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キリスト教について質問します。
昔、プロテスタント系の教会に通っていたのですが、そこで疑問に感じた事を質問します。キリスト教について詳しい方、教えて下さい。 (1)クリスチャンはなぜ祈っているだけなのでしょうか?基本的に聖書勉強をして、祈って終わりという事が多いような気がするのですが・・・。これは何故なのでしょうか? (2)「礼拝」と「信仰」という概念がありますが、これはどういう意味なのでしょうか?何故、かくも信仰、信仰と信仰をやたらと持ち上げるのか、そして礼拝とは一体何なのか?質問しても誰も答えられなかったもので。 この二つについて教えて下さい。
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私はカトリックなので、少しニュアンスが違うかもしれませんが。 (1)祈りは神との対話です。 目指すべきなのは、1日24時間ずっと祈りで生活することです。 街を歩くのも、机の上を掃除するのも、買い物をするのも、顔を洗うのも、すべて祈りの心で行うべきことです。 教会で祈るのは、共同体としての祈りをみんなで捧げるためです。 教会から帰ったら、次の主日まで祈りの生活をするのです。 ある人にとっては仕事で社会に奉仕する、別の人にとっては家族の世話をする、また他の人にとってはボランティア活動で人々のために尽くす…それぞれがその立場で祈りの精神をもって活動するのです。 まぁ、なかなか一日中、祈りの精神で生活するのは難しいですが、理想ということで。 (2)「礼拝」は神に感謝し賛美することで、特に主日の集まりを「主日礼拝」と呼んでいるんじゃないでしょうか。私らではミサですが。 神が6日働かれて1日休まれたことに倣い、私たちも6日働き、残りの1日は働かず、6日間やってきたことを神にささげ、聖なるものとしていただきます。神にささげることで自分たちの労働ははじめて聖なるものとなるのです。ユダヤ人の安息日という伝統から来たものです。 プロテスタントは「信仰のみ」を標語にしてきたので、特に信仰を強調するのかもしれませんね。 クリスチャンに大切なのは信仰・希望・愛だとパウロが書いています。 (その中で一番大切なのは愛なんですが…。) 自分の至らなさや罪は、本来、公平に審判されれば地獄へ行くべきものだが、キリストに信仰を持つことによって神に赦され神の国にはいることが出来ると教えられているので、信仰をもっとも大切にするのでしょう。 自分と神を結びつけているのは信仰だと思ってるので、強調されるのでしょう。 カトリックにも信仰は大切なことですが、毎週ご聖体(ミサのパン)をいただくことでキリストとの一体をリアルに感じるので、そこまで信仰、信仰と強調されることはありません。教派の違いもあると思います。
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- puregrape
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「信心は聞くことから出るのであり、聞くのは神様の御言葉によるのです。ローマ10:17」。信心は信頼の意味を持ちます。神様を信頼するためには、御言葉を聴かなければなりません。問題は、聞くことが神様の御言葉でなければならないことです。即ち、御言葉によらずに神様について話したら、信心が沸かないだけで無く、御言葉を聞いたことにもならないという意味です。もし、そのような説教を聴いて心が熱くなったとしても、それは偽りの信心になります。ですから、御言葉の一節を読んでから、自分なりの考えを話すのは、御言葉によるのでもなく、説教でもありません。御言葉を教えるものは、自分が言っていることが、間違いないことを聖書から探して見せなければなりません。そうするならば、自然に信心は心から湧き出るし、感謝の祈りもでるのです。 「神様は霊であるので、その方に礼拝する者達は、霊と真理で礼拝しなければならない。ヨハネ4:24」。