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コミュニケーションの矛盾とは?
- コミュニケーションにおいては、お互いの溝が言語によって明晰になり、その溝の乗り越えがたさが浮かび上がっていくことが矛盾と言える。
- コミュニケーションは相手の意見や感受性の違いを確認する作業を伴い、より多くのコミュニケーションをとるほど、周囲との断絶が露わになり、孤独感が増す。
- 「あなたは私と違う」ということはコミュニケーションをとる前から分かっているが、稀に「断絶の確認」ではなく、有益な展開につながることもある。
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それはその通りです。 貴方と同じ考えを。木村拓哉主演のドラマ「CHANGE」で同じような事を言っていました。 木村拓哉の役は元教師なのですが、その中で、生徒が言い争いをしたらしいです。そして先生としてはまずは「話し合おう」と言う。そしてその先にあるのは、「分かり合える」と言うかと思いきや、「自分と他人は違う人間なんだ」と分かると言いました。 同じ人間だからと思うから、「アイツだけ抜け駆けして」とか「アイツは非常識だ」など不満が起こる。でも自分と相手は違う人間なのだからそれは区別して考えないといけない。 違う人間だからこそ、「どのような言葉を使えば相手に伝わるか」などを気にしないといけない。 と言うようなことを言っていましたが、全部貴方の言った主張と同じです。 (1)「あなたは私と違う」ということが明らかになった後、単なる「断絶の確認」ではなく、別の発想が働き、有益な展開になることが、ごく稀にせよ、あるのでしょうか? ずいぶん前、兄の結婚式の際、その妻の母親がとてつもなく拘りがある人だったので破談になりそうになりました。例えば、結納は本来、嫁を物として扱い、その物を夫の家に結納する事だから、家の娘はモノじゃないので断わるとはっきり言われ、その瞬間とても悪い関係になりました。 確かに結納は本来そう言うものでしたが、今は習慣的に行われている何も意味の成さないもので、そんな言い方をされるのは非常に腹立たしい。他にもかなりもめるような事がありました。当初は相手も同じ日本人と思って「非常識な人だ」と母親は思っていました。(悪いですがその人は本当に非常識です) しかし、このまま兄夫婦の仲を両者の親によって嫌な感じで結婚式を迎えるのも良く無いと言うのと、その辺から「この人と自分は違う人間だ」と気付き始め、それに気付いてからは自分の中の「常識」は捨てて、相手のフィートに立って考えるようになりました。 そう言う割り切りのお陰で、今では母親と兄嫁の母親の関係は良いものになっています。 「違う」と言う事が分かる事は、コミュニケーションをする上で重要です。そして違う事が分かれば、その対策が出来るので、コミュニュケーションを円滑にする事に役立つでしょう。 >全く当然のことで、コミュニケーションをとる前から分かりきっていることです。すると、わざわざコ >ミュニケーションという労をとって確認するだけ 何が違うかはコミニュケーションをとらないと分かりません。 それと対応によって埋められる壁と埋められない壁があります。埋められない壁の人とは付き合うのをあきらめたほうが良いでしょうが、そうでない場合は埋められるなら埋めたほうが良い。かもしれない。 それもコミュニケーションをしないと分からない事です(貴方が、相手の眼を見ただけで、その人の人格や隠された人間性を見抜く強力な審美眼の持ち主であるならば、そのような面倒は不要です。そう言う人は世の中に稀にいると思います) (3)コミュニケーションとは究極的には、どのような行為なのでしょうか? 究極を言うと、効率的、かつ非暴力的に社会を構築するのに必要な唯一の手段。でしょうね。 だから、こんなに普及しました。 しかしそれが、相手と仲良くする手段に用いられるとは限りません。非暴力的に侵略(個人の場合も該当する)する手段にも持ちいります。
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- heart_mind
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コミュニケーションを交際というある程度の継続性を持たせたい場合に 限定すれば、慎重さは必要ですね。 もしそうだったら質問に答えられていなかったのかもしれません。 しかしこの場をお借りして別の観点でコミュニケーションにおける個人的 な現代の問題としてとらえていることを書かせてもらえるとしたら。 一つ例を上げるとして大昔の話ですが、何となく印象にいまでも残っている ことがあります。 バイトでウィンドウガラスを拭いていたんですが、上の方をつい遊んでジャンプ して拭いていたんですね。ツーステップでジャンプの繰り返しです。 タン・タン・ターンって、そしたらBGMみたいな声がしてきたんですよ。 「○・※・△ー△」っていう、その調子にうまくあっていたので、 ツーステッップでジャンプのタン・タン・ターンを繰り返していたんだけど。 実はおっかない顔で背後から「いーす・もって・きーん」繰り返し注意されてたんですね。 なんでずっと印象に残っているかというと、やっぱりそのやりとりのちぐはぐさ なんですね。勿論、業務報告の様な場所でこんなことは許されないのですが。 