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武田信玄にとっての1番の敵は?

武田信玄にとっての1番の敵は誰でしょうか? ・上杉謙信(良きライバル) ・武田義信(長男。意見の対立で幽閉、切腹) ・今川義元(言うほどの愚将では無かった) ・北条氏康(戦国三強の一人) ・徳川家康(三方原で蹴散らすも…) ・村上義清(信濃統一の最大の難敵) ・長野業正(上野で4度負けた相手)

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  • tekcycle
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回答No.6

> ・武田義信 信玄もクーデターを起こしたわけですが、その時、信玄に従った家来は多数、 義信が起こしたクーデターに従った家来は少数、 というわけで、クーデター対決で話にならないでしょう。 今川をどう扱うかという辺りの、思考的柔軟性や戦略性も無いわけですし。 そもそもクーデターを成功させる見通しすら立てられなかったわけです。 > ・今川義元 義元が名将なのでは無く、太原雪斎が優秀だったのでは。 その弟子が徳川家康なわけですし、太原雪斎が生きていた頃と死んだ後で違うわけですし。 > ・北条氏康 三国同盟が崩れた後、結局信玄が押しているんですよね。 北条が駿河を守れたか、という辺りとか。 甲斐に引き揚げる信玄を急襲しようとして、返り討ちに遭ってますし。 たしか北条綱成が旗を取られたのではなかったかと。 > ・徳川家康 人の器はともかく、国力まで勘定に入れれば、話にならないのでしょう。 三方原も、たまたま逃げ帰れただけで。 後の真田と徳川、真田と北条もそうですが、国力自体が違うと。 男子100kg超級と鼠100g級とでは、後者が善戦、守り切ることはあっても、そもそも勝負になりません。 > ・村上義清 > ・長野業正 で、彼らの版図が広がったのか、という。 局面で勝ったのと、守り切ったのとは違いますし、局面で勝っても大局的に負けていれば、相手にはなりません。そのうちに。 そのうちに、まで考えていたのが信玄でしょう。 武田と隣接していて、版図を広げたか維持できたのは誰なのか。 というわけで、その中なら謙信か。 春日山城を囲まれたわけでは無いですし。 防衛戦は防衛戦でも、打って出て侵攻を防いでいるし。 戦略性では信長でしょう。 地理的に少し離れていたのと、甲信駿の平定に時間がかかりすぎたのと、その間に、おそらく金鉱山が枯れてしまったのと。 信玄がもう20年長生きしていてもどうだったか。 信長は、商業という未発掘の鉱山を発掘して、それでお金儲けをしたわけで。 現代でもアメリカ軍がなぜ強いかと言えば、金があるから良い兵器をもっているのが理由でしょう。 金(きん)が豊富だった頃の信玄と、商業で成功した信長と、おそらくそれぞれ良い兵器を持っていたのだろうと想像します。時代はずれますがね。 甲斐の赤備え(山形隊→井伊隊か)なんてのもその一つでしょう。 9/10の確率で矢が刺さらない鎧と、それが7/10の物とでは、前者の方が高価でしょうし、生存率も高いのでしょう。 それだけ無茶な戦いがし易いということでもあるでしょうし。 長篠で両者が逆転しているところから、それより前のどこかの時点で、軍事経済力が均衡したのだろうと見ます。 おそらく信長の見立てでは、三方原の後のどこかの時点なのでしょう。 勿論、防衛線が長い信長と、それよりは短い信玄勝頼とでは、軍事経済力自体が同等なら信長の負けなのですが。 なお、低地が栄えたのは戦国時代後期から。 平野が平野なのは、海からの砂や川の氾濫による土がその地形を作り出しているからです。 湖の栓が壊れた、なんてこともありますが。 つまり、多くの土地は、放っておけば高潮や津波や洪水などの水害が起こるということです。 土木工事無しに低地の平地に住むのは危険だったのでしょう。 東京、大阪、仙台、名古屋、岡山、広島、この辺りに街ができたのは、戦後国時代後期からでしょう。 例えば都があったのは、奈良、京都、という内陸部ですし、京都には巨大な調整池があったわけです。 今我々が低地に住めるのは、土木工事のおかげです。 土木工事というと豊臣秀吉が有名かもしれませんが、その前、武田信玄も、河川改修に成功しています。 その辺りで、まず土木技術の発達があったのでしょうね。 今の感覚で信州甲斐は田舎だろう、というのは違うかもしれません。 豊臣秀吉は、尾張中村の水呑百姓の倅。尾張中村というと、今の名古屋駅前ではないでしょうか。 そこから旧ナゴヤ球場に行く途中に、太閤という地名があるようですが。 名古屋駅前の水呑百姓。違和感が。 その尾張下三郡の支配者が、織田信秀、信長だったわけです。 そんな(今なら)一等地を、家老の家老に支配させるでしょうか。 全くの勘ですが、土木工事、ひょっとすると干拓もかもしれませんが、それで、荒れ地を二等地に変えたのではないかと想像しています。 商業収入に目を付けたのも、その辺りの財源等々からの発想では、と。 その辺り、(たぶんインチキ臭い)行商あがりの豊臣秀吉にはピンと来る物があり、また土木にも目を付けたが、しかし、古参の家来達は中々頭が追いつかなかったのでは。 というわけで、戦略性なら信長が上。信玄はライバルですら無いでしょう。 信長は世界史上に残して良い政治家ですから。

azuki-7
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noname#224207
noname#224207
回答No.5

