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当時の偉人は語呂合わせを意識していたのか?
- 当時の偉人は語呂合わせを意識していたか?平城遷都は710年、平安遷都は794年など、ちょうど良い語呂合わせで覚えた記憶がある。645年の大化の改心や894年の遣唐使の廃止、1333年の鎌倉幕府滅亡、1573年の室町幕府滅亡、1639年の鎖国完成など、いくつかの出来事にも語呂合わせがある。
- 実際に当時の偉人が語呂合わせを意識していたかは不明だが、いくつかの出来事に語呂合わせがあることから、意識していた可能性もある。なぜ語呂合わせが重要視されたのか、その背景や意味についても考えられる。
- 当事者の回答も聞きたいとのことなので、当時の偉人や関係者からの回答を求めることも有用かもしれない。そのような情報があれば、より詳しい理解ができるかもしれない。
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語呂合わせは関係無い。後付のものだから。 歴と言えば、天地明察ですねぇ。歴その物が昔は良い加減なものでもあったし。 ただ、陰陽道では天測もされていたようですが、次第に衰退していったのでおかしくもなったようです。 その歴に中で占い的な要素として行動を起こしたりする可能性はあります。神様で北斗七星を神としてみるなど。 和暦も今は陛下が亡くなってと言う形ですが、昔はことある毎に変わっていたようですからね。
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- 川原 文月(@bungetsu)
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>ちょうど良い語呂合わせで覚えた記憶がありますが 当事達はもしかして意識しその年に事を起こしたのでしょうか? そもそも「西暦」が採用されたのは、 明治5年11月9日、太政官布告第337号で、 「今般、太陰暦ヲ廃シ太陽暦御頒行相成候ニ付 来ル十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候事」 が日本の西暦の始まりでした。 太陽暦にも2種類があり、 ユリウス暦 1年を太陽の動きに合わせて365日てする。しかし、実際には太陽の周期は約365.2422日であることから、4年に一度閏年を設け366日とした。しかし、この方法では、約130年に1日ずれることが解りました。 グレゴリオ暦 現在、我々が使用している暦です。これは、ユリウス暦を基にして100で割り切れるが400では割り切れない年は平年(閏年とはしない)とする。というものです。 明治5年の布告では、4年に1回閏年を置くことは記載されていましたが、その後、諸外国の例にならい、「置閏法」が明治31年5月11日に、勅令第90号で、 「神武天皇即位紀元年数ノ四ヲ以テ整除シ得ヘキ年ヲ閏年トス 但シ紀元年数ヨリ六百六十ヲ減シテ百ヲ以テ整除シ得ヘキモノノ中 更ニ四ヲ以テ商ヲ整除シ得サル年ハ平年トス」 要は、グレゴリオ暦と同じにする・・・という布告でした。 では、それ以前はというと、 持統天皇以降暦法は幾度となく改暦され、現在、解っているのは、 元嘉暦・・・持統天皇6年(692)・・・・5年間使用 儀鳳暦・・・文武天皇元年(697)・・・・67年間使用 大衍暦・・・天平宝字8年(764)・・・・94年間使用 五紀暦・・・天安2年(858)・・・・・・4年間使用 宣明暦・・・貞享2年(1685)・・・・・70年間使用 宝暦暦・・・宝暦5年(1755)・・・・・43年間使用 寛政暦・・・寛政10年(1798)・・・・46年間使用 天保暦・・・弘化元年(1844)・・・・・29年間使用 いずれも「太陽太陰暦」(陰暦、または、太陰暦、旧暦とも呼ばれた)です。 つまり、「元嘉暦」とか「儀鳳暦」・・・などと呼ばれていました。 明治5年の学制が施行され学校制度が始まり、全国的な学校教育が開始されました。 そして、それまでの寺子屋などでの「読み書き」「算盤」から、「国語」「算数」「理科」「社会」を教えることとなりました。 この時から、学校の授業の「社会」で初めて「和暦」と「西暦」を併記しての教育が開始されたのです。 従って、明治以前は「西暦」の考え方は無く、語呂合わせは存在しませんでした。 ただ一つだけ、(どなたかが言っておられますが)明和9年に全国的な飢饉や江戸での火災の多発などがありましたので、人々は「迷惑年」と語呂合わせをし、天皇もそのことを憂い「安永」と改元しました。
お礼
そうだつたんですね ありがとうございます
- suicyo
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語呂合わせを意識して何か事件を起こすほど、権力者も庶民も今も昔も諧謔にあふれた生活はしていないと思います。 ただ、語呂合わせを利用してご時勢を評価(批判)した例はあります。明和9年→迷惑な年。 1772年のことですが、江戸三大大火の一つといわれる「明和の大火」が起き、それに続く風水害もあいまって迷惑な年と揶揄され、「安永」に改元されました。
お礼
ありがとうございました 後付けなんですね
誰が何を意識していたとお考えなのでしょうか。お考えの根本に従って考えてみたいと思います。改新でなくて改心ですか。もしかしてイチローは現存の野球選手のことですか。当時はまだ生まれていなかったと思います。またサンキューは日本語が分かって英語も知っている人でないとできない発想です。せっかくですから、ぜひお考えのすじみちを教えてください。また当事者というのはどういう意味でしょうか。
お礼
あ 分からないならいいのです すみませんでした そして ありがとうございました
- atcoffee
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その当時にはまだ現在のグレゴリオ暦、いやユリウス暦のキリスト教暦(西暦)すら伝わってなかったと思います。 ちなみに明治5年に日本はユリウス暦からグレゴリオ暦に切り替えたために1か月ほど短いんですよ。 よって今で言う年号とはちょっと日付がずれていますので年末年始の出来事は年号が違っていたかもしれません。
お礼
ありがとうございました 解決しそうです
- keirimas
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2000年 長嶋さんはON対決を「ミレミアム対決」と意識してその年におこしました。 白紙に終わった遣唐使(ケントウシ)により、ケント紙や画用紙の色はそれ以降「白」に決まりました。 (当事者・菅原道真からの回答;見当違いならすみません)
お礼
剣と牛 も~♪
- kkkkkoa
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だいたい歴史って何年くらいと予想しているだけで、はっきりとした年数ではないようです。 一体誰が何を根拠に歴史の年度を決めたのか不思議です。 普通は何年頃って言うならわかりますが。 しかし、歴史も20年くらい前と全然違うみたいですね。 聖徳太子が実物してなかったかも分からないって言う話だし 仁徳天皇陵も名前が変わってるって話だし 昔のことなど予想ですから、歴史学者が昔の人の落書き見て決めたかもしれないし 歴史は自分はあまり興味ないのもその辺かもしれません ただ科学的に実証されれば興味が湧くんですが。 話が反れてすいません
お礼
そうですね 聖徳太子にされた厩戸皇子がかわいそうです ありがとうございます
- mekuriya
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明治維新以前に西暦など存在しない。
お礼
と あなたは思っているようです ありがとうございました
お礼
ありがとうございました 現代人の考えすぎでした 泣