神が全てを用意した?クリスチャンの考え方について

このQ&Aのポイント
  • クリスチャンが言う『神が全てを用意した』というのは、自分たちの人生において起こる出来事や運命に対して神が計画し、与えてくださるという意味です。
  • しかし、ただ受け入れるだけでなく、自分自身も努力し変化を遂げることが求められます。神が用意したというのは、困難な状況や試練に直面した時に神の力や導きを受けながら進むということです。
  • クリスチャンの考え方では、神が与えた恵みを受け入れつつ、自己変革や行動をすることが重要視されています。自分で努力をすることで神の計画や目的を実現し、人生を豊かにすることができるのです。
回答を見る
  • ベストアンサー

クリスチャンの方へ質問。神は全てを用意した?

僕も彼女はクリスチャンではありませんが、彼女はキリスト教系の学校の出身です。 キリスト教、聖書の世界に少しばかり興味を持っているそうです。 僕からお恥ずかしながら「愛しています」というと 「『愛』という概念はないんだよ。だから私は『好き』しか使わない」 とあしらわれます。 付き合っていていろんな問題が起こった時に 「あなたも私も、これも神からすべてを用意された運命なんだよ」 と言います。 クリスチャンの友人もたくさんいますし、礼拝に参加したこともあります。 百歩譲って「神が全てを用意した」というのはわかりますが、その上で自分で現状を切り開くという概念が感じられません。 彼女の話を聞いても神が用意したから私はただ受け入れるだけで、それで「合わなければ別れるのも運命」と言います。 自分が変わる努力をしないのかということで何度か口論になったことがあります。 彼女にしても友人を見ても偏っているなぁと感じることが多いです。 「神が用意した」というのは本当はどういう意味なのでしょうか? 自分で困難を切り開こうとしないのですか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.11

神が用意したという意味は、あなたが自分の人生を創りあげて生きていくための舞台を設定(用意)したという意味です。 この物理的宇宙を創ったのは神だし、あなたの肉体、あなたの精神、あなたの魂もすべて神から生まれてきたものです。 神は、あなたに自由意思を与え、あなたがこの物理的宇宙で自分の自由な選択で自分の思うがままに自由に人生を生きていくことができるようにしました。 神がすべてを用意したのは、彼女の言う通りです。キリストの教えにも、「求めよ、さらば与えられん。」という有名な言葉があります。 受け入れるのはとても高いレベルのあり方ですが、求めることをしたあとで、その結果を受け入れるとうあり方がいいのではないでしょうか。 あなたから読み取れる彼女の態度は、求めないでその結果を受け入れるといったように聞こえます。 もっとはっきりいうと、あなたにもともとあまり気がないことをキリスト教の教えを上手につかって、ごまかしているのではないでしょうか。 それと、相手が変わることをあなたも期待しな方がいいでしょう。 相手は、相手の好きなように感じ、考える自由があります。 付き合うという約束を以上、二人がうまくいくためのルールというものがあったほうがいいのですが、そのルールを守る守らないも彼女の自由です。 まずはあなたが変わらないと彼女も変わることはないでしょう。 それは彼女が言ったり、行なったりすることをあなたの枠組みで縛らないことです。 あなたは自分が大好きですか?相手を通して、自分を愛そうとしていませんか?相手からの愛や好きな感情がないと、つらい、やっていけないということはないですか?彼女にも、彼女の理由があります。 彼女は今は、あなたとの困難は要らないかもしれません。 彼女にしたら、めんどくさいことをいってくるあなたとの関係はいらないかもしれません。 もし仮にそうだとすれば、それは彼女の自由なので、あなたが本当に彼女を愛しているのならば、彼女を解放してあげるのがいいでしょう。 もっとはっきりいうと、あなたにもっと魅力があれば、あなたにいわれなくても自分から変わる努力をするでしょう。 彼女も女性なので、いくら神学をだしてきても、いい男には弱いでしょう。 長くなりましたが、彼女と議論するより、あなたが男をもっと磨いたほうが、いろんな問題が解決するでしょう。