もともと天下がどうのなどということは考えていなかったでしょう。 関東地方の地図を南北を逆さまにして見れば判るように、物なりの少ない甲斐よりも関東平野に進出したいと考えるのが自然です。 関東へ打って出るには背中でチョロチョロする謙信が目障りだったのと、曲がりなりにも関東管領のお墨付きを持っている上杉を取敢えず叩いておこうと思ったのが意外に手間取ったというのが実際のところでしょう。 上杉氏自身も古賀公方やら里見氏にチョッカイを出して、歴史的に関東に興味を持っています。 そういう意味では、関東で実権を持っている小田原北条氏が当面の敵でしょう。 駿河へもチョッカイを出していますが、東海道筋は小うるさいのが多く、又エッチラオッチラ山越えをする手間を考えれば、今川などは余り頭になかったでしょう。 戦国武将といのは実務家です。 天下がどうの、などという抽象論は好みません。 上杉もその気になれば、サッサと敦賀から京へ入って天皇を押さえればいいだけの話なのにおくびにも出していません。 京へいったところで腹が膨れる訳ではないのを良く知っていたのでしょう。 天下がどうの、戦略がどうのというのは歴史小説家がでっち上げただけの話です。 信長も、ハナから天下などということは考えていなかったはずです。 目障りな奴をかたっぱしからやっつけて行った結果の話です。 これでは、小説は売れないし、歴史評論家もおまんまの食い上げになってしまうので、あ~だのこ~だの言っているだけです。 御家来衆が崇め奉って、こうお考えになられて、こう仰った、てなことを書き遺すのは世の常人の常です。 松下幸之助も、松下グループを念頭にいれて二又ソケットを作っていた訳ではないでしょう。 本田宗一郎も、本田グループを思い描いて二輪車作りを始めた訳ではないでしょう。 実務家というのは、こういうものです。 当面の問題を着実に解決していった結果です。

azuki-7
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  • lions-123
  • ベストアンサー率41% (4360/10497)
回答No.4

>武田信玄にとっての1番の敵は?      ↓ 天下取りor宿敵を指すのでしょうが、武田信玄の年齢年代によって異なるのではないでしょうか・・・ <私見>一番の敵は? ◇地政学上の不利:農閑期を中心に駆り出される半農半兵が戦力の中心であり、農作業の担い手を動員し長期間の遠征そのものが兵力・兵糧の点で難しい。 兵站線が長くなり、且つ甲斐信濃は都(京都)から遠く寒冷地でもあるので、進軍に合わせての徴用徴収は反発を招くばかりか進撃スピードを損なう面からも最大の敵・ウイークポイントではないだろうか。 ◇石高と収穫時期の面でも地元を主将(領主)が長期間離れる事は周辺国との力の均衡や人質によるバランス関係の崩壊を引き起こし易く、上杉・今川・北条との微妙な鼎立状況、さらに無理を押しての都への進撃には織田(今川没落後は徳川)の壁が有り、治政統制上は国内(領内)の下剋上や内紛の恐れも絶えずある。 足利将軍や公家、比叡山等のシンパ・味方勢力もあるが、武田勢の上洛・都への攻め上がりの目的には人材&戦略面で効果的に機能せず、実力面でも不十分であった。 ◇やがては年齢・健康が敵となるのは、当時の平均寿命や医学レベルでは誰もが回避できない要素である。 従って、天下取りへのライバル・敵・ハンディとしては→四囲に上杉・北条・今川のライバルが居て、目指す先には織田があり、距離の遠さと領地を離れられない地政学上の不利を抱えていたのではないでしょうか・・・

azuki-7
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  • maho_m
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回答No.3

戦略面で戦術面で? 条件付けが甘い。 考え無しの投稿なのでやり直さなくて結構ですよ。

azuki-7
質問者

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回答No.2

何時から武田信玄は独裁者になったの? 彼は豪族の頭領です 豪族の意向に従い戦争してたまでのこと 地元豪族が離反したらあの世逝き 信玄にとって一番の敵は地元の有力豪族 親父みたいに追放は勘弁でしょ

azuki-7
質問者

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azuki-7
質問者

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一応守護大名ですがね

回答No.1

こんにちは。 川中島の戦いのライバル、上杉謙信と言いたいところですが、 織田信長ではないしょうか!? 比叡山延暦寺の焼き討ちで激怒して兵を挙げた位ですから。 その後ポックリ死んでしまうんですけど…。

azuki-7
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