なんとなく、こういうちぐはぐな、「しらー」とした感覚は個人的にわりと好きな方で 昔の三谷幸喜さんの作品やマンガでいうと岩館真理子さんの初期の頃にはおおくちりば められています。 しかし考えてみたら、言葉を知らない幼児とのコミュニケーションはこんなもんなんじゃ ないでしょうか。そして、人がコミュニケーションをとる情動としての理由もまさしく、 これなんですよね。 それは、そうだとしてもグローバル化を目指す立場の人からみたら、はこれでは甘えている と言われそうですが、しかし、グローバル化の情動は何かと考えたら、、、 パラドックスですね。 移民社会で生きている人は、本当に閉鎖的でないのかなと疑問もあります。 例えば、スカーフで顔を覆っている女性に、アングロサクソンの男性がナンパしている 情景があたりまえにみられるのであれば、理想的かもしれません。 しかし実際は違いますよね。 日本の閉鎖的な地方だったら、そんな変わった子が転校してきたら、 ご飯食べるときはどうするの?色は自由なの?なんて、うざっ、ってなりますよ、きっと。 閉鎖的な社会は、外側にいつも興味をもって、こころのなかはけっして閉鎖的でなく。 開放的な社会は、大切な何かを守るために閉鎖的にならざるをえない。 と思うんだけど。
お礼
ありがとうございます。前の回答からのつながりがちょっと分かりませんでしたが、改めて、別の視点でお応えくださるという風に承っておきます。 注意されている声をBGMだと思って、ルンルンと踊っていた、ですか。微笑ましいですね。言葉の意味ではなく、リズムや音を感知していたということなのでしょう。子供とのコミュニケーションは、そんなものかもしれません。 それに、私は完全な相互理解はないという意味も込めて質問文を書いたのですが、グローバル化し、一つの大きなコミュニティを形成するためには、誤解も一つの重要な要素ではないか?とさえ考えています。つまり本当は相互理解が達成されていないが、相互理解しているに違いないと思い違っている状態です。 >スカーフで顔を覆っている女性に、アングロサクソンの男性がナンパしている いえ、結構ありますよ。もちろん、スカーフで顔を覆っているということは、イスラム教でも原理主義的な宗派であって、下手に話しかけてはならないことくらいは皆知っているでしょう。命知らずだな、と私は眺めていますが。セックスの話が他の方から出ていますが、性は実に強力なコミュニケーションの動機になるな、と思います。相手のことがほとんど分からないのにも関わらず、深い関係になることがある訳ですから。上に書いた誤解の好例だと私には思えるのです。 >日本の閉鎖的な地方だったら、そんな変わった子が転校してきたら、ご飯食べるときはどうするの?色は自由なの?なんて、うざっ、ってなりますよ、きっと。 ははは。私は外国の地方都市で、畳なる風変わりな絨毯や、アニメや、日本の文化の特殊性について、根掘り葉掘り聞かれたことがあります。でもこれは、パリにいても同じことだと私は感じています。これは社会のあり方の問題ではなく、むしろ個人の好奇心の問題なのじゃないでしょうか。
補足
誤解の効用について、もしお考えを深めることできそうでしたら、教えていただけると幸いです。
- masa2211
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>全く同じ人間などいない この文が全て。どう解釈したらいい??? 以下の両極端の、どちらの意味で書いた? ・他人の考えは自分とまるで異なる。 ・他人の考えは自分とだいたい同じだが、ほんの少し違う。 実際は両者の中間なのだろうけど....あなたの考えは、後者っぽいんだけど。.... つまりは、 互いの溝が無い(少ない)と思って話し合えば、アラだけが見つかるだろうし、 互いの共通点が無い、と思って話し合えば、共通点が見つかる(理論上、アラは見つからない。)ということ。 以上を以て(1)の回答とします。 (2)これは、断崖絶壁を谷にする場合は無意味。まずは自分の意思を伝えないと話にならない。 (3)情報伝達。(英語の本来の意味。) 会社内のコミュニケーションが悪い、とは、業務の引継ぎがされていない(伝達すべき事項が伝達されていない) のようなことを指すのであり、「業務と関係ない世間話」の有無を指すのではないので、「会社内の」という 枕を取り払っても同じこと。 マスコミは、マス(大規模)なコミュニケーションの意味で、明らかに情報片側通行ですが、それでもコミュニケーション。 手持ちの英語辞書には、 There's no direct communications between the two villages. その二つの村は直接行き来できない. (direct communications で、直接会う。) be in communication with ○○ ○○と文通(通信)している という文例が載ってます。意味どおりに解釈すればよいです。
お礼