その他の回答 (12)

回答No.13

いい意味で言えば、人権擁護法案が通ってしまった!反対!ではなく、受け入れてそれに順応。 その中での生き方を探す。という感じでは。国が占領されてしまった場合も、受け入れてよりよい 奴隷としての生き方を探すのでは。

回答No.12

職業か趣味かで少し違うでしょう。 相手にコストをかけて平気な人は  うそつき教の職業病に侵されているのでしょう。 ペテン師にうそをつくなと ユしても 無理な相談です。 稼ぐ・他人の時間を奪うという目的から判断すると 職分でさえあるかもしれません。 そういう性分ですから 引っ越せ 出てくるなというぐらいしか 対応策はありませね。 経験的に 他人の言うことは聞かないでしょうけどね・・・

  • alwen25
  • ベストアンサー率21% (272/1253)
回答No.10

>キリスト教では神は全知全能の創造神ですから、総ての事柄は 予め決まっている、神が決めたのだ、という決定論の事だろうと思います。 その彼女はプロテスタントで、カルヴィン派の影響を受けて いるのではないですか。 この考え方だと絶望してしまうこともあると思います。 地獄行きが決定されていたら悔い改めても無意味ということに なってしまいます。 カルヴィン派以外では使っていない考え方だと思いますが。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.9

「神が用意した」というのは本当はどういう意味なのでしょうか? 自分で困難を切り開こうとしないのですか?      ↑ キリスト教では神は全知全能の創造神ですから、総ての事柄は 予め決まっている、神が決めたのだ、という決定論の事だろうと思います。 その彼女はプロテスタントで、カルヴィン派の影響を受けて いるのではないですか。

  • alwen25
  • ベストアンサー率21% (272/1253)
回答No.8

>「『愛』という概念はないんだよ。だから私は『好き』しか使わない」 とあしらわれます。 愛という概念はあります。宗教的な「愛」という言葉を恋愛に使うのは おかしいというだけです。 >百歩譲って「神が全てを用意した」というのはわかりますが、その上で自分で現状を切り開くという概念が感じられません。 神様の恵みを使って、その上で努力するという意味でしょうか。 >自分が変わる努力をしないのかということで何度か口論になったことがあります。 宗教的な「愛」を主張したいなら、それでも愛せなければなりません。 キリスト教の教義で「努力するな」というのは聞いたことがありませんが。

  • michael-m
  • ベストアンサー率50% (2725/5435)
回答No.7

私はカトリックです。といっても自称「転びバテレン(広義でのバテレン)」ですけど。 聖書には「すべては神が用意した」などとは一つも書かれてはいませんよ そんな事を教える神父だか牧師がいたらインチキですね。 ましてやキリストの居た時代ならイザ知らず、あるいは階級制度のある国ならイザ知らず、努力次第でどの階層にもいける世界ではそんな教えなどないでしょう。 聖書では現状でも身動き取れなくても耐えて生きろとは教えていますが、それが宿命だなんて一言も言っていません。 ちなみに運命は文字通り運命の運びでいくらでも変えられます。しかし宿命は命の宿るところでありそこから脱することはできません。 私が人間であること、日本人であること、○年○月○日に生まれたこと、そしていずれ死ぬことは宿命です。しかしこの人生は意図的に或いは流されたとしても宿命ではなく運命なんです。 運命を受け入れるか、変えていくかは本人次第なんです。 虐げられるものが幸い・・それはキリストの時代なら、そして今でもユダヤの教えならある程度は宿命。でもほとんどの世界では、宿命ではなく運命です。そしてあがいても上手く抜け出すことができなくってもその頑張りに対し神は天国を用意している、だから投げ出さず生きろ。それが聖書の語る言葉です。 神が用意したもの、それは私という肉体だけです。

