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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:日本人は コギトではなく コギターレを思っている。)

日本人はコギトではなくコギターレを思っているのではないか?

kannzou001の回答

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回答No.1

「多くの者は悩む事を悩んでいる」と言う事を言っていた人がいた気がしましたが、検索して探しましたが分かりませんでした。 その名言が実在するかどうかは別にして、実際はそうだと思います。故に、(1)(2)はその通りだと思います。 (3)に関してもそうですね。 私もそうですが、「主な自分の考え方」と言うのは、歴史上の偉人や現在の知識人の価値観や倫理観などを参考にして、自分なりにまとめたものを「自分の考え」と称しているだけです。要するに、私もそうですし多くの人も「本当の意味で自分の考え」などほとんど無いのです。私は冒頭で「多くの者は悩む事を悩んでいる」と言いましたが、これがまさにその通りで、要するに「他人の褌」というやつです。 >考え得る原因は 《自分の意見を主張するのは 見苦しい》とでも見られるそのつつしみ深さでしょうか? 見苦しいと言う事より、その意見を言う事は、「否定される」と言うリスクを孕みます。それが嫌なのだと思います。 どうでも良い「意見」なら否定されても、「こういう人もいる」で済みますが、自分の人生の根になるような自分にとって重要な意見や価値観を否定されると我慢ならなくなります。よってそのような意見は「表明しない」が安全策と言えるでしょう。 これは主に、宗教や政治がらみでこのような事が起こります。 自分の宗教が一番で、他宗教は邪教だ。と言う主張の好戦的な人物なら、「表明しない」よりもむしろ「積極的に表明し正当性を主張して、間違った考えの他者を排除しよう」としますが、日本人の多くは表明する事での争いを生むなら、黙っていて誤魔化しながら他人とうまく付き合おう。と言う選択をします。 具体的な問題解決で考えるより、悩む事を考えているのもこの影響が強いと思います。具体的な問題解決をする場合、必ず他者との争いが生じます。それは問題解決をされると都合が悪い人がいるからです。「問題」とは、現状を変えたいと言う人と、現状を変えられたくないと言う人の争いから生まれます。 そういう人たちと真っ向から戦わなければ成りません。しかし、そのような争いを避け、現状に甘んじるが余り、問題を解決したい→でもそうしたら○○さんと争う事になる→じゃあどうしよう→このままで良いか→嫌、このままで良い分けがない→ループ と言う、「悩む事に悩む」と言う現象に陥ります。 こういう考えが普段から習慣で身についているので、就職や転職などの他人の争いとは関係ない分野でも、抜本的な解決策を模索するよりも、「悩む事に悩む」と言う事態に陥る人が多いように思います。

bragelonne
質問者

お礼

 かんぞうだぶるおーわんさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ 「多くの者は悩む事を悩んでいる」と言う事を言っていた人がいた気がしましたが・・・  ☆ なるほど。そういうことですか。    ○ 恋に恋する  とも言いましたね むかしは。あるいは  ○ 日本の経済学は 経済学学だとか。  ★ 故に、(1)(2)はその通りだと思います。  ☆ そうだとしますと 言ってみれば  ○ コギターレの海を泳いでいる。その泳ぎをたのしんでいる。  と言えましょうか。  ★ (3)に関してもそうですね。  ☆ ですか。  ★ ・・・要するに「他人の褌」というやつです。  ☆ なんですか。  (わたくし自身は 幸か不幸か いくらかの自分の考えを持つことが出来ましたので いちおうその事実に立ってものを言っており質問を挙げています)。  ★ ~~~~   ☆ 《自分の意見を主張するのは 見苦しい》とでも見られるそのつつしみ深さでしょうか?  見苦しいと言う事より、その意見を言う事は、「否定される」と言うリスクを孕みます。それが嫌なのだと思います。  ~~~~~~  ☆ なるほど。でしたら 必ずしも 《沈黙は金》という方面からの要請でもないのですね。  コミュニケーションは とうとぶのであり それぞれ自分の意見をも自分の中には用意しているのだと。  ★ ~~~~  どうでも良い「意見」なら否定されても、「こういう人もいる」で済みますが、自分の人生の根になるような自分にとって重要な意見や価値観を否定されると我慢ならなくなります。よってそのような意見は「表明しない」が安全策と言えるでしょう。  ~~~~~  ☆ ごもっとも。(ですから わたくしは 少しは人びとが振り返って見直しうる見解を持とうとしてきたのではありますが)。  ★ これは主に、宗教や政治がらみでこのような事が起こります。  ☆ ということは 例の《クウキの支配》がその場や情況を覆っているといったことでしょうか? 個人の見解はむしろこの《宗教や政治》の側面とからんでこそ その値打ちが発揮されるものだとも言えそうですから それを周りから否定されてしまっては元も子もなくなります。  ★ ~~~~  自分の宗教が一番で、他宗教は邪教だ。と言う主張の好戦的な人物なら、「表明しない」よりもむしろ「積極的に表明し正当性を主張して、間違った考えの他者を排除しよう」としますが、日本人の多くは表明する事での争いを生むなら、黙っていて誤魔化しながら他人とうまく付き合おう。と言う選択をします。  ~~~~~~  ☆ あぁ この方面になると 先ほどの《慎み深さ》や《沈黙は金》といったナラワシが顔を見せているかも分かりません。不毛な水掛け論が多すぎます。  ここから  ★ 具体的な問題解決で考えるより、悩む事を考えているのもこの影響が強いと思います。  ☆ というのは いささか情けないとも映ります。残念なように思います。  ★ 具体的な問題解決をする場合、必ず他者との争いが生じます。それは問題解決をされると都合が悪い人がいるからです。「問題」とは、現状を変えたいと言う人と、現状を変えられたくないと言う人の争いから生まれます。  ☆ まぁ 或る意味で例の橋下氏のたたかいとかかわっていましょうか。たとえばですが。  回り道であっても 哲学も それなりのチカラを発揮しうるはずなのですが。  かくして  ★ ~~~~  そういう人たちと真っ向から戦わなければ成りません。しかし、そのような争いを避け、現状に甘んじるが余り、問題を解決したい→でもそうしたら○○さんと争う事になる→じゃあどうしよう→このままで良いか→嫌、このままで良い分けがない→ループ  と言う、「悩む事に悩む」と言う現象に陥ります。  ~~~~~~~~~  ☆ たしかに《ひとり》は よわいです。おそらく特に日本社会では ひとりのチカラは よわい。と考えられます。情況をクウキが覆い包むからだと思います。  ★ こういう考えが普段から習慣で身についているので、就職や転職などの他人の争いとは関係ない分野でも、抜本的な解決策を模索するよりも、「悩む事に悩む」と言う事態に陥る人が多いように思います。  ☆ なのですね。  そうでしたか。  わたくしは 言ってみればバカ丸出しですから どしどしあたらしい考えを提出します。たとえばローマ教会を初めとして宗教組織は ぜんぶ自己解体すべしと言っています。  わたくしも  ★ 「悩む事に悩む」と言う事態  ☆ について考えてみなければならないかも知れません。たぶんその事態に落ち入ることはないと思いますが。恋に恋することにはなじまないと思っていますから。でも 恋に恋する気持ちが分かるようになることも大事であるのかも分かりません。(たぶん そうだとしても これまでの行動方針をあまり変えないかも知れませんが)。  ひとつ分かったように思いました。  でも 日本人は おしとやかなのですね。

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