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個人的なパラダイムシフトという表現の是非

 "個人的なパラダイムシフトが起こった。"というような、個人または小規模な組織に対してパラダイムシフトという言葉が使われるのを時々目にしますが、わたしはこのような表現方法に若干違和感を感じます。  パラダイムシフトについての定義を調べ、出てきた説明から、「大規模な集団(延いては世界中の人々)を対象とした価値観の大転換期。」のような大がかりな言葉というイメージを受けました。(例を挙げると天動説の破綻や、量子論の発展などでしょうか。)  小説などでの誇大な比喩表現として個人に対して使われたり、ビジネス用語として多少意味合いを変えて使われたりするのはわかりますが、日常での使い方として、個人などに対してパラダイムシフトという言葉を使うことは正しいのでしょうか?  また、それが間違っている場合、個人に対して使うとすれば、"意識の大転換期"や、"価値観のターニングポイント"など、修飾語を伴う表現しか思いつかないのですが、一つの単語でこれを表現できる言葉はあるでしょうか?

みんなの回答

  • key00001
  • ベストアンサー率34% (2878/8340)
回答No.3

私も2つの観点で奇異に感じます。 パラダイムはモノの見方・考え方、価値観などと言う意味なので、個人レベルのパラダイムが存在するコトは、問題はありません。 ただ、個人レベルでパラダイムが変わる場合は、「パラダイムチェンジ」でしょう。 「シフト」は、広義には「移行・移動・転換」などの意味ですが、狭義には社会とか、不特定多数が所属する組織、機関などのレベルでの移行や転換を指します。 個人レベルで「パラダイムがシフトした」って言うのは、大袈裟な表現かと思います。 また、せめてその「(個人的にパラダイムが)シフトした」なら判るのですが、「シフトが起った」と言う表現が奇異ですね。 そもそも個人のパラダイムと言うものは、本来は他人にチェンジやシフトされるモノではありません。 個々が能動的・主体的にチェンジやシフトするものです。 それにも関わらず、自発的・受動的に「シフトが起った」と表現しているワケです。 結局のところ、手っ取り早く言えば「私は考え方(パラダイム)を変えました」なんですよ。 ソレを変節などと思われないために、「チェンジ」を「シフト」と言い、「チェンジ/シフトした」では無く「チェンジ/シフトが起った」と嘯いている様な言い回しかと思います。 やや詭弁的な言い回しだと思いますよ。 そういう表現を意図的に行っているとすれば、「ある発見や、自分が受入れた思想が余りにも優れており、その結果、自発的に自分の考え方が変わってしまった」と言う様なコトが言いたいのでしょうね。 さもなきゃ「私は洗脳された」に近い表現です。

回答No.2

新しい専門用語が出現し、広い層に許容され浸透していくと、 得てして概念の矮小化・卑小化がおこりがちです。 これはこれで仕方ないとして。 こうしたカタカナ語を使うと、いかにもそれらしく聴こえるというか、 ある種の“権威”のようなものが漂うので好まれるのでしょう。 個人的には、代替語としては、俗ですが 意識改革もしくは意識革命あたりでいいのではないかと思います。 ちなみに歴史上の三大パラダイムシフトと言うべきものは  ・コペルニクスの地動説  ・ダーウィンの進化論  ・フロイトの無意識の発見 です。

回答No.1

ウィキペディアには、 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%80%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%82%B7%E3%83%95%E3%83%88 「パラダイム概念の説明で用いられたものが拡大解釈されて一般化したもの」 「拡大解釈されたパラダイムは、認識の仕方や考え方、常識、支配的な解釈、旧態依然とした考え方などの意味合いで使われている。」   個人に関してパラダイムシフトではない言葉で、昔から使っている言葉には、次のようなものがあります。 転向・ひよる・転ぶ:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%A2%E5%90%91 変身・変わり身・宗旨替え・変節・風見鶏・豹変・心変わり: 転化: 弁証法的発展・アウフヘーベン: 解脱・悟る・覚悟: 認知のスタイルの変更・スキーマの変更:(修飾語を伴う)   はやり語を使うのは、コミュニケーションの都合でしょう。 妙な言葉を使うよりも、また「あなたも変身したらどうですか」と言い方よりも、「あなたもパラダイムシフトが大事だと思います」というような言い方の方が、受取手にとって理解・許容しやすいのではないでしょうか。

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