先も述べたように、信心は自分から出るのではなく、神様の御言葉によって出る信頼を意味します。全ての人々は、霊が死んだまま生まれます。神様は、霊であるので、霊が死んだままの人々が集まって礼拝しても、それは礼拝でもないし、神様とは何のかかわりもありません。神様に礼拝する者は、必ず、霊と真理を持って、礼拝しなければなりません。真理は御言葉です。先も、述べたように、聖書の一節をもって自分なりの解釈をする行為は、神様から来た者、ではありません。神様から来た者は、必ず、御言葉である真理に照らし合わせて話します。最初の人であるアダムは、神様を型とって作られました。即ち、体と霊と魂の三位一体で作られたのです。しかし、彼が罪を犯したことによって、霊は死んでしまい、体は老いて死ぬようになり、魂は神様の御言葉から離れて、自分の思うままに考えるようになりました。霊が死んだという意味は、神様との交わりが出来なくなったという意味です。なぜなら、聖書は霊の字であるからです。霊の字を霊が死んだ人が分かるだけ無いでしょう。ここには、例外がありません。彼がイスラエルの先生であっても、牧師であっても、霊が死んだ人は聖書をまったく知らないのです「ヨハネ3:1~15」。ですから、霊が生まれ変わらなければならないのです。霊が生まれ変わって、ちゃんと御言葉を理解するようになって、神様と供に歩まなければならないのです。神様が自分の罪の身代わりになって、十字架に掛けられ、死なれ、三日後に再び蘇られたことを信じる人は、生まれ変わった人です。生まれ変わったという意味は霊が蘇ったという意味です。霊が生き返って、初めて霊をもって、神様の御心に適う礼拝が出来るのです。 御言葉によらずに、いくら信仰、信仰、信じる、信じるとしても、それは神様とは何の関わりもありません。神様が、自分の罪のみがわりとなって死なれたから、自分の罪が許されたと、心から疑いなく信じる人は、救われた人であり、霊が生き返った人です。これが信心です。この信心を持つ人が神様を拝むことが、真の礼拝です。霊が死んだ人は、彼が例え牧師だとしても、神様とは何の関わりも無いのです。「~今は、誰でもキリストの霊が無いと彼の人ではありません。ローマ8:9」。神様は罪が無い人としか歩まないのです。
- katyan1234
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いいえ、そんな事はありません。ちゃんと勉強してますからね。 勉強しないで祈って合格したなんて馬鹿な話はありません。合格しても自分の手柄にしないですから、ボランテイアもするし、色々ですね しかし、スタートは祈りです。祈る事によって力がわくと言う感じかな クリスチャンには必要です。 礼拝は私達はイエスキリストのおかげで生きている(ごめんね、これしか思いつかない、お世話になっていると言えば理解できるかな) それでみんなで教会に行き感謝しましょう。というのが礼拝の考え方です。 この教えは自分が生きている事が出来るのはイエス様のおかげ 死んで天国にいけるのもイエス様のおかげだし、今こうして無事に生きてるのもイエス様のおかげだし・・・なんて書いていたら理解できますか? しかし実際はテレビを見たりしてますから普通の人と変わらないと思う ちゃんとまじめにしてる人もいますがね (ここだけの話しは教会にいるときと家にいる時の差はありますね) 後は聖書から色々な考え方、生きる方法、知恵を学び、勉強してます (教会とクリスチャンによって個人差はあります) まあ日曜日にテレビを見たりしてる時間を教会にいくだけと思ってください(ほかのクリスチャンにしかられますのでこの辺で)
- ANASTASIAK
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(1) パウロが大事にしたことだからです。 (2) イエスは信じるということを重んじました。信仰とは そういうことです。礼拝とは儀式です。共同体のアイ デンティティとしての信仰の証しです。
