• ベストアンサー

行き倒れの遺体処理

Verhaltenの回答

  • ベストアンサー
  • Verhalten
  • ベストアンサー率17% (36/201)
回答No.1

辻番は 境石で境界線を決めていましたが、それを超える事はとんでもない事でした。 江戸時代は左=上座から来ているのだと思います。 中には、 左前の構えは剣術では普通であるとか、弓術では左前。 こう言った、男は左と言う慣例を主張する方もいます。 >また、辻番はどのように遺体を処理したのですか。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E3%83%B6%E6%A3%AE%E5%88%91%E5%A0%B4 それ相応の処分場も処理係りもいたと思います。 一説ですと刑死者は小塚原か鈴が森の刑場の片隅に穴を掘って埋めていたそうです。 その一方で刑死者は鳥や野犬のエサとも。 行き倒れなら引き取り手も無く、こう言った所へ埋めるのでしょう。

kokutetsu
質問者

お礼

剣術から来ているとは面白いですね。さっそくのご回答ありがとうございました。

関連するQ&A

  • 古墳時代。遺体を化粧して埋葬したのか。

    エジプトのミイラには化粧してあるものがあるそうです。 日本の古墳の石室からは数々の装飾品が出土していますから、おそらく遺体は化粧されて埋葬されていたのでしょう。 質問です。 1.日本のミイラにも化粧されているものがありますか。 2.古墳時代。遺体を化粧して埋葬していましたか。 よろしくお願いいたします。

  • 江戸時代あたりの 小規模な寺について

    今、江戸時代の事についていろいろ調べているのですが。。。江戸時代になると檀家制度が開始されて、寺が地域とピッタリくっついてしまったようですけど、そうなると地域によっては小さな寺しかない所とかありそうに思ったんですけど、どんな小さなお寺にも立派な御本尊だとか鐘があったんでしょうか? 大きな寺ならいっぱい資料があるのですが、いかんせん小さな寺となるとどうも資料が少なくて困っています。 質問のまとめ:昔(江戸時代あたり)の小さなお寺にも立派な御本尊や鐘があったんですか? そもそも、寺の建物自体もみんな立派な物だったのでしょうか?  回答どーーぞよろしくお願いします 

  • 足何回組めますか?

    某漫画で読んだら、男は一回だけ、女は二回組めるとか書いてありました。 ルールとしては、 右ひざを左足に乗っけて、右足の右に左足が来るようにすると一回。 そこから、右足を左足のくるぶしに引っ掛けて右足の左にに左足がこれば二回。 さらに左足を右足のくるぶしに引っ掛けて右足の右に左足が来るようにすると三回というように数えるようにします。

  • 【時代劇】時代劇ではどんな悪党だろうが、悪代官だろ

    【時代劇】時代劇ではどんな悪党だろうが、悪代官だろうが、忍びだろうが畳の上に入る一歩目は左足から入ったそうです。 なぜ昔の日本人は家の中に入るとき玄関をまたぐときは必ず左足から入っていたのですか? なにかの怨霊?陰陽道ですか? あと日本の時代劇は江戸時代ですか?戦国時代?

  • 江戸の寺の住所。

    江戸の寺には町名はなかったそうです。 町人地には町名がありますが、なぜ、寺社地には町名がないのですか。 芝の増上寺、上野の寛永寺と言うように、「芝」「上野」を付けるとある程度、所在地は分かります。 今の東京23区に代わる「地域名」(例えば芝、上野)が決まっていたのでしょうか。 地方から江戸の寺に手紙を出す場合は、住所をどのように表示したのですか。 よろしくお願いします。

  • 寄進物について

    戦国時代からある由緒ある、お寺の通用門なんですが、家伝では江戸時代に寄進したそうなんですが、でもあちら側のご回答では、食い違いがあるというか、そういう話しは聞いたことないみたいです 住職なら自分のお寺のことは何でも知ってるはずですよね?由緒あるお寺の住職ですし うちの当主が話す家伝を聞く限り嘘を言ってるようには感じないんですよね

  • 江戸時代の戸籍管理

    ご先祖は江戸時代農村の郷士から藩士(城勤め)になったので、戸籍管理が、お寺から藩庁のほうに移りました だけど、藩士になっても、お墓は郷士だった頃の農村のお寺に建てたんですよね、これって、戸籍管理がお寺から藩庁に移ってますが、元々いたお寺にお墓を建てても、よかったんですか?それと、当主や家族が亡くなる度に遺体を10数キロも離れた農村まで運んだのも不思議ですが 余談、農村には郷士だった頃の、ご先祖所有の農地屋敷があり屋敷農地の管理は身内、小作人に任せてあったみたいです

  • 江戸時代の埋葬方

    江戸時代の一般的(庶民の)埋葬方法について質問します。 山本一力氏の小説「あかね空」を読んでいるのですが、物語の中で人が亡くなるとしばしば、火葬を想起させる表現が出てきます。 「お骨になる」や「(亡骸を)焼き場に持っていく」などです。 読んでいて疑問におもったのですが、小説「あかね空」は、宝暦十二年(1762年)から寛政年間(1790年代)の江戸深川が舞台となっています。この頃の庶民の埋葬方法としては土葬が一般的であったと認識していたのですが、地域によって格差があったのでしょうか? また、その当時、現在の火葬場に相当する施設や専門の人足がいたのでしょうか? ご存知なら教えてください。

  • 外界と遮断されてる日本の地域はあるか

    外国には外界と交流せず、昔の生活(大体江戸時代以降あたり)をしている地域がある国があるそうですが、そういう地域は日本にあるんでしょうか?

  • 江戸時代の冬服

    連日寒い日が続きますが、まだ東京23区内に住んでてそんなこといっては、 ほかの地域の人に笑われてしまいますね。ところで、昔の江戸は今より寒かった ということはよく知られていますが、江戸の住民は冬どんな格好ですごしていたの でしょうか。時代劇では町人(男)は一年中素足でいるようですが、あれでは たまりませんよね。