回答No.6

一神教は基本的に政治ツールでしか有りません。それが仏教との大きな違いです。 それに神の万能性に関する言葉遊びですが、こんなものがあります。 神は「絶対にいう事を聞かない者」を創造できない。 もし創造できなかったとしたら、神の万能性にケチがつく。仮に創造できたと しましょう。では、その者を従わせる事ができるか。できてもできなくても 神の万能性は揺らぎます。結局はその程度でしかない。 偏った思想を掲げていても立派な事を成し遂げた者もいますが、しかし、 偏っている事を否定する事はできません。これが個人的印象です。 敢えて言うならば、その彼女はちょっとおかしい。

回答No.5

>自分で困難を切り開こうとしないのですか?  普通のキリスト教徒は教会関係者から言われたことをそのまま信じている人が殆どのようです。ですから疑問に思われることが発生しているのでしょう。事実、全て神に頼っているようで、自分で困難を切り開こうと考える前に、神に祈るようです。祈れば通じるという学説もあります(村上和雄、棚次正和著 人は何のために祈るのか)ので、神が話しを聞いてくれて困難が解決するかもしれませんし、そうでないかもしれません。お賽銭を上げて願い事をするのと同じことと思えば良いでしょう。  我々日本人の殆どはお賽銭を上げて願い事をしても、そのことが100%叶うとは思っていないでしょう。願い事をすれば気持ちがいくらかすっきりするだけです。従って後は自分で努力することになりますが、キリスト教徒は自分で努力しているのかどうかは分かりませんが、日本人より神に頼る傾向が多いようです。  私自身は聖書にはものすごく沢山の間違いがあるような気がしており、聖書の最初の頁、最初の文章「初めに神は天地を創造された。」からして間違っていると思っています(理由は長くなるし、私独自の見解なのでここで述べても意味がないので省略します)。  このようにイロハのイから間違ったと思われる聖書でもキリスト教徒は何にも考えずに信じており、あるイギリス人に会ったとき、その人は世の中は神様がお作りになったと信じ込んでいました。  このようにキリスト教徒は聖書を何も考えずん信じ込んでいる人が多いので、彼女の場合もそのように信じ込んでいるだけでしょう。少なくとも日本人の殆どは聖書に書いてあるような馬鹿なと思われることは全く信じていないでしょう。このように宗教に入れ込んでいる人は、入れ込んでいない人から見ると馬鹿な考えを信じていると思えますが、宗教に入れ込んでいる人はマジメにそのように信じ込んでいるわけです。  ですから、どちらが正しいと断定することはできません。  でも、どのように信じようとそれはそれぞれの人の自由です。ですから彼女の思想を尊重するならそれで良し、宗教に入れ込んでいる他人の主張を認められないなら、宗教に入れ込んでいる人とはつきあわない方が無難でしょう。  どちらにするかは当事者次第で決まることです。  私自身はキリスト教は(キリスト教に限らず宗教全般もですが)ある部分については詐欺であると思っていますが、信者はそれでも宗教によって救われると考えているようで、それで私に被害が及ぶわけではないなら、キリスト教徒が教会の指導に従っているならそれはそれで良いと思いますが、私はそのような馬鹿馬鹿しいことは信じることはできませんが、彼らがそう信じているのですから、それを尊重したいと思います。例えば宗教入れ込んでいる異性と結婚しても、相手がどのような思想でその宗教を信じようと、どのような宗教活動をしようと私には関係のないことで、一切制約するつもりはありません。しかし、私自身が相手に会わせて生きることはないでしょう。自分は自分、他人は他人という考え方で生きるでしょう。  ですから >「『愛』という概念はないんだよ。だから私は『好き』しか使わない」 とあしらわれます。 付き合っていていろんな問題が起こった時に 「あなたも私も、これも神からすべてを用意された運命なんだよ」 と言われても、「そーなの!」という返事は返すでしょうが、敢えて相手の考えを変えさせるつもりもないし、私が従うつもりもなく、お互い別の考え方を取るでしょう。  蛇足ですが、問題はイスラム教のような思想にあり、その場合は人は人、自分は自分というわけにいかず、トラブルが起きますので要注意です。  例えば「悪魔の詩」を書いた人に対して勝手に死刑宣告をし、死刑を執行した人にはかなりの報奨金を出すとまで公表しています。こうなると彼らはいわゆる「殺人」でさえ、神の意志であり、「正しい行為」と信じているようで(聖書にもそのような記述があり,神がある人々を殺せと命じています)、彼らの思想が我々の概念では間違っていても、そのことを否定するとこちらの命に関わってくるので、絶対に深づきあいしない方がよろしいでしょう。  考え方が世界の標準とは違うのですから、風俗習慣が同じ人間であると言うことはできないのですから、完全に分離すべきと考えるべきでしょう。  イスラム教を否定する必要はありませんが、要は近づかないこと、彼らの風俗習慣を乱さないことに注意が必要でしょう。こうなるとどちらが良い悪いと言っても平行線で、共同生活など成り立ちません。  その点、キリスト教であれば、お互いが尊重し合って、そちらはそちら、こちらはこちらという考えで共同生活ができ、トラブルが起きたときは共通の風俗習慣に従えば良いでしょう。

