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信玄は越後を取っていれば天下を取れていた??

「お金の流れで見る戦国時代」大村大次郎 https://www.amazon.co.jp/dp/4046017112/ という本を読みました。 この本の中で信玄の領国、甲斐や信濃は領国が貧しい上に 上方で物資を輸出規制されると陸の孤島でどうしようもなくなると書いてありました。 武田家は搾り取るような税金の取り方をしてやっと軍備を維持していたわけですが、 潤沢に資金があり、天下統一の意志がなかった越後を制圧してその港や金山を手に入れていれば天下はとれたでしょうか? 教えてくださいよろしくお願いします。

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  • eroero4649
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回答No.1

>お金の流れで見る戦国時代 私も読みましたが、私レベルにツッコまれるほど間違いが多いので、お金の部分以外はあまり信じないほうがいいのではないかなと思います。 >この本の中で信玄の領国、甲斐や信濃は領国が貧しい上に >上方で物資を輸出規制されると陸の孤島でどうしようもなくなると書いてありました。 この点においては大きくは間違っていないと思います。現代でも内陸国っていうのはとても不利です。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E9%99%B8%E5%9B%BD%E4%B8%80%E8%A6%A7 これを見ると分かると思いますが、内陸国に工業国ってほとんど存在しませんでしょ?スイスが唯一といってもいいくらいです。しかもスイスが豊かになったのは比較的近代で、アルプスの少女ハイジの頃は人間しか輸出するものがないド貧乏な国だったんです。 内陸国は船による輸送がやりづらいので、経済発展しづらいんですね。それは甲斐、信濃もそうでした。さらに甲斐、信濃は高地で寒かったので米もあまりとれない(今でも米どころではないですよね)貧しい地域だったのです。戦国時代はフルーツはほとんどなかったからねえ。 >潤沢に資金があり、天下統一の意志がなかった越後を制圧してその港や金山を手に入れていれば天下はとれたでしょうか? その本にも上杉謙信が青苧(カラムシ)の販売権を持っていたから莫大な資金力を持っていたとあったでしょ、確か。上杉謙信の経済力の出処は青苧で、佐渡の金山はもうちょっと後になってからです。 上杉謙信が仮にあれほどの名将ではなかったとして、そのまま北上をして長尾家を滅ぼしたとしても、そのまま青苧の販売権が手に入るわけではないので(青苧の商人は武田家を介さないで商売をするでしょう)、経済的にはなかなか厳しかったでしょう。 それより、越後国内は謙信在世中には反乱を起こしてばっかりで大変だったんですよ。特に揚北衆と呼ばれる山形県の県境に近い地域がいうことを聞かなくてね。戦さになったら謙信に勝てるわけがないのにしょっちゅう反乱を起こすんですよ・笑。新潟県つうのは想像するより広い場所で、今でこそ全国有数の米どころですが戦国時代はさほどの米どころではなく荒れ地が続く場所だったので、どこまで豊かになったんだろうなあと思います。 上杉謙信も「部下がいうことを聞かないで反乱ばかりする」っていって二回ほど家出してますからね。その度毎に家臣が頭を下げて戻ってきてくださいってやったのです。しかも「じゃ、戻ってくる代わりに俺のいうことを聞けな」「はいわかりました」っていったのに結局いうこと聞かないで反乱を起こしますしね・笑。ま、死ぬほど人使いが荒くて戦さになったら絶対勝てない謙信公も悪いんですけど。戦さになれば絶対勝てるからいくら部下が反乱を起こしても鎮圧できちゃうんだよねえ・笑。 それだったら、やはり南下政策のほうが現実的だったのでしょうね。しかし古い付き合いの今川家とは関係がズブズブすぎていくら戦国の世の中でも攻め込んで俺たちの領土にすればいいとはならなかったでしょうね。 実際、南下政策をとる代わりに嫡男の武田義信が自害に追い込まれ、腹心中の腹心である飯富虎昌を謀反(容疑)で失います。その飯富虎昌を密告したのが弟の飯富三郎兵衛。その名前で呼ぶより世間でよく知られている「山県昌景」の名前でいったほうが分かりやすいでしょう。そう思うと、南下政策は武田家滅亡の一因になるほど我が身を削る政策だったんですね。 北へ向かってもおいしくない。東(関東)に向かってもうまみはない(国家としては北条家のほうがシステマチックで優れています。武田家はいっちゃ悪いが田舎企業)。西(美濃)は地形がキツすぎて進出できない。南に向かうと屋台骨が揺らぐ。 それが武田信玄の置かれた状況だったのです。

tasukete2018
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  • jkpawapuro
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回答No.3

信玄の寿命があと10年早ければと同じ理屈で、信玄がもっと早く北を抑えて西進政策をとれてれば天下をとっていたと思いますがねえ。 戦国時代は貨幣経済の浸透と鉄砲により、経済力が軍事力に寄与した時代と扱われますが、結局鉄砲で武装した織田徳川軍を三方ヶ原で破ってますので、まだまだ兵力による野戦は有効だったと考えます。 豊臣といっしょで結局後景体勢の取れていない武田じゃ先は怪しいとおもいますが。

tasukete2018
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  • IXTYS
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回答No.2

> 信玄は越後を取っていれば天下を取れていた? こんにちは。 とても興味ある良い質問ですが、私も#1の方と同じで否定的です。 その理由は地の利に恵まれていない。  天下を統一するにはやはり中京地区を制し、畿内地区に入り込んで都に入場する。  その道順があるのです。   後年天下統一に手を掛ける信長にしても家康にしても若い時から自由都市堺の町に入り込み、鉄砲を買い込むだけでなく、商業の発展の重要性をも学んでいます。  信長の『楽市楽座』は歴史の教科書で学びました。  優れた戦国武将は優れた行政官でもあったのです。 偉大な業績を達成させるには『天の時』、『地の利』、『人の和』と言います。  個人的な資質だけでは歴史的な業績は達成出来ません。  信玄に優れた武将としての資質は認めます。  戦いの優れた武将でしたが、地域振興の行政官としての側面が欠けています。    

tasukete2018
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