• ベストアンサー
  • 暇なときにでも

日本古代の宮都変遷はなぜあんなに慌ただしかったのか

はじめまして。 孝徳天皇が飛鳥と難波宮を行き来し 天智天皇は飛鳥→大津宮 天武天皇は大津宮→飛鳥浄御原宮 持統天皇は飛鳥浄御原宮→藤原京 元明天皇は藤原京→平城京 聖武天皇は平城京→恭仁京→難波宮→紫香楽宮→平城京 桓武天皇は平城京→長岡京→平安京 この間わずか150年です。 何故こんな短い間に、各天皇はこうも慌ただしく遷都に遷都を重ねたのですか? なるほど天武天皇などは壬申の乱の影響もあったかもしれません。 ですが他の天皇たちにはいったいどのような理由がったのですか?

共感・応援の気持ちを伝えよう!

  • 回答数5
  • 閲覧数7714
  • ありがとう数10

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • 回答No.2
noname#126371
noname#126371

ん・・・なるほど・・・おそらく孝徳天皇、天智天皇、天武天皇、持統天皇、元明天皇らは特にそこまで大きな理由はないと思います。まぁ、言っちゃえば、「さっぱり」したかったから。 たとえば、あなたも勉強をしていて、何時間も何十時間もしちゃって、その場に居続けると疲れちゃうでしょ?そしたら、「ちょっと場所変えて勉強しよう」って思い、家から図書館、図書館から塾などのように移動すると思います。まぁ、もちろんそれが全部じゃないとは思いますが、そのように新しい天皇になるということは政治の色も変わるはず。そこで、「よし!じゃあ、さっぱりしよう!」と思い、遷都を繰り返したのです。もちろん、元明天皇のときは始めて都を中国の「長安」に習ったため、都を大変革をせざえるなく、「よし!じゃあ、作っちゃえ~!」っていうような理由で作っただろうし、天智天皇のときは「白村江の戦い」に負け、これから新羅や唐に攻められる恐れがあり「やべ・・・拠点変えて守らなきゃ・・・」って思ったのもあるでしょう。でも、まぁ、これらは・・・ね?あまり気にする必要はないとは思いますが。 ただ、聖武天皇と桓武天皇だけは違います。こいつらは大きな理由があるので、今からそれをご説明します。 <聖武天皇> 聖武天皇のご時世、なんと四回も遷都をしていますよね?なぜなのかというと・・・これはある乱が原因です。その乱というのは何なのかというと・・・「藤原広嗣の乱」が原因でした。この「藤原広嗣の乱」とは一体どういうものだったのか? 天皇が聖武天皇になったとき、時の政権は皇族出身である「橘諸兄」という人物でした。それまで、聖武天皇のときの政権は「藤原四子(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)」だったのですが、彼らは天然痘で次々と病死(これは前の政権で、藤原四子によって自殺に追い込まれた「長屋王」という人物の怨念だといわれました)したので、藤原氏の勢力が一時後退したのです。 そこで政権担当になったのが、「橘諸兄」です。彼はもっと都を繁栄させたい、でも僕知識が足りない!ということで、当時唐から帰国した「吉備真備」と「玄坊」という人物を登用したのです。彼らは中国のことも詳しかったし、どのようにすれば都が唐のように繁栄するかをよく知っていたので、とても大活躍しました。 ところが、これに不満を持った人物・・・そう!先ほどの「藤原広嗣」です。彼は誰なのかというと、先ほどやった「藤原四子」の中の一人「宇合」の息子さんでした。彼は当然、このことを面白くないと思っていたのです。何で?だって、つい数年前までは「藤原氏」が政権を握っていたのに、それを「橘諸兄」にとられた上に唐から帰ってきてちょっと物知りな「吉備真備」と「玄坊」が政治で活躍しているからです。そこで、彼は「吉備ちゃんと玄ちゃんって、ちょっと唐から帰ってきて物知りだからっていって、政治のトップにいるけどさ~!実際は何の役にも立たないジャン!あいつらを排斥してよ~!」といって、「大宰府」で反乱を起こしたのです。まぁ、それでも鎮圧されちゃったので、残念ながら藤原氏はもっと政界から退くことになったのです。 しかし、ここで一番驚いたのは、誰か?それが「聖武天皇」です。実は「藤原広嗣」と「聖武天皇」は近い親戚関係にありました。「ま、まさかおじさん(いとこ?)が僕に向かって反乱してくるなんて・・・怖いよ~!」って言って、精神的に不安定になってしまったのか、聖武天皇は恐ろしくなって都を出て行ってしまったのです。親戚が乱を起こしたことがよほどショックだったらしく、その後も落ち着くことができなく、何度も遷都を繰り返した後、結局もとの平城京に戻ったんですけどね笑。みんなからしたら「そりゃないぜ~!」って感じだったでしょう。 もちろんその中で、疫病や飢饉もありそれを全般含めて「社会的不安」が聖武天皇を遷都にいたらす要因となったのです。その結果、彼は仏教によって国を守ろう!いわゆる「鎮護国家」というのに目覚めて「みんな~!大仏作ろうぜ!寺作ろうぜ!」って言って、「大仏建立の詔」や「国分寺建立の詔」を発布したのです。