  • cincinnati
  • ベストアンサー率46% (606/1293)
回答No.4

プロテスタントのクリスチャンでモルモン教、統一教会、エホバの証人とは関係ございません。あえて言えば昔「聖書に帰ろう」と述べたマルチン・ルターの流れの中にいるものです。 >「『愛』という概念はないんだよ。だから私は『好き』しか使わない」とあしらわれます。 聖書の主題は愛だと思います。聖書では端的に「愛とはその友のために命をすてること」と単純明快に述べております。聖書を開いてあるいは他のクリスチャンに聞いて確認する必要もないほどです。おそらくお友達の女性の方はキリスト教系の学校でそのような事を学ばれたので、軽々に「愛」という言葉を使用して欲しくなかったのではないかと思います。ただ英語の世界では「愛=Love」は煩雑に用いられておりますので、かなり聖書に精通したクリスチャンでない限り、恋愛の愛と神も愛とを峻別していないと思います。 >「あなたも私も、これも神からすべてを用意された運命なんだよ」 私どもの持っているもの、財産や友人やご自分の体でさえ、神が与えなければ存在しないものというのはキリスト教の世界観です。どなたであれ、ご自分で生まれてきたいと意志をもって生まれたわけではございません。また生まれた後で、いろいろ学んできましたが、自分が何者で、どこに向かって生きているのか、その目的さえはっきりしません。つまり私どもはほとんどなにも分かっていないというのがご自分や世界を眺めた時の率直な感想だと思います。 >百歩譲って「神が全てを用意した」というのはわかりますが、その上で自分で現状を切り開くという概念が感じられません。 >自分が変わる努力をしないのかということで何度か口論になったことがあります。 >「神が用意した」というのは本当はどういう意味なのでしょうか? >自分で困難を切り開こうとしないのですか? 聖書では以下のように述べています。ルカの福音書11章 11:9 わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。 11:10 だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。 逆に読みますと、求める努力がないのであれば与えられないと読むことが出来ます。また別の箇所では次のように述べています。これは聖書のなかで最も有名な箇所で、多くのプロテスタントの教会では礼拝の最中に必ず一度は読み上げられる箇所です。 我らの日用の糧を今日も与えたまえ つまり日々の食事という当然と思える物も神から与えられて始めて有りつけるもので、そのようなものも毎日もとめてゆきなさいという事を意味しております。さらに聖書の別の箇所では困難な道を選んで努力しなさいと受け取れる箇所あ随所にあります。下の箇所も有名な箇所です。 マタイ7章13節~14節 狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。 つまり聖書は努力しなさいという事を述べております。しかしその結果なにか社会的な地位や、富を手にいれても、それは神があたえたものなのだというのが聖書の見解です。クリスチャンの人生観はその友のために命を捨てるほどの努力を要求しますが、そのような愛は神が与えたということになります。現代の科学技術をもってしても、ひとの命を多少伸ばすことができる程度で結局はすべての人が死んでゆきます。与えられていると思っている物が実はすべて神から与えられているという事を知ることは幸いなことと思います。 聖書の言葉 『ヨハネによる福音書』15章16節 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。 これは色々な心の葛藤、死を望むほどの辛い経験をを通してついにクリスチャンになったとき、多くのクリスチャンが体験することです。何の取り柄もないものを選んで、なにか有用なことをさせてさせて下さるかもしれないと思わされます。聖書は明らかに努力することを求めております。比喩的に言えば天国の門にはおそらくこのように書かれいるという説教を聞いたことがあります。 入る側には「求めなさい、そうすれば与えられる」と記載され、また入った後振り返ると、そのの同じ門には「私があなたを選んだ」と記載されています。

