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武田信玄の天下統一

武田信玄は上洛する前になくなりましたがもしかりに武田信玄が生きて上洛したら信玄は天下統一したことになるんですか? 天皇がいる京都にいくことに意味があるんですか? いまいち天下統一の位置付けが良くわかりません 信玄は上杉と決着をつけないで天下統一はたしたといいきれるんですか?

  • 歴史
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みんなの回答

回答No.6

上洛と天下統一は無関係です。 今川氏真も上洛していますが、天下統一した事になっていますでしょうか? つまりはそういうことです。 さて、信玄ですが、もともと上杉と決着をつける気はなかったと思います。 あくまで北信濃をめぐる紛争に過ぎず、まともな軍事衝突は無かったです。 第四回の合戦も霧でたまたま遭遇したため戦ったとした方が辻褄があいますしね。 さて、信玄ですがも寿命が数年延びたとしても、家康さえ屈服させることの出来なかった信玄です。 信長を倒すどころか、濃尾平野に主力軍を展開することさえ至難なのではないでしょうか? 信玄はあまりにも行動半径が狭いです。

benkyoumuzui
質問者

お礼

たくさんの回答ありがとうございました♪ 確かに…武田信玄は現在の長野県統一するのに10年以上かけてましたよね… なぜあれだけの有能な武将達を引き連れててもあれほどの時間がかかったのでしょうか…たしか三国志の五虎将的なのが20人位いたはずですが…

  • TANUHACHI
  • ベストアンサー率31% (791/2549)
回答No.5

 「上洛する」ことは簡単にいえば「顔見せ」や「名刺交換」にすぎません。 逆に「天下統一」は一つの権力組織の下に全てを掌握することです。全てとは軍事的に掌握することであり、経済活動をコントロールできること。そしてそれを裏付けるだけの法の制定と執行を行う権力を自らの手中に収めることを意味します。  鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府の3つの幕府がありますが、鎌倉幕府は東国政権、室町幕府は西国政権との限定された地域と階層を統括していたにすぎません。実際にこの2つの幕府があった時代ではもう一つの法体系(律令)を持つ「公家」の存在もありました。  江戸幕府の時代に至って、二重構造は解消されます。幕府が公家を配下に置くとのことで「禁中並公家諸法度」でタガをはめる形になります。  これ以前でも「天皇」は実質の権力を持ちません。というよりも当初から天皇には権限などなかったと考えるのが妥当です。律令が成立した8世紀では既に律令とそのシステムを運用する目的で太政官制度が設けられ、実際の行政や政令の公布に従事しています。  その「天皇」に権力があるなどと誤解したのが後醍醐です。親裁と称し自らが全ての決定を下すなどの真似事をしたがそれも僅か二年で破綻。その結果が南北朝内乱です。  天皇は形式として「○○を征夷大将軍に任ず」などとして文書にサインするだけでした。もっともこれが日本人の意識としてはかなり機能していたともいえます。彼ら(戦国大名)から見れば、形としては「お上」です。こうした意識が反映されていたとも考えられますが、実質の意味はありません。

benkyoumuzui
質問者

お礼

ありがとうございました♪ 幕府でも日本全てに号令がかけられた訳ではなかったんですね… 確か島津とかは鎌倉の時にもいた気がしますが島津は幕府の管轄じゃなかった…というこですか?

  • mekuriya
  • ベストアンサー率27% (1118/4052)
回答No.4

天下統一とは全国の諸大名に頭を下げさせるということです。天下統一とは全国の諸大名を家臣にするということです。諸大名の領地を安堵し、軍事動員令を発する権限を握ることです。 足利将軍に新年のご挨拶をしたところで、天下統一にはなりません。そもそも信玄は天下統一など考えていません。そんなの戦国オタクの妄想に過ぎません。上洛したところで新しい官位を貰って、領地拡大の為の軍事動員がしやすくなる効果しかありません。そうしたところで、足利将軍から「もうやめろ」と命令されれば、謙信も信玄も軍を引くしかない。自分の方に都合の良いタイミングで足利将軍に停戦命令を発してもらう為には、普段から足利将軍のご機嫌を伺う必要があります。それが上洛の意味なのです。戦国時代とは戦国大名がどうやって足利将軍を都合よく利用するかという争いでありました。

回答No.3

なりません 天下統一とはなにか?文字通り 全国を支配下に置くことです 上洛しただけでは天下に号令はできません ただし 将軍になれれば別です 武田家は源氏の血脈なので 邪魔な足利を追い出し 代わりに信玄が将軍になっていれば 幕府に忠実だった上杉謙信さえ 信玄に従ったでしょう 上杉と決着をつけなくても 従属させるなどすれば無用な戦いはさけられたはずです では 織田信長はなぜあっさり上洛できたか 将軍家の威光を取り戻すため次期将軍を補佐して上洛させる という大義名分があったからです だからそのときは 対立していた武田信玄や上杉謙信でさえ信長と和睦しています そして義昭を将軍に据え 軍を持たない義昭に代わって 天下統一への戦いに奔走していったんです つまり 重要なのは 上洛して将軍になるか あるいは将軍を補佐し 天下に号令を出すか これが大事です

  • kusirosi
  • ベストアンサー率32% (2838/8861)
回答No.2

上杉謙信は 二度上洛したが 天下統一したとは いわれてない\(^^;)...マァマァ 上洛成功しても 畿内一円程度しか支配できなければ 三好松長のように、一時的に洛中を支配したにすぎす 天下人ではない。  天下統一の可能性と言えば 織田と協調し、徳川のように、頼もしい同盟者に徹すれば 英明な信忠の妻に、松姫が正室に行く予定だったから、 織田家の有力な外戚として天下を左右できたかもしれないが・・・

回答No.1

西上すれば信長倒せたことは確実でしょうからね。 そのあと広大な領土を持ってその大軍を突っ込めば上杉倒すのも容易でしょう ですが仮に武田でも上杉でも京を掌握して天下の政治を思うがままにしても頭が堅いので足利将軍をずっと残す確率のほうが高そうではありますんで、ただ武田の場合は清和源氏の名門なので将軍職を譲り受けることも可能だったかと思われます。 問題は正確ないみでの武力統一という意味では違いがあるかもしれません

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