共感・感謝の気持ちを伝えよう!

質問者からのお礼

みなさま、ご回答ありがとうございました。 非常に分かりやすく、とても参考になりました。 ご回答いただいた内容を頭に叩き込んだ上でもう一度学習をしようと思います。

その他の回答 (4)

  • 回答No.5

基本的な考え方として、都を定めそこに都市を開発し発展させていく考え方自体遣隋使遣唐使が持ち込んだものです。 それ以前は代が変わるごとに権威付けのためにあたらいい宮を建設するのが普通の考えなのではないでしょうか? そもそも天皇になり都に入るのではなく、自分の住んでいた場所・気に入った場所を宮にしてしまうのです。 さらに当時は火事が多く、火事があるごとに縁起が悪いので簡単に引っ越したというのもあります。 150年どころではないです。 どこまでが歴史でどこまでが作り話かはっきりしませんが、天皇家の歴史が始まって以来ほんの数代ごとに遷都を重ねています。それこそ一人で何度も遷都する天皇も居ますし。 ある意味天皇家自体がもともと定住する文化ではなかったんですよ。

共感・感謝の気持ちを伝えよう!

  • 回答No.4
  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15223/32756)

 ある先住民の人と話をしていた時です。  僕「あそこの何とかさんが死んだそうですよ」  先「そうかい」  僕「あそこの家が火事です」  先 (予期していたかのように)「そうかい、母屋、それとも小屋?」  僕「小屋です」  先「そうかい」  これですぐ頭に浮かんだのは、日本の昔の頻繁な遷都でした。先帝を殺した死霊の焼き払いが背後にあったのかも知れませんね。

共感・感謝の気持ちを伝えよう!