ありがとうございます。 >実際は両者の中間なのだろうけど....あなたの考えは、後者っぽいんだけど。.... 両者の中間も、後者も同じことだと思いますが。中間=後者ととってください。 さて、辞書をお引きなった。なるほど。 >意味どおりに解釈すればよいです。 せっかくまじめに調べてくださったようですから、私からギフトのつもりで、辞書のひき方がそう単純なものではないことをお伝えしておきます。 まず私の手元にあるロベール社の辞書を取り出してみます。仏仏ですが、語源の研究に定評があるので。言葉の意味を探るときは、用例だけから推論を組み立てるのではなく、語源を調べないとなりません。 ロベールによれば、communicationの語源は、ラテン語でcommunicare、すなわち「他者と関係を結ぶ」だそうです。つまり、他者と関係することなら、すべてコミュニケーションと呼んでもよいというのです。この語は非常に広くて、情報の伝達だけを意味しません。他の方が書いていましたが、セックスなどのボディランゲージ、アイコンタクトなどもコミュニケーションに含まれます。 しかし、もう少し話を掘り下げてみましょう。communicareとは何なのか。ここにcommun「共通の」という語が潜んでいることに注目してみましょう。共通点を模索する、という意味があるということです。これは具体的には、どういうイメージを伴っているのか。 どの辞書を引いてもかまいませんが、おそらく皆になじみがある辞書ということで、ジーニアス英和を取り出してみます。これの語源の項目は、communicatioとなっています。これはキリスト教のcommunion聖体拝領という意味です。聖体拝領という行為は、おそらくなじみがないでしょうから説明しますが、信者らが聖体を拝んで、共通の経験をすることで、宗教的なコミュニティを形成するという行為です。これがコミュニケーションの本来の姿であった、というわけです。 そういうわけで、ネット上には、語源学を根拠に、コミュニケーションの目的とは、コミュニティを形成することにあると唱えている方もいらっしゃるようですね。単に情報の伝達ではなく、他者と共通点を模索する形で関係し、最終的には一つのコミュニティを築こうとする行為がコミュニケーションという語の元々のイメージであるーーということがいえそうです。もちろん、その中で、情報伝達という意味も派生的に生まれるでしょうし、現代の英語では、transissionの意味が主流になっているのかもしれません。語源からどういう意味があるかなどと考えていたら、日常会話をするのに支障をきたしてしまうことでしょう。しかし、ここは思想哲学をする場ですから。 ともあれ、辞書を引いたにせよ、より自由に話を広げることはできるのですよ。以上は私が数分で調べたことなので、もっと体系的に他の説をお持ちの方もいるかもしれません。
- ukiyotonbo
- ベストアンサー率11% (91/788)
>コミュニケーションをセックスになぞらえていますが、 >・外国人であり、 >・言語が通じず、 >・文化や習慣が全く異なり、 >・歳の差があり、 >などと、開きがある相手を想定してみてください。快楽は増大しますか。 ウィキで恐縮ですが、コミュニケーション(英: Communication、交流)とは、複数の人間や動物などが、感情、意思、情報などを、受け取りあうこと、あるいは伝えあうこと。なんだそうです。 DNA情報の混じり合いで、新しい、あなた、が出来る。つまり、コミュニケーションの相手が出来上がるのですから、究極のコミュニケーションではないでしょうか。 >共通の基盤があって安心感があった上で違いを楽しむというお考えなのか、それとも、違いを刺激として純粋に楽しもうというお考えなのか、確認をしたかったからです。 純粋に楽しむ?不純に楽しむ? 安心感が前提で楽しむ?不安を楽しむ? 単純に楽しむです。
お礼
ありがとうございます。情報の伝達という意味でのコミュニケーションでしたか。私は、ボディランゲージという意味でセックスの話が出たのかと思い、このように話を広げてみたのでした。単純に楽しむということで了解いたしました。
No.3です。 >双方が相手に自分を理解してもらいたいと望み、そう努めるということでしょう。 又、違います。 「相手を理解したいと望み、相手を理解する為に、自分に出来る限りの努力をする」 という趣旨を『わざわざ』省かないで下さい。 >しかし、あなたはコミュニケーションとは友好関係を築くことではないとおっしゃいましたね。 残念ですが、そんな事は書いておりません。 >「一般的には、……、仲良くなること」が目的ではありません。 これを『あげつらって』、そう言ってらっしゃるのでしょうが、直ぐ後に、 >互いを正しく理解し合った結果、「仲良くなる」事もありますが、「相容れない」事もあります。 と、書きました。『自分に都合の良い部分を曲解し、自分に都合の悪い部分を無視』しない様に。 「友好的な関係を築く」「仲良くなる」のは、 「互いを正しく理解し合った(=コミュニケーションが成立した)結果」 だと書いているのです。 「目的」と「結果」は別物です。 例えば、貴方が書いた様に、 「コミュニケーションの『目的』は仲良くなること」 だとすると、 AとBの間で Aが「Bと仲良くなりたい」為に、「Aは、Bが言う事やBの考えを肯定するのみ」になり、Aは、自分が嫌だと思う事にも、「嫌だと言えば、もうBに仲良くして貰えないのでは」と不安になり、「それは嫌だ」等と「自分の気持ちを相手に伝えられなくなる」可能性が高いですよ。 例えば、Bが、社会上・立場上・法律上問題がある言動や考え方を取る様になった時に、「AがBに対して、本当に友情や愛情がある」のなら、 「Bが、『自分の言動や考え方は社会上・立場上・法律上問題がある事だ』と認識し、言動や考え方を改めたり修正したりする」ことを『目的に、コミュニケーションを取る』でしょう。 例え「一時的にか継続的にか、Bに嫌われる(=Bと仲良しでなくなる)」としても、「AがBに真の友情や愛情を持っている」ならば、「Bの為に」、「Bに憎まれても」、「Bの言動や考え方には問題があり、それを改めたり修正したりするのが、B自身の為になるのだ」という事をBに理解して貰う為に、Aは全力を尽くす(=AはBと意志疎通を図る=コミュニケーションを取る)でしょう。 分かった事があります。 貴方は「相手(回答者)を否定し、受け入れない」という前提に立ち、「理解し合う気がない」のですね。