《信仰》は 理性によって考えても分からないとき 持つものです。 誰もが なんらかの疑問を持ちますが そのとき 最終の答えは分からないことがあります。絶対の領域のことなど 経験合理性で思考しても 分からないわけです。 あるいは 相手がいる場合 人に対して 何かを行なったり あるいは いまあなたがしているように 何かを尋ねたりするとき その最終の答え(結果)は 出ないことが よくあります。 繰り返しになりますが つまり 相手に納得のゆく答えを要求してもダメだった場合 あるいはつまりは むしろ 相手に自分の考えを説得したくていくら説明しても 結果が出ない場合 そのようなとき その自分の願いを持ちつづけつつ 相手にわかって欲しいと祈るでしょうし そのようにして 自分の思いを信じているという事態のことです。 ここに 信仰と祈りがあります。 礼拝は知りません。
- nacam
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キリスト教と言いましても、色々な考え方があり、教派や教団、司祭や牧師さんによってもいろいろ考え方に差があります。 質問者の方の通われた教会だけをみましての感想を一般化する事は、お止めになるべきです。 佐世保の銃乱射事件だけを見て、日本がアメリカ並みの銃社会だと思ってしまうのと同じ事です。 教派・教団・教会ごとに、信仰面を重視する教会と実践を重視する教会があります。 自分自身の信仰を強化し、礼拝を熱心に行い、自分自身を神や使徒・聖人に近づく事を目的とする人や教会が有る一方、他人の不幸を救う事により、自分自身も救われようとする人や教会があります。 質問者のおられた教会は、前者の考え方をする教会でしょう。 2番に関しては、質問者にはその教会の考え方を理解していませんから、信仰の対象外で、当然礼拝も必要ありません。 信仰とは、その考え方に同意した人が持つもので、礼拝は、それを具体化する手段や手法です。
- kigurumi
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1)について、結局 自分のためにやっているにつきると思います。 幸せになれますようにと自分の利得を願う人もいるでしょう。 自分ではなく、他人に尽くすことも、結局 自分を喜ばせるための手段。 エヴァゲリでアスカが「他人のためにがんばっているんだって思うこと自体 楽な生き方なのよ」って言ってました。 どっちも楽な生き方なんですが、楽な生き方をすること自体 悪いことじゃない。 自分の幸福を願うことは悪いことじゃない。 他人のために奉仕すること自体も悪いことじゃない。 ただ、他人のために奉仕することは、すなわち自分を喜ばせることだと自覚しないでいると、傲慢になり堕落する。 「他人じゃなく自分のためにやっているんですよ。だからやらせていただけませんか。」と申し出て、「あなたが私を助けることで、あなたが身を喜ばせ、あなたはそれしないと不幸になるというのなら、協力してあなたのためにやらせてやってもいいですよ」って了承をしてやらせてもらうってのが、いい関係を築けると思うんですね。 仏教的な考えですが、、、、 なんとかは人のためにあらず って言葉があったような・・・。 2)信仰はあることを真理だとし、それを保持する行為だと思います。 例えば神は絶対的なもので不可知なものであるとする。 そういうもので、人間では到底神の心を知ることはできないとし、不幸が起こっても、それがどうして必然的に起こったのか知ることはできず、神に「どうしてこんなことをするんですか」と聞いても答えてくれるはずはないと信じていること。 誰でしたっけ? えっと、、、ヨブ物語。 一点の曇りもなく信仰していた人が不幸三昧に陥ったとき、その不幸の原因を友人達はいろいろ推測しましたよね。 でも本人は納得せず、とうとう神に訴えましたよね。 「私は信仰においてゆらぎなく、悪いことは一切やっていないのに、どうしてここまで不幸にするんですか」と。 ついに神が彼の叫びに答えましたよね。 彼が自問自答したわけですが、これほどまで絶対的な信仰をし、一点の曇りもなく生きてきたものでも、神からすればとても とても小さく 例えば地球が宇宙全体からすると もう存在しているのかどうかもわからないほど小さきものにしかすぎないように、自分は小さき者にすぎないとしることで、不幸を受容するに至り、だからといって不幸になったからといって信仰は消えなかったって話だったと思います。 