  • 回答No.3
noname#126371
noname#126371

No.2のやつです。続いて桓武天皇を見ていきましょう <桓武天皇> 実はここから「平安初期」に入ります。桓武天皇では平城京から長岡京、そして平安京と移っていますね。一体どうしてそうなったのかを見ていきましょう。 さて、桓武天皇はこう考えていました。「う~ん・・・何か世間の人がみんな念仏唱えてんぞ~?なんで~?」。その理由は先ほどの聖武天皇などが影響しています。でも、桓武天皇は結構武力的な性格で、あまり仏教などにそこまで関心がありませんでした。肖像画でも結構そんな顔をしてますよ笑。さて、ここで桓武天皇は「もう仏教なんていやじゃ!仏教があるといろいろと面倒だもん!(反乱とか)」 さらに、彼は仏教があまりにも広まっているために、それ以上勢力が高まり、天皇の存在を脅かすのではないかと考えたのです。実際に、彼の前の天皇であった「称徳天皇」という人物が「道鏡」というお坊さんに、なんと「天皇」の座を譲ろうとしたくらいでした。それでは天皇の権威がいつか喪失しても可笑しくない。ということを考え、天皇権力を高めるために、平城京から仏教の色がない「長岡京」への遷都を計らったのです。 ところが、当然遷都に反対するやからもいます。なんで?それは以前からいた「平城京」には土地もたくさんあり、政治的立場も強い豪族たちが平城京を手放したくないと考えていたからです。でも、天皇には逆らうことはできません。そこで犯人は定かではないのですが、当時長岡京の造営を主導していた「藤原種継」という人物が暗殺されました。彼は桓武天皇の腹心だったので、怒った桓武天皇はその暗殺事件に関与していると疑われた「早良親王」やその他の豪族などを退けました。早良親王はそのまま死んでしまったのですが、そのあと桓武天皇の母や皇后の死、長岡京造営におけるさまざまなトラブルに見舞われました。(これを当時の人は早良親王の祟りではないかといっていました) なかなか、長岡京が完成しない桓武天皇は困っていたのですが、そこである人物が勇敢にも「長岡京は止めて、新しく都をもう一度作ろう!」といった人物がいました。それが「和気清麻呂」という人物でした。桓武天皇はその建議を受け入れて、都を「平安京」に移したのです。 というようなのが、二人の天皇が遷都した理由です。長くなりましたが、以上で解説を終わりにします。

共感・感謝の気持ちを伝えよう!

  • 回答No.1

古代の宮廷は権力闘争が激しくライバルを暗殺したり 自殺に追い込んだりしました。 その結果怨霊が多数生まれ陰陽師といった官職も生まれました。 阿部清明なんか有名です。 天変地異や疫病の蔓延は怨霊の仕業とされ遷都の一因となりました。

共感・感謝の気持ちを伝えよう!

関連するQ&A

  • 日本史ですが、

    日本史ですが、 (1)恭仁京は橘諸兄が指示しましたよね。どうして藤原広嗣の乱の後に遷都しようと考ええたのでしょうか? (2)744年の難波宮・紫香楽宮と745年の平城京遷都はそれぞれ誰が遷都を指示したのですか?

  • 藤原京はなぜたった16年で見捨てられたのですか?

    藤原京は676年(天武5)にはすでに着工しており、 694年(持統8)飛鳥浄御原宮から藤原京に遷都しました。 完成は704年(景雲元)とされています。 これだけ時間をかけてつくったにもかかわらず 藤原京はたった16年で見捨てられ 710年に平城京に遷都しています。 その理由について、藤原京が手狭だったためではないかとも言われていたようですが 最近の調査では平城京よりも広かった可能性もあるとされています。 藤原京はなぜたった16年で見捨てられたのか? ちょっと調べてみましたが、これといった定説はないようです。 あなたはなぜだと思いますか。 意見を聞かせていただければ幸いです。

  • 聖武天皇の度重なる遷都について

    少し似たような質問はあったのですが、少し違うので質問させてください。 奈良時代に、藤原広嗣の乱の後、その力から逃れるために、 恭仁京、紫香宮や難波宮と、何度も遷都を繰り返していますよね? ですが、「都」として、定められていたところと、実際に天皇が 住んでいたところは違うと聞きました。 教科書には「740 恭仁京に遷都」、「745 平城京へ帰る」としかなく、よくわかりません。 下手な文章ですみませんが、ご存知の方いらっしゃいましたら教えてください。

  • 何故 平安京は1200年の都であれたのか?

