• 締切済み

悟りとは成るようになる

莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)の回答

回答No.14

No.9 お礼を戴きました。ご質問が悟りということなので、阿ることも低下させることもなく自分の目指していることを書きました。 論語の孔子の自叙(為政)  子曰、吾十有五而志乎學、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而從心所欲、不踰矩、 の最後のフレーズのようなことを内容として考えると遠い話ですが、極く当たり前に思ってください。 孔子のいう状況は悟りというより、そうなってきたという振り返りですね。 悟りを説明してはいない。しかし矩を云い、欲するに触れている事は参考になります。その矩と欲するの内容が問題ですね。そしてそこへの方法と道が。 私は、Self-Realization Fellowshipというヨガの哲理の勉強と精進をしてきております。30頃からまだ40年ほどで、孔子の70を相当越えてしまいましたが。 お礼の文句:いっている事はよく判ります。 理解してくれれば、私の申し上げている事はお判りいただけたと存じます。 気軽であって気軽のままではない。絶対であって決して悩みやくよくよのない、泰然たる状況です。 krya1998さんほど知的水準が高くないですから 悟りは知識でも知的水準でもありません。自分が背負って来ている課題に対処し、それを乗り越える事です。 私などは人生は苦しみだという自覚だけですね 人生の苦しみ。その原因や質、存在根拠や基盤は何ですか。 人生の苦しみを本当に知る人は、人生の苦しみをそのままにはしない。 私はそのままにしている事のできる生活や人生環境ではありません。 そこで終わる事はできません。

関連するQ&A

  • 悟りを開くとは何ですか?

    私の回答を評価して 頂けると幸いです? 参照! http://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q10128943180 私の回答! 質問 悟りを開くとは何ですか? http://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q12128919567 自分自身を 偽りなく直視する事が出来 る事が 悟りであり、 全ての生き物が 自分の近親者の様に感じる事が 悟りであり、 自分自身が 幻想の世界(夢)に 生きている事を自覚するのが 悟りであり、 全ての物事の儚さと尊さに 気付く事が、 悟りであり、 悟りを開くと 過去(記憶)と未来(妄想)ではなく 現実の一瞬を生きれる様に成れる! しかし 副作用として 悟ると言葉が必要無くなるので、 言葉を徐々に忘れていきます。 過去への執着心が無くなるので 物事を記憶しなくなります、、、 、、、、、、、、、、 全てを悩みを 解決出来る様には成るが、 身体から解放されない為に 全ての苦しみを超越出来る死を 恋い焦がれる様に成る! 悟った後の苦しみについて? http://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q11125327881

  • 悟り(さとり)

    悟ることを悟りと言いますが 今日(此の頃)貴方は何を悟りましたか? 私は此れですね 「人は周りの力によって生かされている」 ですね・・ 貴方の悟りを教えて下さい、お願いします

  • 「さとり」

    「さとり」という物語(怪談?)が載っている本を探しています。 文庫、漫画、どちらでもいいです。出版社、文庫名など教えてもらえるとうれしいです。 「さとり」は、他の生き物の心が読める妖怪の話です。 ちょうど今やってる映画「サトラレ」の逆でしょうか? (「サトラレ」は別に妖怪じゃないけど(汗)) 話の概要は知っているのですが、本当に読んだ事が無いので読んでみたいです。 よろしくお願いします。

  • 悟りを開く直前の人

    悟りを開く直前の人は、自分でその様な状態になってきている事は、自覚できますか?

  • 悟り

    仏教的悟りやキリスト教的悟りなど、悟りにも色々と定義があると思いますが、 自分というものを完全に客観的に見れるようになり 自由自在に自分をコントロールできる状態が悟りでよろしいですか? 現代的に言うとメタ認知ですかね?

  • 悟りを開く

    「悟りを開く」どういったことなのか説明してください。 「悟りを開く」で辞書を引いて、記されていない言葉でお願いします。 真理と言われるものを説明できなければ「悟りを開く」にならないのか? 知識を頭に詰め込んでも、自身の思想が邪魔をして会得できない場合があり、その場合、悟りを開いたことにならない。 真理という知識を外から詰め込まなくても、内から生まれて、例えその真理を説明できなくとも、悟りを開いたことになる? でしたら、私的には 考えない・悩まない・迷わない ようするに「阿呆になった」 と言っていいのでは?と考えていました。 悩み考える人間のほうが良質なのではないか?