お礼
再回答ありがとうございます。別にあげつらうつもりはありません。あなたの記述に明晰でない点があり、それがあなたのご意見の価値を著しく低下させていると感じて指摘した、というだけのことです。しかし、ついに分かりました。 >「嫌だと言えば、もうBに仲良くして貰えないのでは」と不安になり、「それは嫌だ」等と「自分の気持ちを相手に伝えられなくなる」可能性が高いですよ。 あなたは「仲良く」の意味を、想像力を交えて、かなり特殊な意味合いでとったようですね。上記のように補足されて、初めて意味が分かりました。あなたの中では、「仲良く」という語は、友情や交遊などとは全く異なるニュアンスを持っており、卑しい媚び諂いのニュアンスを持つ語なのでしょう。しかし、私といえば、辞書に書いてある以上の意味は含ませておりません。したがって、あなたが何を言っているのか、皆目分かりませんでした。 やれやれ。これだけ大騒ぎして、これだけのこととは。さすがに、辞書を引きなさい、といって差し上げたい気持ちです。辞書を見れば分かると思いますが、あなたが想定しているな意味はありません。「仲良く」はもっとニュートラルな語です。あなたがおっしゃることは、ご自分で認めているように「可能性」であって、客観的に認められている語の意味とはかけ離れています。こういうことをやられると、会話が成立しません。 >貴方は「相手(回答者)を否定し、受け入れない」という前提に立ち、「理解し合う気がない」のですね。 いえ、単に、あなたと日本語の運用の仕方が違うだけに思います。明晰に書いてあれば、それはそれとして認めると思います。しかし、ここまで日本語の使い方が違うのですから、お話を続けることは難しいでしょう。私は空想などを差し挟まないで、日本語を使うことにしていますから。ともあれ、どうもありがとうございました。
- ukiyotonbo
- ベストアンサー率11% (91/788)
他人をよく知り、仲良くなることを目的にコミュニケーションしても断絶の確認が発生する場合が多いためコミュニケーションしない方が得策ではないかと言うことでしょうか。 1)「あなたと私の違い」を楽しめばよろしいんじゃないでしょうか。私と違うあなたであっても仲良くなれるし、あなたと私が違うからこそ「他人をよく知る」ことを目的にしたのでしょう。 2)あなたと私が同じならつまらないでしょう。多様性がなく、単一、単調。 違いをエンジョイしますから、相手は、楽しめそうな人ならそれでOK。 3)人間の究極のコミュニケーションはSEXです。
お礼
ありがとうございます。興味深く読みました。違いを楽しむ。おっしゃる通りですね。概ね、お話には同意しています。でも、もう少し話を先に展開させてください。 あなたのお考えによれば、多様性を楽しむということがポイントであり、違いを乗り越える快楽という点までは言っていません。しかし、もう一歩考えを進めて、違いが大きければ大きいほど、快楽は比例して増大する、と言う意見には、どうお感じになるでしょうか。コミュニケーションをセックスになぞらえていますが、 ・外国人であり、 ・言語が通じず、 ・文化や習慣が全く異なり、 ・歳の差があり、 などと、開きがある相手を想定してみてください。快楽は増大しますか。 なぜこのように問いかけたかと言えば、共通の基盤があって安心感があった上で違いを楽しむというお考えなのか、それとも、違いを刺激として純粋に楽しもうというお考えなのか、確認をしたかったからです。
二ヶ月ほど前に、貴方の街、パリを訪ねました。 夫と娘でおいしい食事をとっていると、隣に座っていた男性のカップルが、フランス訛りの英語で(!?)ニューヨークにいたときに会った、”馬鹿なアメリカ人の女達の話”を延々と続けています。 これは、何かの罠かも知れないと思ったけれど、ルーブルのピラミッドを望むレストランだし、まぁ、客質はそんなに悪くないと確信して、思い切って斜め向かいに座っている彼を、じっと見つめて、にっこり笑ってみました。 ”あぁ、もしかして、アメリカの人ですか、これは、悪い話を聞かれたな”、”ユダヤ人のジョークを飛ばしていたら、ユダヤ人と喧嘩になったことがあるんだよ~”などと話を変え、アフリカの貧しい国で育った生い立ちやら、なにやらかにやら、夫や娘も交えて、三十分ほど話して、またそれぞれのテーブルでの会話に移りました。 お隣では、”ダンサー達のほとんどノイローゼの体の鍛錬の様子”の話題で(英語で)盛り上がっていました。なぜうちの娘がパートタイムのバレリーナだとわかったか、不思議でしたが、もう、彼らと会話をする気もなかったので、そのままになりました。 これが、貴方の街の、見知らぬ人と話し始める会話のきっかけだとしたら、精神的に疲れることでしょう。こういう質問をなさりたくもなるというものです。 これは3)の答えでして、 a)見知らぬ人と、袖すりあうも他生の縁、と言葉を交し合うこと、或いは、食事やパーティの間の暇つぶし。 b)親しい人との関係を深めてゆくための、ほとんど唯一の手段。 