回答No.3

クリスチャンの問題ではなくて、君の彼女の問題ですよ。ハズレですね。

関連するQ&A

  • クリスチャンの方に質問です。

    自分はクリスチャンであるといいながら、 聖書に書いてある安息日は土曜日なのに、 日曜日にに教会に行き礼拝する。 旧約聖書にある、食べてはいけないものを食べる。 イスラム教徒ですら、戒律を守っています。 罪を犯しながらも、悔い改めていると祈りながら、 また同じことを繰り返す。 祈ればなんでも赦されると言う友人がいます。 私から見れば、クリスチャンは堕落しているようにしか見えません。 きちんと調べれば、やってはいけないことくらい、 聖書に書いてあります。 それを支えに信仰心を持っているのであれば 守るべきでは? 聖書を一度読めば分かりますが、クリスチャンたちのルーズなことこの上ないです。 私が聖書を読み、質問すれば、 読んだことのないところだと言い訳をする始末。 はあ?クリスチャンか?本当に・・・。 もしも、答えられる人がいれば回答してください。

  • クリスチャンの方へ

    こんばんは 今日も質問させていただきたいことがあります それは、キリスト教に向けられる批判にはどんなものがありますか? ということです 魔女狩り 宗教戦争 etc... ほかにもあげられるかもしれません、どんなものがありましょうか? そして、それに対して、クリスチャンの方はどのような見解を持っておられますか? いま、私の一番の疑いは、 キリスト教は、政治の道具であったのではないか? というものです (争いの多くは、キリスト教や神が悪いのではなく、 国・政治などの統治(人間側)の問題だと、思ってはいるのですが) 私は漠然とですが神を信じているし、 信仰の確信を得たいと思っています 人生には人間が自分で判断を下すことができぬ諸問題があると感ずるゆえです (だから教えの疑いを拭い去りたい) 旧約聖書から読んでいくと、そこではいわゆる キリスト教における愛 というものにそぐわないような行為の記述が見られ、 かつ神もそれを受け入れているところがあるように思われ(創世記の エサウ ヤコブ リベカ の件など)、 そのような思想の持ち主の神は、キリスト教における神と、 お互いに相容れないところがあるんじゃないのか などと馬鹿な愚かな頭で考えている最中です (つまり、キリスト教は旧約聖書を聖典としながら、 実際にはそれとは乖離する思想をも含んでいる?とうたぐっているというわけです) 支離滅裂な文章で申し訳ないです 自分で見返しても見苦しい ですが、どうかご意見をお待ちしております すみませんが、よろしくお願いいたします

