の運命の背後には、さらにおおきな<無駄だ!>というリフレーンがひびいていた。  ☆ わっかんない。  (14) ▲ 何ものかが欠けていたということと、巨大な空所が人間をとりかこんでいたということ、まさにこれこそが禁欲主義的理想の意味するものなのだ。  ☆ 《世の中は 自分〔ひとり〕の思うようにならない――それを〈苦 duhkha 〉と表わした。か?――》ことをもって 《何ものかが欠けていた》と言うのだろうか? それならそれで ふつうのことだ。常識だ。  《巨大な空所が人間をとりかこんでいた》というのは 分からない。けれども なんでそれが《理想》なのだ?  (15) ▲ 人間は自己自身を弁明し、説明し、肯定するすべを知らなかった。人間は自己存在の意味の問題に悩んだ。彼はそのほかにも悩んだ。人間は要するに、一個の病める動物であったのだ。  ☆ 勝手にほざいてろ。  ○ 手前が 知らないだけ。無根拠において――自然法爾において―― おのれをウンウンと推して社会生活としてよしと思うところを生きるのである。  というのみ。  (16) ▲ いまや人間は何かを意欲することができるようになった、――何処へ向かって、何のために、何をもって意欲したかは、さしあたりどうでもよいことだ。要するに、意志そのものが救われたのである。  ☆ さよか。  (17) ▲ 禁欲主義的理想によって、方向を定めてもらったあの全意欲が、そもそも何を表現しているかは、とうてい覆い隠すわけに行かないところである。  ☆ もう ついて行けない。何で《禁欲》か? から説明せよ。次にあるかも知れない。  (18) ▲ ~~~~~  つまりは、人間的なものにたいするこの憎悪、それにもまして動物的なものにたいする、さらにはまた物質的なものにたいするこの憎悪、官能にたいする、また理性そのものにたいするこの嫌悪、幸福と美にたいする恐怖、あらゆる仮象から、変転から、生成から、死から、願望から、欲望そのものからさえも逃れようとするするこの欲望  ――これらすべては、あえてこれをはっきりと規定するなら、虚無への意志であり、生にたいする嫌悪であり、生のもっとも基本的な諸前提にたいする反逆であるのだが、これとてもあくまでも一つの意志ではあるのだ!  ~~~~~~~~~~~  ☆ はいはい そうですか。そういう趣味の方々はそういうふうに生きてください。  (19) ▲ ・・さて、最初に言ったことを締めくくりにもう一度言うならば、――人間は何も欲しないよりは、いっそむしろ虚無を欲する・・・。  ☆ ご勝手にどうぞ。  おそらく生きるということについての初めの心つもりが ねじまがっている。そのボタンの掛け違いが すべてだ。  思うようにならないなら そのことをじっくり科学することによって知ればよい。知ることすら出来ないところまで行ったら その大いなる自然史過程をも受け留めなくてはならない。そこで ひとりの人間として出来ることを知って――その世界をすべて引き受けつつ―― 人びととともに生きて行く。のみだ。

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