c)団体同士で、自分のところに有利になるようにすすめてゆく交渉手段。 2)としては、私の場合には、自分に必要な情報を得るために、お話をすることが多いので、情報が得られなければ、他の人にあたってみる、ということになります。 1)ご質問の趣旨とは違うかもしれませんが、私は日本の外交について、少し疑問に感じていたことがあったので、ここで、書いてみます。 例えば、アメリカですと、欧米ではイギリス、中東ではサウジアラビアが同盟国です。ですから、何かことを起こすときには、必ず同意を得ています。911の時にもサウジアラビアがNO,といえばイラクへの侵攻はなかったでしょう。一応同盟国を作っておいて、他の国々とも親しくしてゆこう、という姿勢です。 日本で鳩山さんが中国よりの外交を始めた時に、それまでの同盟国であったアメリカと距離を置いて、中国の歓心をかおうとしていたように思うのです。中国はそれをうまくかわしたので、結局アメリカとも中国とも、離れ離れになってしまいました。それが、狙いだったのかもしれませんが、本来なら、アメリカと良い関係を築いておいて、一方、中国とも親しくしてゆくのが、普通ではないか、と疑問に思ったものです。 なぜなら、コミュニケーションをとる目的は最終的には、利益を得ることだからです。 すみません、途中ですが、でかける時間になりました。 またあとで、再訪できるかもしれません。とりあえず、今日はこれまで。
お礼
楽しいお話をありがとうございます。そうですか、クリスマスの休暇をパリでお過ごしになった。ルーヴルですか。美術館には私もよく足を運びます。ボードレールはセーヌ川を挟んで、ちょうどあの向かい側にすんでいたのですが(つまりオルセーの横)、そういう意味もあって、私はよく行く場所です。バレエということなら、ガルニエ宮などにもいらっしゃったのでしょうね。 おっしゃるお話は、実に日常茶飯事です。ここは見知らぬ人がいたら、面白そうだから話しかけてみるという都市です。お返しにと思って雑談を披露する次第ですが、例えば、私は人と連れ立って歩いていると、「カップルなのか?何語で話しているのか?結婚する気はあるのか?」など、ちょっと普通では聞かれないことを見知らぬ人から聞かれたりします。また別では、一度、クリスマス直前でふられたという見知らぬ方が、路上で私に絡んできて、「東洋人の異性を紹介してくれ」といってきたことがあったものです。三十分ほど話を聞いて慰めて、やって終わりました。大都市とはいえ、下町的な要素が残っているような印象です。 さて、なぜ、私がこの質問をしたのか?と間接的に問うてらっしゃるようです。いえ、私はパリの特性は、むしろ気楽だと思うのです。パリくらいオープンだと、一度失敗しても次がある訳ですから、かなり楽に話すことができると思います。しかし、閉鎖社会ですと、一度失敗すると、大変な事態を招くことがあります。私が念頭に置いているのは、むしろ、後者の日本の場合です。 >コミュニケーションをとる目的は最終的には、利益を得ることだからです。 これはおっしゃる通りですね。その場限りの楽しみ、長期的にみた経済的な利益など、「利益」の中身は様々あります。どのような利益があるかについては、すでにabcと書いてくださった通りです。ただなんにせよ、不毛な関係になるのなら、逃げておきたい訳です。問題はこの「利益」をどのように設定するか、にかかっていますね。過剰な期待をすると、大体はよいことになりません。おそらく鳩山さんは、中国側に足下を見られたのでしょう。
- heart_mind
- ベストアンサー率13% (5/38)
>自分一人では内向的、傲慢になる あれ?どちらも他者とのやりとりがなければ、そういう風に感じられない気がする んだけど。 直接指摘されるなり、相手が外向的で思いやりのある人だったら、それに比べて と感じるわけだから。 毒と薬の例えは面白いと思ったけど 毒は確かに体に良くないですが、今の自分には毒なのかもと知ることができるし、 何故毒の様に感じたのかとか、もしかしたら自分も誰かにとって毒になってるの かもとなんて考えるきっかけにもなるわけで。 断絶の経験もそんな意味合いがあるんじゃないでしょうか。 相手を知って、自分を知るみたいな。 少なくとも、もし全く違いがないと、なにも新しい発見はないということ にならないでしょうか。 恋愛などの距離がつめた関係の場合程、自分の嫌な面ばかり感じてしまいますから エネルギーを温存とのかねあいで距離間のペース配分は必要なんだろうけど 昔入院してた時、カロリーを消費させる為に本を読むのがあんがい有効だと思った ことがありました。体の内側に嵐を起こさせるにも、物理的な栄養が必要なんで しょうね。
お礼
ありがとうございます。 >あれ?どちらも他者とのやりとりがなければ、そういう風に感じられない気がするんだけど。 どうもハートマインドさんのご回答を読んでいると、全くの先入観なしに、相手と何が起きるかという予測をいっさいすることもなく、とにかく交際してみると書いているように読めるのです。食べてみるまでは何も分からない。そういうことでしょうか? しかし食べ物の比喩を展開すると、人間はもう少し、慎重ではありませんか。毒キノコとマッシュルームの区別は、見ればつくでしょう。そして、今日は少し酸っぱい果物が食べたいなと思えば、手当り次第に周囲のものを口に放り込むのではなく、イチゴとか、パイナップルなどを選んで口に入れる訳です。 とにかく口に入れてみる、ということはないのじゃないでしょうか?