  • クリスチャンの方に質問です。彼女の宗教の事で。

    23才の学生です。半年ほど前から付き合ってる彼女がいます。彼女も同じ学校で、一つ下なんですが、最近彼女が創価学会員だと言う事を知りました。全く予想しなかった事に正直驚きを隠せませんでしたが、その事を否定したりせず、受け入れようとしました。 彼女は、付き合う前から、自分がクリスチャンだという事は知っていました。学会員という事を知ってから、教会にも何度か誘い、礼拝にも参加しています。 でも、家族代々続いて学会員らしく、よく仏教の話や池田氏の話もしてきます。この間の沖縄県知事選挙の時も、支持候補者の宣伝に熱心でした。 別に相手からクリスチャンである事を避難されたり、学会に勧誘されたりということはないのですが、やはりその現実が重くて、辛い時もありました。今は、教会の人にも祈ってもらったり、自分でも祈ったりしています。 どのようにして彼女に聖書の事を語っていったら良いのか。 神概念というものが全く異なる彼女に、どのように神様の愛を語っていったらいいのか。 もちろん、祈りながら日々考えていますが、もし何かアドバイスがあればお聞かせ下さい。

  • クリスチャンの彼

    私はいま、クリスチャンホームで育ったプロテスタントの男性と1年半ほどお付き合いをしています。 お互いのことを好きあっていて、漠然とですが将来も一緒にいたいと考えています。 ・・・まだ早いかもしれませんが。 でも最近、もし彼と結婚するとなると、私も洗礼を受けなければいけないということを知りました。 彼は「君も一緒に救われてほしい」と言い、日曜日の礼拝にはなるべく教会に来るようにいいます。 私も何度か参加して教会の雰囲気に慣れてきましたし、聖書も読むようにしてはいるものの、どうしても『信仰をもつ』ところに行き着きません。 というより『イエスキリスト、神を信じ帰依する』と言う感覚が分かりません。 また、彼の教派には「予定説」と言う概念があるそうで、人は救われるか否か、あらかじめ決められているそうです。 もし自分が救われない人間だったら・・・と考えると、なんともいえない気分になります。 彼が私のために熱心に働きかけてくれても、それに応えられないようで悲しくなります。 彼氏が他のご家族とも仲良くさせてもらっていますが、彼の家では私の求道意識の話なども出ているそうです。 最近は彼にも「もう少し本気で求道してほしい」とやんわり言われ、余計に焦っています。 クリスチャンに差別意識を持っているわけではなく、できるなら私も信仰を持てたらと思いますが、できないということは、どこかで抵抗感をもっているということなのでしょうか? 皆さんなら、将来を考えている恋人がクリスチャンだったとき、どうしますか? また、これはクリスチャンの方にお答えいただきたいのですが、恋人が以上のように考えている場合、どう思いますか? 教えてください。

  • クリスチャンではないのですが教会の礼拝に参加してもいいのでしょうか?