彼は謙虚なつもりで実は傲慢だった。 それゆえ彼はその自分の傲慢により不幸に陥った。 三浦綾子さんが氷点ってのを書きました。 私は三浦さんをとてもとても不幸な人だったと思いました。 彼女はヒロインの女性にこれでもかとイジメを受けさせ、そのイジメにもけなげに耐えて、人を憎んだり恨んではいけないとしてきたが、自分は殺人犯の娘だと知り、今までは自分は穢れた存在じゃないという自覚が彼女がどんなにイジメられても彼女をくじけさせなかったのに、その基盤を作者は突き、少女を自殺させた。 どんなに自覚が無い人でも大きな罪があるって三浦氏は言いたかったようです。 で、みな犯罪者だと 自分と同じ穢れた存在じゃないかと安心感を得たかったようです。 幾人かの読者は気付いたと思います。 彼女の欺瞞に。 三浦綾子 死ぬまで不幸で哀れな人だったと思いました。 彼女が原罪にこだわっている限り、彼女は自分に鞭を打ち、自分を不幸にしつづけるしかなかった。 しかも自分だけに鞭を打たず他人にも鞭を与えたがっていた。 罪を自覚しなさいと。 ヒロインは殺人犯の子供じゃあない。 そんなこと関係なくどんな純潔な人であっても原罪があり穢れた存在だと三浦氏は言い切ったわけです。 キリスト教もそうです。 どんな人も穢れた存在で、罪があると認め、悔い改め神に謝罪しつづけるべきだとする。 そういう方針の教団だと、結局 逆もやられちゃうわけです。 過去の歴史にこだわり続けるのなら、逆にキリスト教のやった悪事の数々、これに対して一生 申し訳わけなかったと悔い改め 罪を求め 服役し続けるしかなく、伝道どころではなく 人に薦められるしろものなどじゃあなく、 この宗教をやったため、どれほど人を殺し、破壊し、強奪することになったか身をもって証明したことになり、一刻もやめるべき悪の思想だということになる。 そういう思想は三浦綾子というものを作り出し、氷点という冤罪を着せ人をはめて快楽を得る堕落した作品を創造する。 三浦氏は最後まで自分が間違っていたと気付くことなく他界した。 人に悔い改めよとう作品を書いた当の本人が自分の罪に全く自覚が無かったというお粗末さ。 たとえヒロインの父親が殺人犯だとしても、その少女に罪は無い。 父親が殺人犯だったとしても、その父親の罪のため自殺することに当然の傲慢の報いだなんて作品をどうどうと出しちゃ駄目。 そんな罪深い女でも神様は救おうとしてやっているなんて傲慢も三浦氏な心を現れです。 この作品をすばらしい高く評価するなんて狂信者です。 ヨブの作品・・・自分は小さきものだと気付くことで不幸を受容する。信仰は変わりない。 氷点・・・自分は穢れた存在でもう恥ずかしくて生きていても仕方が無いが、そんな穢れたどうしようもないものでも、神のみが救えるから信仰しましょう。 どつくとしたら どっちにします? で、えっと、、、脱線しましたが、、、失礼。 礼拝は儀式なわけで、ユダヤ教になるとこのルールが一日だけでも1000を越えるらしいです。 トーラを実践することは、神のやっていることと同じことを実践するってことで、それが神の御心にかなうことになるってことで、一日だけでも1000くらいあり、神に近づくってことらしいです。 儀式は例えば料理のレシピみたいなもので、その手順通りにやることで、何かできあがりますよね。 砂糖としょうゆの順番を間違うと失敗する。 そのように手順を行う行為は、呪術が起源だと思います。 旧約の方にちょっとだけ書かれていますが、神が宗教専門職の人にレシピを伝授していますよね。 神は彼らに人間を近づけないように伝え、選んだ彼らのみに儀式をするように伝えている。 儀式の純潔さを保つため、選んだ人だけで正確に伝授していくようにさせていたわけですが、神が選んだもの以外も、宗教的指導者になったりして、儀式の正確さはそこで途切れてしまったんじゃないかと思います。 さらに、キリスト教になると神が選んだその集団以外が儀式を作り出しやっていますので、もうそうなると、神を呼び出したりすることはできないので、勝手にやっているって感じです。 