- 来生 自然(@k_jinen)
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(1)と(2)について 「違う」というのは当然だとしても「何が違うのか」について明確に理解することは大切なことです。それを「大切なことだと思わない」とうそぶくにせよ、少なくとも「知ろうとした」という行為を否定することはできません。その行為によって「未知」のものが「既知」へと変化します。 ただし、「完全に既知なるもの」には到達不可能です。「「相手を知っている私」を知っている私」・・・」と無限の自己言及に代表される不完全性定理へとスパイラルしていくからです。 「人智」なるものは、そういった「無限」という概念をも扱いうるがゆえ、現実から乖離した仮想的なものへと容易に移りゆきます。「共感する」や「共通認識を持つ」ということも、本質的には「仮想的」なるものかもしれません。 しかしながら、少なくとも具体的な事物ではない「共感」とか「共通認識」とかいった概念については、(仮想的に)知的に共有可能です。でなければ、そういった「概念」すら生じなかったでしょう。知的に共有可能なことについては、そのように「仮想的な」範疇を含んでいるからこそ成立しうると「知っている」のであれば、生じうる問題を相互に回避したり、上手く扱うことができるかも知れません。そういったことは「ごく希に」ではなく、日常茶飯事に皆が行っている事でもあるでしょう。 ようするに「絶対的に共有しあえない」からこそ、「共有し合いたい」といった願望(思い、情)が芽生えうるのだと思います。あるいは「助けたい」とか「して欲しい」とか「分かち合いたい」とかいった情動が生じうる相手(そうして自己、さらに両者の関係)が必要不可欠な要因といえるでしょう。 (3)について 上述のように、コミュニケーションは「知」(言語)のみで成立するものではありません。仰るように「知」は事物を明確化し分断します。相互に求めようとする心の働き(情・意)も大切な要因です。心を単純に「知・情・意」と分けて理解しようとすることも「知」による分断のひとつですが、そのように分断されて理解したつもりになっている「情」や「意」といった概念ですら、「知」の外部にあると「知」自身が認識しているわけです。 そうして、それらはバラバラに分断されているわけではなく、統一的に「わたし」とか「こころ」とかを形作っているわけです。 「違い」を知的・幻想的に認識することで「境界」が生じますが、本質的には、ありとあらゆるものは、何らかの関連性を持って繋がり合っています。完全に「孤立」するものはあり得ません。 「相互に繋がり合っている」ということは、静的には成立し得ません。「関連性という繋がり」は一方的であれ、双方向的であれ、なんらかの動的な流れが付随します。 そういった「流れ」を「意図的」に行うのかどうか(意図的と捉えるのかどうか)によって、それを「コミュニケーション」と呼ぶのかどうかが決まるのかも知れません。
お礼
ありがとうございます。動機という重要な点について触れてくださいました。仮に相手と結びつきたいという強い同期があるのなら、結果がどうであれ、そうする他なかった、と開き直るべき問題かも知れません。 とはいえ、私は「完全に知っている」という段階は、他者に対して訪れることはないと考えています。なぜなら、完全に知っているのであれば、それはもう、「他」というくくりではないからです。したがって、 >「「相手を知っている私」を知っている私」・・・」と無限の自己言及に代表される不完全性定理へとスパイラル そのスパイラルが起きる前の段階で、私は歯車を止められるようです。いや言い換えますと、おっしゃっている意味がその後、理解できませんでした。どうやらご回答の理屈ですと、そのスパイラルがすべての仮想を成立させるための条件になっているようですが、もう少し、その詳細を教えていただけないでしょうか。 最後に、コミュニケーションには二通りあり、知と情動があって、地の方は分断する性質があるというご指摘は、その通りだと感じました。しかし、 >「知」の外部にあると「知」自身が認識しているわけです。 これの意味が分かりませんでした。先のスパイラルと関係ありそうですが。
補足
誤字がありました。申し訳ありません。 >最後に、コミュニケーションには二通りあり、知と情動があって【地】の方は分断する性質があるというご指摘は、その通りだと感じました。 括弧でくくった箇所ですが、「地」ではなく、「知」です。
No.3です。 先の回答に対するお礼等から、 貴方が盛大な勘違いをなさっている様なので、補足します。 >では、成熟していると自負するあなたにとってコミュニケーションとは何なのか。 この後の、 >相手が役に立つ能力を潜在的に有しており、自分のために働いてくれたら、それでよいというお考えのようです。 これが、「私の回答に対する、壮大な勘違い」です。 (或いは「貴方にとってのコミュニケーションの『真なる』目的」ですか) >所謂「コミュニケーション能力・技術」よりも、「一個人の性格や、その人が積み重ねてきた様々な経験・知識・情報・技量・感性等を最大限活かす意志があるか否か」ですかね。 この部分は、 「『相手との意思疎通を図る際に』一個人の……最大限生かす意志が『一個人本人・その人本人に』あるか否か」 という意味ですよ。 つまり、 「他者との意思疎通を図る際に、自分自身の性格、自分自身が積み重ねてきた様々な経験・知識・情報・技量・感性等を、最大限活かす努力を自分に課す」 という事です。最初から、こう書けば誤解が生じなかったですかね。 >これは要するに、あなたの役に立とうという意志があるかということですね。 >自分の役に立てばよい。そうでなければ、そのように使役するとも続く一節で述べていると読めました。 >なかなか覇王然としたお考えです。 これが「勘違い」「読み違い」なのです。 「自分の持てるもの・自分の中にあるものを最大限使って、相手との意思疎通を図り、共通理解を目指す」 この位噛み砕いて書けば、ご理解頂けますか。 >しかし私の質問は、 もっと幅広いものであって、友情、恋愛、愛情など、仕事以外 の関係をも含んでいます。 そうでしょう。それも踏まえて回答しました。 「他者との意思疎通を図る際に、自分自身の性格、自分自身が積み重ねてきた様々な経験・知識・情報・技量・感性等を、最大限活かす努力を自分に課す」 「自分の持てるもの・自分の中にあるものを最大限使って、相手との意思疎通を図り、共通理解を目指す」 という、「他者との意思疎通が上手く行く為の、自分自身の中の要因」を、 貴方が『勝手に』「自分が利用価値があると思う、他者の能力」と読み違えた為に、伝わらなかった様ですが。 友情、恋愛、愛情、仕事のいずれでも、 「相手との意思疎通を図り、共通理解に至る為には、誠心誠意、全力で、自分の持てる全てを以って相手に向き合い続ける」 のは、当たり前の事です。だから、 >あなたのお話は仕事の場合を考えるにあたっての参考にさせていただくことにしましょう 「貴方の勝手な解釈(誤解・曲解)」のものではなく、 「他者との意思疎通を図る際に、自分自身の性格、自分自身が積み重ねてきた様々な経験・知識・情報・技量・感性等を、最大限活かす努力を自分に課す」 「自分の持てるもの・自分の中にあるものを最大限使って、相手との意思疎通を図り、共通理解を目指す」 「相手との意思疎通を図り、共通理解に至る為には、誠心誠意、全力で、自分の持てる全てを以って相手に向き合い続ける」 という、「私の回答の真意」の方を参考になさって下さい。 「貴方の様に」、「人は他者を利用する事ばかり考えている」という発想では、友情、恋愛、愛情と同じく「仕事も」上手く行きませんよ。 貴方自身の事を憶測すれば、貴方こそが、 「所詮、人は他者を利用する事しか考えていない」 「だから、他人とコミュニケーションを取るのなんて無駄な事なのだ」 という「歪んだ固定観念」をお持ちなのではないですか。 だから、私の文章の「何処にも書いていない」ものを貴方の頭の中で追加して、 「『相手が』役に立つ能力を潜在的に有しており、『自分のために』働いてくれたら、それでよいというお考え」 と思ったのだろうと推察しました。 >「一個人の性格や、その人が積み重ねてきた様々な経験・知識・情報・技量・感性等を最大限活かす意志があるか否か」ですかね。 ここで「自分(自身)の・自分(自身)が」ではなく、「一個人の・その人が」と表現したのは、 「自分自身の『特異な・特別な・個人的な』要因ではなく、『一般的な』要因」 という意味合いを含ませる為です。 「その人が積み重ねてきた……最大限生かす意志が『その人に』あるか否か」 と書くと、くどい表現になるかと思い省略したのですが、 「貴方と意思疎通を図る」には、「略さず、全て書く」事が大事だった様です。
お礼
補足回答をありがとうございます。 >「人は他者を利用する事ばかり考えている」という発想では、友情、恋愛、愛情と同じく「仕事も」上手く行きませんよ。 そうでしょうね。失礼ながら、仕事にせよ、なんであれ、私はあなたがうまくいっていない方だろうと思っていました。有り体に言うと、参考にしますという言葉は、お礼欄である以上、体裁を整えるために書いておいただけです。誤解と強調なさるので、結構だな、と感じました。さて、本題。 >その人が積み重ねてきた……最大限生かす意志が『その人に』あるか否か 要するに、双方が相手に自分を理解してもらいたいと望み、そう努めるということでしょう。しかし、あなたはコミュニケーションとは友好関係を築くことではないとおっしゃいましたね。だとすれば、そもそもコミュニケーションしたいという気も起きないと私には思えます。こういう意味で、私はあなたのおっしゃることに中身があるように感じられないのです。
- usagiminnto
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私は、長文や長話が苦手です。言っているうちに途中から論点がずれて しまうのです。簡潔に言い過ぎると舌足らずになりそうで心配でもあるのですが 矛盾していますかね。 質問者の矛盾点に関しては多少異論がありますが、それは触れないようにします。 (1) 「あなたは私と違う」=「断絶の確認」が理解出来ませんが、思考や嗜好は 違うのが当然で断絶ではなく「断絶の距離の確認」がコミュニケーションの 大切な部分だと思います。違いの原因が感性や経験の違いか知識の違いか 見る角度や表現の違いかそれを擦り合わせるのが大切な行動です。 それは、有益な展開として歓迎致します。 (2) (1)で要因も回答済みでしょうかね。質問者の言う「断絶」の距離を修正しょうと 考える方は可能性のある相手と考えます。 「リンゴを語る時に外皮の色を言うか果肉の色を言うか」が誤解や断絶の確認なら 美味しいや匂いが良いはコミュニケーションで断絶の距離が埋まります。 (3) コミュニケーションは相手を理解するもので拒否は判断がするものです。 思考を語るのがコミュニケーションです。それ以上でもそれ以下でもありません。 アイコンタクト、表情や態度、行動はコミュニケーションの技法ですが 言葉にはかないません。 コミュニケーションの前提が違っている様に感じます。