    クリスチャンではないのですが教会の礼拝に参加してもいいのでしょうか? 悩んでいます...(長文です。) アメリカ在住なのですが、つい最近クリスチャンの友人が出来ました。(日本人の方です。) とても優しく、尊敬できる良い方で仲良くさせて頂いています。 その方はクリスチャンのようで毎週教会に通っておられるのですが、 ひょんなことから教会の話になり「教会に興味がある」と伝えると 「もしよければ一度一緒に」と誘って頂きました。 先週早速連れて行ってもらい、教会のみなさんには歓迎して頂き、説教もわかりやすく とても良い印象を受けました。無理やりな勧誘や献金等も特に無く、 「興味があればぜひまた行らしてください」というような雰囲気でした。 既に次の集まりにもお誘いを頂いています。 ここでふっと思ったのですが、クリスチャンではない人間が教会に行って説教を聞いたり、 礼拝をしたりするのは良くないことなのでしょうか...? 礼拝や賛美歌のときは下を向いて静かにしているか、周りの人に合わせて歌っています。 私自身は洗礼もなにも受けておらず、家族は仏教徒です。 私は自分はキリスト教徒だとも仏教徒だとも思っておりません。 どちらかというと思想的には無神論者に近いと思います。 しかし神様を信じる人を特におかしいとも思いませんし、信仰が人を救うことがあるのも 確かだと思います。 私は純粋にクリスチャンの方の考え、教会はどんなことをしているのか、聖書はどういうものなのか、 「せっかくアメリカにいるのだから教会に行ってみたい」「聖書を読んだり、説教を聞いたり、 教会で他の人と交流するのは英語の勉強にもなる」等という理由で教会に行ったのですが、 こういう理由は不純でしょうか? 私はどちらかというと宗教としてより学問や教養としてキリスト教に興味があります。 なので今のところ特にクリスチャンになりたいとも思っていません。当然聖書も持っていません。 皆様に質問なのですが上記のような理由で教会には行かない方がいいでしょうか? それとも私がそう思っていないだけで、教会に行っている時点で既にクリスチャンなのでしょうか? 教会の方からは特に「キリスト教の信者か?」というようなことは聞かれなかったのですが、 「教会に来ている時点で信者だと思われているのでは?」という不安と、 実は自分はクリスチャンではないという申し訳なさで一杯です。 小さな韓国系の教会なので、みなさんに名前を覚えられ始めています。 友人からの紹介という形で行っているので、失礼があったらその友人にも迷惑になると思うと 心配でなりません。それにもしかしたら友人自体も私がクリスチャンではないということを 知らないかもしれません... 失礼にあたるようなら、友人には理由を話し教会に連れていってもらうことは次回からは 丁重にお断りしようと思います。 ぜひクリスチャンの方、そうでない方、両方からのご意見をお伺いしたいです。 回答よろしくお願い致します。長文失礼致しました。

  • キリスト教について質問します。

    昔、プロテスタント系の教会に通っていたのですが、そこで疑問に感じた事を質問します。キリスト教について詳しい方、教えて下さい。  (1)クリスチャンはなぜ祈っているだけなのでしょうか?基本的に聖書勉強をして、祈って終わりという事が多いような気がするのですが・・・。これは何故なのでしょうか?  (2)「礼拝」と「信仰」という概念がありますが、これはどういう意味なのでしょうか?何故、かくも信仰、信仰と信仰をやたらと持ち上げるのか、そして礼拝とは一体何なのか?質問しても誰も答えられなかったもので。  この二つについて教えて下さい。

  • クリスチャン又宗教に詳しい方

    質問です。 全部をお答えして頂かなくても結構です。 一つでも良いのでご回答下さい。 (1)貴方がクリスチャンになったきっかけは? (2)キリストは全ての者の為に十字架に架けられたという事ですが  それを本当に信用しますか? (3)キリスト教と戦争は関わりがあるのですか? (4)クリスチャンは他宗教に対してどの様でしょうか?(寛大か?) (5)キリストという個人は本当に実在してクリスチャンはそれを全て  信じて(例えば神がこの世の全てを創造した等)いるのでしょうか? (6)神(キリスト)とは宇宙の意思と解釈してはいけないのでしょうか? (大日如来は宇宙の象徴?言う事を何となく聞いた事があるのですが、 であれば神というのは一つの繋がった者と考えて良いのか?) (7)神など全く信じていなかった人が(むしろその様な人を馬鹿にしていた)クリスチャンになる事はあるのでしょうか?体験者の声が聞けたら・・・。 (8)仏教で親鸞の浄土真宗は他力本願(信じる者は救われる)と言った  教義でキリスト教に似ているといった事を聞きましたが真意は? 聞きかじりの知識もありお恥ずかしいのですが、 少しでも御教授下さい。宜しくお願いします。

