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武田信玄と上杉謙信の虚像と実像
武田信玄と上杉謙信の虚像と実像についてそれぞれ教えてください
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最近の研究の進歩から言えば枚挙に暇ありませんが、いくつか挙げるとするならば 信玄 ○晩年の西上作戦について ・元亀2年から三河・遠江に侵攻そいて、信長・家康と敵対 → 天正3年の長篠合戦直前の勝頼の侵攻の史料であり、信玄は元亀2年段階では信長らと敵対していない。 ・信長包囲網を築き上洛を目指した → 足利義昭らの反信長勢力に引っ張り出されたのであって、主体的に信長と敵対しようとしたわけではない。また上洛を目指したわけでもない。 ○武田家滅亡の原因 ・勝頼の能力の問題 → 勝頼は何度も信長と和睦しようとしているが、信長は拒絶していた。その理由は信玄に何度も使者を送り懇意にしていたのに、突然侵攻されて裏切られたことを信長は忘れていなかったため。つまり、武田家が滅亡するまで決定的に攻撃された原因は信玄にある。ちなみに、信長に滅ぼされた勢力の大半は信長を裏切った者たち(敵対しただけの勢力は許されていることが多い)。 ○男色の相手 ・春日虎綱(高坂昌信) → 史料にでてくる「源助」は虎綱ではない。 鴨川達夫氏の『信玄と勝頼』や『武田信玄と毛利元就』が参考になります。 謙信 ○性格について ・義を重んじる正義の武将だった。 → 関東出兵も信長との戦いも現実利害が原因。そもそもそれぞれに領地を持つ半独立的な家臣団が大義名分を掲げられても従うわけがない。 ・信玄とライバルでその死には敬意を示し、武田を攻めなかった。 → 信玄の死を確認すると、織田・徳川に一緒に武田攻めをするよう働きかけている。 ○最後の出陣 ・信長と決着を付けるため、上洛する予定だった。 → 関東に出兵の予定だった。
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上杉謙信 実は金儲けがうまい人 ・戦が起こるたびに家臣に金を貸し付け、利益を得ていた。 ・信玄に塩を送ったということではなく、「塩止め」を行わなかったということ。それで利益を得た。 まあ、金が有る→戦力増強ってことです。 謙信の死後の相続財産はたいそうな額であったとのこと。
- あずき なな(@azuki-7)
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武田信玄はホモだった 信玄堤を作ったのは武田信玄ではない 信玄という法名を送ったのは恵林寺の快川和尚ではない 武田24将は実際22人だった 肖像画は別人 上杉謙信は女だった 信玄に塩を送ってない 謙信には双子の弟が居る 未婚だったが実際は女の子が一人居た 信長と決戦のため機内出陣の日の朝 脳卒中でトイレで絶命
- toganoyua
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当時は珍しくないけど、信玄はオカルトにどっぷり。 武田観音を作ったりしてた。 後、謙信のことは見下してた。 『長尾の小倅が、上杉家を継いだだと?』みたいにね。(←臣籍に入った皇族がいきなり天皇になる感じな経緯) その割には、毎年のように同じ温泉に同じ時期に行ってるとか。
- 1582
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上杉謙信の義将っぷり 実際は塩なんか送ってないし戦後捉えた捕虜で奴隷市を開いたり