お礼
ありがとうございます。長文が苦手とおっしゃるので手短に書きますが、「擦り合せ」ができればそれにこしたことがないのです。しかし、それができないこともあると言えませんか。私の意図しているのは、リンゴのどこを問題にしているかという単純な問題ではありません。同じものを前にしていて、根本的に考え方が違う場合にどうするか、ということです。私に遠慮なさらなくて結構ですよ。
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お礼
ありがとうございます。そうですか、キムタクが。いや、念のために言いますと、私は知りませんでした。しかし 我が意を得たりといってよいと思います。今度機会があったら、観てみたいと思います。 >「違う」と言う事が分かる事は、コミュニケーションをする上で重要です。そして違う事が分かれば、その対策が出来るので、コミュニュケーションを円滑にする事に役立つでしょう。 おっしゃる通りですね。私もこの人は合わないな、と思った相手ほどうまくいくということがあります。全く異なる人間と認識するので、何を言われても全く気にならないし、相手の行動パターンを超然と見越す余裕さえ持てることがあります。 >それと対応によって埋められる壁と埋められない壁があります。埋められない壁の人とは付き合うのをあきらめたほうが良いでしょうが、そうでない場合は埋められるなら埋めたほうが良い。かもしれない。 それもコミュニケーションをしないと分からない事です(貴方が、相手の眼を見ただけで、その人の人格や隠された人間性を見抜く強力な審美眼の持ち主であるならば、そのような面倒は不要です。そう言う人は世の中に稀にいると思います) 審美眼ときましたか。以前、美についての問いをあげていたことがありますが、それを知ってのことなのでしょうか ・・・(笑)。私自身は、経験上、人間には類型があるような気がしています。厳密に何タイプあるなどと体系化している訳ではありません。しかし、ちょっとした癖から判断し、「ひょっとすると、これはまずい相手だな」と思うと、まずくなる前に、逃げることにしています。動物的防衛本能というところでしょうか。 >究極を言うと、効率的、かつ非暴力的に社会を構築するのに必要な唯一の手段。でしょうね。 だから、こんなに普及しました。 しかしそれが、相手と仲良くする手段に用いられるとは限りません。非暴力的に侵略(個人の場合も該当する)する手段にも持ちいります。 なるほど、「手段」とおっしゃる。No1の方の見方を補ってくださったように思います。社会を構築するという目的があって、その一手段としてコミュニケーションがあるとお考えである訳です。 しかし非暴力的に侵略するとは、どういう意味ですか? 侵略という行為そのものが既に暴力的なので、これが非暴力的という意味が、今ひとつつかめませんが。物理的な暴力を振るわずに、という意味でしょうか。しかし、そうであるとすれば、言葉の力を少し軽く観ていることにならないでしょうか。言葉でグサリとさすこともできると思うのですが。 ともあれ、どうもありがとうございました。
補足
【締めるにあたって】 今回の問いは、コミュニケーションという語について、様々なイメージがあるということに驚かされるという結果になりました。コミュニケーションとは、 ・ 情報伝達行為にすぎない(transmissionの意味) ・ コミュニティーを築く(語源学の影響か。No 14のお礼欄参照) が、大体の皆さんのご意見だったでしょうか。私としては後者の意味をふまえた上で、これを噛み砕いて「仲良くなる」と表現したのでした。 最初にコミュニケーションという語を定義してから始めればよかったかもしれませんが、辞書の中身を並べ立てては、興もそがれるでしょう。衒学的になることを恐れて、省略してしまいました。 これが逆に、不明瞭な結果を招いてしまったかもしれません。お詫びいたします。 しかし、ここの問いで聞いているのは、コミュニケーションとは何か?というだけではありません。コミュニケーションが他者との共通点communを探る行為であるといったにせよ、その反面、共通ではない点が当然ながら発生します。そのときに、どのようにして生産的な関係を築くことができるのか?と問うているのです。いろいろなご見解がありました。 ・ コミュニケーションをするまで違いも分からないから、結果的に断絶になったとしても、仕方ないことである。 ・ コミュニケーションとは自らを知る為に行うものなので、関係が破綻しても、自己を知るという意味でのメリットがある。 これらは、言ってみれば、「仕方のないことじゃない?」というご回答です。だが、私としては、コミュニケーションが相手と結びつくことを目的としていながら、結びつけないという結果に陥ってしまうという矛盾を重く考えていただきたかったのでした。この点に触れてくださったという意味で、この回答をBAに選びました。 断絶を認識したなら、逆に開き直って、相手の領分を侵さない形で交流ができる、というご意見だと思います。キムタクがドラマで既に語っていたことだそうで、私は後で見てみたいと思います。さぞ熱いのでしょう。 ちょっと早じまいすぎるかもしれません。私から話をふっておいて、閉じてしまうとは失礼なことで、ハートマインドさん、ごめんなさい。また再訪問してくださるかもしれないというCiaopolpoさん、ごめんなさい。 しかし、この問いそのものを、また練り直して別の問いとして出直した方が、建設的かとも思ったのです。 皆様、ご参加、ありがとうございました。