  • これが さとりだ。

     みっつのことを挙げます。  まづ さとりのついての前提として 情報公開が大事だという点が来ます。  情報が不足していたり間違っていたりすれば さとりの知恵も出にくいというものです。  確かにさとりは 存在の全体としての――既知と未知とをあるいは無知をもふくめての――境地です。全体を隅々までひとつ残らず知っているということではないはずです。  けれども そのときそのつど知恵を発揮するには 関連することがらについての必要で十分なただしい資料や情報がなくてはならないと思われます。  生活日常でのこともフクシマなどの社会一般のこととしても 情報公開が前提になると考えます。  次には ひとりの人の主観内面にかかわったことがらとしての情報の獲得になると思います。  あのとき A さんはわたしにひどいことを言った なぜかを聞きそびれてしまって時も経った。と思っていたとき ふとヒラメキが得られる。ということがあると思います。--あぁ なるほどあれは しかじかかくかくの事情があってのことだったか。という心の問題としての情報の獲得です。  つまりは そういった過去のことがらだけではなく いま現在の人間関係におけるわだかまりや諍いなどなどについても あの人の心はこれこれこういうふうであるのかと知り得れば ずいぶんと互いのコミュニケーションは なめらかに行くのではないか。  日本ではよく《無私》ということを聞きます。それは こういう場合に当てはめるとよいのではないでしょうか? すなわち 劣等感や優越感 あるいは孤独とその不安といった《わたくしごと》よりも まづそのいまの情況に就きその内容を知る。そしていまの問題としては殊に 相手や当事者の心を知る。  これは さとりの問題だと思います。三人よれば文殊の知恵と言いますが 互いに自由な自己表現が出来るようにお互いが心を開きつつ臨む。  特に心の問題を互いに解決しておくこと。あの人この人などなど世間との和解を得ておくこと。なかんづくわたし自身との和解を得ること。心がやわらがしめられてあること。こころのまどが明けられていれば よいのではないでしょうか。  三つ目は 聖書から引きます。長いです。  ◆ 悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす ~~~~~~~  ――ルカによる福音書8:26-39 ――  26 一行は、ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。  27 イエスが陸に上がられると、この町の者で、悪霊に取りつかれている男がやって来た。この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた。  28 イエスを見ると、わめきながらひれ伏し、大声で言った。    ――「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。      頼むから苦しめないでほしい。」  29 イエスが、汚れた霊に男から出るように命じられたからである。この人は何回も汚れた霊に取りつかれたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた。  30 イエスが、「名は何というか」とお尋ねになると、「レギオン」と言った。たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである。  31 そして悪霊どもは、底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないようにと、イエスに願った。  32 ところで、その辺りの山で、たくさんの豚の群れがえさをあさっていた。悪霊どもが豚の中に入る許しを願うと、イエスはお許しになった。  33 悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだ。  34 この出来事を見た豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。  35 そこで、人々はその出来事を見ようとしてやって来た。彼らはイエスのところに来ると、悪霊どもを追い出してもらった人が、服を着、正気になってイエスの足もとに座っているのを見て、恐ろしくなった。  36 成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれていた人の救われた次第を人々に知らせた。  37 そこで、ゲラサ地方の人々は皆、自分たちのところから出て行ってもらいたいと、イエスに願った。彼らはすっかり恐れに取りつかれていたのである。そこで、イエスは舟に乗って帰ろうとされた。  38 悪霊どもを追い出してもらった人が、お供したいとしきりに願ったが、イエスはこう言ってお帰しになった。  39 ――「自分の家に帰りなさい。      そして、神があなたになさったことを      ことごとく話して聞かせなさい。」  その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわちイエスなる男は このゲラサの人の心の中の状態が分かった。それは この人がイエスを見て 自分の心を――無言のうちに――開いたからである。イエスは その心のさまを無言のうちに知った。に過ぎない。  たとえばこのようにして 世間との・そしておのれみづからとの和解を得るということ。  それは 必ずしもほかの人に依存するのではなく 自分自身を自分自身のこととしてたもちつづける。おのれにとって固有のおのれみづからのとき(時)をまもる。そうすれば より高い境地の人に出会ったなら おのづとわが心が開かれる。窓は全開。すでに 日本晴れとなり わが心はやわらぎとやすらぎを得る。    これが 《さとり》――という動態――だと考えます。    この《さとり革命》をとおして おのおの内発的にわれらが社会の――ひいては世界の――衣替えが成るのではないでしょうか? ご見解をお寄せください。

  • 悟りとは?

    俗に大悟十八、小悟無数といわれます。 禅者は悟りの体験を最重要視するのでしょうか 悟らないものとは話が通じないとも言ってるようです。 悟りの状態とはなんでしょう?幻想でしょうか。 そもそも悟りが目的になってはいないでしょうか いま、ここに現象するあるがままを直接に知覚すること ができるには、さとりを含むあらゆる知識経験から離れてはじめて可能になると思われます。 言葉や経典による知識はひとつの固定観念ではないでしょうか 悟り至上主義はいびつなものになってはいないか?

  • 悟りとは

    悟りを開いた状態と言うのはどう言う状態なのでしょうか? 「悟り」という言葉は仏教でよく出てくるように思うのですが、他の宗教でも似たような概念はあるのですか? また、悟りを開いた方は実際この世に現存するのでしょうか? 「私は悟りを開いている」という方がいらっしゃいましたら何故そう思うのか、単なる思い過ごしでない事を示してください。 悟りを開いた所以なども教えていただけるとありがたいです。 宗教関係の方はどう言う宗教なのか、専門家の方は何の専門家なのかお知らせの上、お答え頂ければと思います。

  • 悟りについて教えてください。

    悟りを開くと趣味がなくなると聞きました。悟りを開く直前まで趣味はあるものなのでしょうか?