    古代日本には色々な場所に遷都がおこなわれて来ました 難波京、大津京、藤原京、平城京など… それらは殆どが天皇が変わる度に遷都がおこなわれ ようやく定まったかと思われた平城京も70年余で遷都 しかし最後に都となった平安京は平成の今に至るまで1200年の間 都であり続けて居ます。 桓武天皇が水運の利より怨霊対策として平安遷都をおこなった事は知っていますが それ以降の天皇が平安京から都を移さなかったのは何故でしょうか? 水運の利と言うなら琵琶湖の側の大津や、大阪でも良かったと思うのです 平安京がこれほどの長きに渡って都であり続けた決定的な理由は何でしょうか?

  • 持統天皇とは?

    下記の分は何か間違っていますか? 天智天皇と天武天皇が兄弟だとすると、娘と弟が結婚したことになってしまいますよね? よろしくお願致します。 ●壬申の乱 天智天皇が死去し、息子の大友皇子と弟の大海人皇子が皇位をめぐって争った内乱。大海人皇子が勝利し、天武天皇となった。 ●持統天皇 天智天皇の娘で、天武天皇の妻。天武天皇の死後、即位した。 日本で最初の本格的な都・藤原京をつくった。

  • 持統天皇が藤原京に遷都した理由

    飛鳥→難波宮→飛鳥→大津宮(大津)→飛鳥浄御原宮は、 必然性とまではいかないまでも、理由がわかるのですが、 なぜ持統天皇が、藤原京に遷都したのかが理解できません。 持統天皇の時期は、飛鳥浄御原令を施行するなど、律令体制の整備が順調に進んでいたと思うのですが。

  • 大化の改新、大宝律令の時代について教えてください><

    7世紀から8世紀の日本の歴史についての質問です。 いくつか疑問があるので教えてください>< (1)なぜ難波宮という都が建設されたのか。 (2)大化の改新があったが、なぜこの時代より天皇中心の国家がつくられるようになったのか。 (3)難波宮から藤原京へと遷都?した理由は?(どうして藤原京が作られたのか?) 教科書や資料を探しても載っていませんでした>< 出来れば詳しく説明お願いします。 よろしくお願いします。

  • 元明天皇の父はどなたですか?

    (1)天智天皇 中大兄皇子のこと (2)天武天皇 (1)天智天皇の弟(大海人皇子のこと) 敗:大友皇子 (1)天智天皇の子供 壬申の乱で(2)叔父に敗れる。 (3)持統天皇(女) (1)天智天皇の娘+(2)天武天皇の妻 (4)元明天皇 (3)持統天皇の子供 (5)文武天皇 (4)元明天皇の子供 (6)元正天皇(女) (4)元明天皇の子供 合っていますか? 辞書で調べたら天智天皇の第4皇女と出ていましたが、 (1)天智天皇は自分の娘である(3)持統天皇との間の子供ということになってしまいます。 どこが変なのでしょうか?教えてください。

  • 中大兄皇子の周りの血縁関係がややこしいです

    中学1年の歴史です 中大兄皇子と鎌足が入鹿をやっつけて 中大兄皇子はそのあと天智天皇になりました。 天智天皇がなくなると皇位をめぐり 天智天皇の弟大海人皇子と 天智天皇の子 大友皇子が戦いました おじと甥っ子の戦いですよね?!この乱を壬申の乱 でいいんですよね?! 壬申の乱で勝った大海人皇子は 673年 天武天皇になりました。 天武天皇の死後 天皇の奥さん皇后が 即位して持統天皇となりました。 と 社会の先生が話してくれてましたが 持統天皇って 大友皇子と 言明のきょうだいですよね?! 自分のきょうだいの大友皇子が壬申の乱で負けたのはおじさんの大海人皇子のせいなのに なんでそんな人と結婚したんですか? それもお父さんの兄弟でおじさんなんでしょ? 姪の私とおじさん…… 考えたくないですー(泣) 血縁関係はわたしの解釈であってますか?

  • 壬申の乱・天武天皇について

    壬申の乱で勝利した天武天皇は日本書紀に自分が正統な天皇だと永遠と書かせたのは本当ですか?