  • クリスチャン、キリスト教徒を辞めた方に質問です。

    両親が熱心なクリスチャンで幼い頃から日曜学校、そして日曜礼拝に参加してきました。エホバ、統一教会ではなく、割と大きい日本のプロテスタント教派です。 妻は仏教の家庭で育ち、妻のおかげで我が家の異常性に気が付きました。子供の頃からサタンの存在や神への畏れを教え込まれ、家庭で起きたトラブルは最後はいつも「祈ろう」で終わらせてきました。統一教会ほど露骨でなくとも、10分の1献金があり、両親は家一軒建つほどの金額を教会に納めていると思います。全てが最後は神に帰着するので、自分も両親も他者への思いやりの心が無く、プライドが高く、傲慢な人間だったと感じます。布教「救いを届ける」が最も崇高な使命だと考え、他者に押し付け、非クリスチャンを救われない人々として扱います。良い事があれば神に感謝し、悪い事があれば神にすがります。「人」に感謝し、「人」に謝ることをしません。食事でも食べる動植物や産業に携わる人への感謝ではなく、「神」です。結局のところ、イエスキリストの愛し合いなさいという言葉は全く実行されていないと思います。同じクリスチャンでも家庭による違いはあるかも知れません。キリスト「教」では本当に人を愛することはできないと気付きました。しかし、ときどき夢に両親や教会が出てきて、うなされることがあります。こういった苦しみから完全に逃れたいです。同じような環境でクリスチャンを辞めた方がいらっしゃればご意見をいただきたいです。

  • 私はクリスチャンです

    皆さんはキリスト教についてどう思いますか? 私は家族が元々クリスチャンホームだったので、幼い時から教会に行っていました。 学校とかで「キリスト教ってどんな感じ?」とかめっちゃ聞かれました(*3*) 自分としては神様がいない世界が全く分かりません…。 以前に遊び人の彼氏と付き合って、自分がクリスチャンというと「愚かだ」とブログに←書かれました。 自分は、人とのコミュニケーションが苦手だし、なぜか暗いとかよく言われちゃうしとにかく第一印象は良くないかも…; 人間としてまだまだなんですよね。 最近通っている精神科で「アスペルガー症候群」と診断されたり。この病気は過去のことが忘れられない障害?でもあるのですが…。 だから別れた後も、どうでもいい元カレのことを思い出してしまいます(>_<) 今まで、友達づくりをサボってきてしまったのもあるのですが…。 でも教会にはクリスチャン仲間がたくさんいます!! 家族だけではありません。 小さいころから大人しくて、どうやら脳にも少し障害があり…な私ですが教会の人はそんな私を受け入れてくれます。 社会的にはまだまだなんですよね。 だからどうしても「変わった暗い子だ」と思われてしまう…× その結果、変な男にも引っ掛かりましたーッ(>_<) でも、やっぱ神様は信じ続けて行きたいし 「大切なきみ」とか「生まれてきたのは神様の計画」という聖書の教えに救われてきました 泣 「死」ということを思う時に、やっぱり死んだらどうなるんだろうな??というのは率直にあるし人間が考える最終論だと思うんですけど やっぱり、信仰を持って天国へ行ける!自分は救われてると考えると安心します(/_;) 周りからは 自分の考えと持てとか言われます; 21歳になりますが、中身がまだまだ未熟なので…。 こんなクリスチャンだったら不信感持ちますか?? ちなみに、生粋のプロテスタントでモルモンとかエホバではありません!! 聖書の中に「世の中でも弱いものを」と書かれていますがその通りだと思います。 私のことですよね…(笑)

  • クリスチャンの方へ

    神をどんなに信じ、崇め奉っても、不幸なことが起こらないとは限りませんよね? 例えば、愛する人が死ぬとか、自分が事故に遭うとか。 その時が突然、もし来た場合にクリスチャンの方はどう思うのですか? 裏切られた気持ちに似たようなものを感じるのでしょうか? 神は「乗り越えられない試験は与えない」と考え、 前向きに考えようとしたとしても、 「なんで、どうして」って、気持ちになりそうな気がします。 キリスト教に興味があって、投稿しました。 道徳的に素晴らしいことばかりなので、私も信仰したいと考えています。