神のルールを守っていないので、いっくらやっても無駄。 合言葉以外言うと扉が開かないのと一緒。 ですが、人間は規則に沿ってやることで、安心感を得たりする。 トーラを守ることで、正しいことをやっていて、神の御心に添っていると安心感を得ているように、これが正しいとやっていれば、安心感得られますよね。 社会のルールを守っていれば、ひとまず 災難は防ぎやすくなる。 つまり、安心感を得るため、礼拝をやったり信仰をやったりしているんだと思います。 誰のため? 自分の幸福のため。 とことん自分の幸福を希求すること自体は悪いことじゃない。 ただ、他人のためだとか神のためだとか誤魔化すから、いぶかしく思われてしまう。 誤解されないように 「誰のためでもなく 自分のため信仰し自分のため礼拝をしています。」って説明すれば、納得をすばやく得られるが、そうなるとエゴイストと取られかねないので、なかなか言えないんじゃないかと。 エゴ=自我 自我の確立は悪いことじゃない。
- ucok
- ベストアンサー率37% (4288/11421)
(1)祈りはほんの一部ですよ。むしろ、聖書から学んだことを日々の生活に活かし、祈りを通じて常に神を近くに感じながら、善良な人間として普通に暮らし、人々の役に立つ生き方をすることこそがキリスト者だと信じ、また実行しているキリスト教徒が多いと思います。そもそもキリスト教の基本にあるのが「奉仕の精神」ですから。神棚に手を合わせてから商売に取り組む神道や、小さなごはんを仏壇に供えてから食事をいただく仏教徒と大して変わりません。 (2)何かを信じ、集団で祈りを捧げる儀式を持つのは、多くの宗教に共通して存在する現象です。キリスト教の場合、「信じる者は救われる」というイエスの教えがあります。これをどう解釈するかは人それぞれです。洗礼を受けないと必ず地獄へ落ちると信じている人もいますし、例えば「レースで勝つ」と自分に言い聞かせ続けると勝てる人がいるように、「信仰」という「本気で思い込み、精神を集中させる行為」をすることで人は前進し続けると解釈する人もいます。礼拝は、その1つのものを信仰する人々が一堂に会して、天に祈りや合唱を捧げることで神に喜んでいただく行為ですが、結果的に参加者の心を解放し、いい運気を呼ぶ働きもあると思います。独りじゃないと感じたり、大声で歌うのは気持ちのいいことですからね。 ちなみに、仏教徒の中にお坊さんと交流があって常に念仏を唱えている人と、数珠は葬式でしか持たない人とがいるように、キリスト教の洗礼を受けている人の中にも、熱心に教会に通う人もいれば、めったに聖書を開かない人もいますよ。
- tyr134
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(1)別に祈っているだけでは無いと思いますよ。 教会や信者の団体によっては、信仰心から積極的にボランティア活動に従事したり、布教活動を行ってる人たちも沢山いますよ。 もちろん、日々の生活を優先して個人的な信仰心のみで満足されてる人も多いでしょうけど。(言い換えれば、信仰の自由を尊重して自らの信仰を人に押しつけない) たまたま質問者様が通われた教会が、受動的だったのかもしれませんね。 2)「礼拝」とは、キリスト教ですと「神への奉仕」を意味します。 「神への奉仕」は、多くは「ミサ」等の教会で行われる公式な儀式ですね。 「信仰」とは、「主=神・イエス」を信じる事ですね。 キリスト教は、神を積極的に「信仰」し、「礼拝」によって「信仰」を確かめつつ、神へ奉仕し救いを求めるために祈る宗教と言えなくもないですね。
- adaypajimy
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あなたが神を認めていないから、意味を感じられないのでしょう。何かもっと実践的な実利を求めているところに間違いがあります。神の加護を感じている信者は、礼拝や信仰に疑問を抱かないものです。質問しても誰も答えられないのは、神の存在を信じているか否かの決定的な違いですよ。